僕はまだ
蛍光灯に照らされ、白銀の髪を煌々と輝かせながら、カノンは扉の残骸とうつ伏せの死体を乗り越えると、ユズリハの目の前で膝をつく。
彼は口を閉ざしたまま、全身を観察するように彼女の姿を眺めた。
わずかに汚れてはいるものの、傷や怪我などはどこにも見当たらない。
カノンはかすかに息を漏らすと、
「よかった。まだ酷いことはされてないみたいだ」
安心したように頬を緩め、そっと手を差し伸べる。
「……遅いですよ、もう。ほんと危ないとこだったんですから」
わざと悪態を吐きながら両手を差し出し、ユズリハは彼とともにゆっくりと立ち上がった。口角を吊り上げる彼女の目尻には、うっすらと雫が溜まっている。
「悪かったよ。これでも全速力で駆けつけたんだ。確かに遅かったかもしれないけど、僕の頑張りに免じて、ね?」
「……依頼料、ちょっとだけ安くしてくれたら、考えてあげなくもないですけど」
「だめだめ。悪いけどそこだけは譲れないな。第一、それとこれとは話が別だろ?」
「む、別にいいじゃないですか」
「だめだって。こっちも生活がかかってんの」
聞き入れる素振りを全く見せないカノンに、ユズリハが手錠をガシャン、と鳴らした。どうやら抗議のつもりらしい。
「そんなことしてもだめなもんはだめ……って、いつまで付けてんの、それ」
「私だって好き好んでつけてるわけじゃありませんよ。外せるものならとっくに外してます」
そう言って、ユズリハはもう一度鎖の音を響かせる。
「それじゃあ今のうちに外しちゃおう。さ、手を出して。鎖の部分だけでも斬っちゃえば楽になるだろ」
「いえ、その必要は……ほら、さっきカノンさんが倒した人。あの人が鍵を持ってるはずですから」
刀を構えようとするカノンを制止すると、ユズリハは出入り口の前でうつ伏せになっている死体を指さしたまま、ぴくりとも動かなくなった。
「……まさか、取ってこいって言うんじゃないだろうね」
なんとなく感じた嫌な予感を口にすると、ユズリハはまるで正解とでも言わんばかりに繰り返し頷く。
「……だって、死体って怖いじゃないですか……」
「よくそんなことが言えたね、僕を前にして」
そう言って、カノンは血と脂に塗れた己の姿を見回す。
しかしユズリハは決して譲るつもりが内容で、
「いいから探してきてください! これは依頼人からの命令ですよ!?」
と声を荒げるものだから、カノンは渋々うつ伏せの死体を漁り始めた。
……しかし彼女、ほんの少し見ない間に、なんだか妙にたくましくなったような気がする。別れてからまだ一日も経っていないというのに、ずいぶんな変わりようだ。
彼女の変化は、この部屋で起きた出来事にも現れている。
扉を斬る直前に聞こえた一発の銃声。部屋に入ってすぐ目に飛び込んできた光景を思えば、この場で起こった出来事が、なんとなく想像がついた。
(そうか――自らの意思で、生きようとしたのか)
怪異の力に頼らず、誰かに助けを求めるわけでもなく。
その強さは、あのときの自分にはなかったものだ。
――死にたくない。ただそれだけだった。決して、生きようとしていたわけじゃない。
だからこそ、今の彼女に感心した。すごいとすら思った。
もっとも、その気持ちを素直に告げるつもりは毛頭ないのだが。
スーツの内ポケットから鍵を抜き取り、手錠のロックを解除する。
ようやく取り戻した自由を実感するように伸びをするユズリハの視界に、ふと見慣れない人影が写り込んだ。
寝かされていた大きな装置のすぐそば……影に隠れるようにして、スーツ姿の女性が気を失ったまま倒れていた
「あれ、そういえばこの人って……」
確か、崩れた扉の奥から最初に現れた人。
「ああ、その人ね。ちょうど扉の近くにいてさ。まあ気にしなくていいよ。多分生きてるだろうし」
言って、男の死体を漁り終えたカノンが立ち上がる。
「さて、錠も外せたし、そろそろ行こう。死体がある場所で長居するのはよくなさそうだし」
「脱出経路は把握してるんですか?」
「まあね」
素っ気なく答える。
把握している、どころじゃない。この地下室に限れば、目を瞑っていたって目的地へたどり着けるだろう。
カノンの微妙な変化をユズリハはなんとなく感じ取るも、それ以上は追求することをせず、ただ一言、
「なら安心ですね」
とだけ返す。
カノンは何も言葉を返さず、刀を右手に携えたまま部屋を出る。
ユズリハが男の死体から何かを抜き取っていることに、彼はまったく気がついていなかった。
実験室を出てから、二人は真っすぐ一階へと向かい始めた。
地下室がいくつも用意されているこのフロアは直接外に繋がっている通路が存在せず、完全に脱出するためには、どうしても一階まで戻る必要があった。
つまり、敵も味方も通る道は同じ。
だからカノンの予想通り、何十人もの機関の人間たちが、彼らの進む道を塞ぐように待ち構えていた。
「見つけたぞ大罪人!! いいかお前ら、絶対に逃がすんじゃ――」
先頭で意気揚揚と叫んだ中年男の首が、瞬きの間にぽとりと床に転がった。
敵の動きがわずかに止まったのを見て、
「ユズリハ」
と一言声をかける。
彼女はこくりと頷くと、そそくさと物陰に身を潜めた。
再びカノンが機関の面々に顔を向け、殺気を放った瞬間――激しい銃撃音が、狭い通路を震わせるように轟いた。
道幅を埋め尽くすように、様々な間隔で銃弾が飛び交うその嵐の中に、傷を負うことも厭わず、白銀が稲妻を走らせる。
首、喉、
急所を一太刀で切り伏せると、息絶える姿を意に介さず、次の獲物に刃を向ける。
上の連中と同じく輝きを帯びる弾丸。それが体を貫こうと、やはり彼は止まらない。決して怯むことなく、ただ目の前の敵を殲滅し続けている。
実力差は圧倒的。機関員たちもみな、己が生きて帰れるなどとは思っていないだろう。
しかしこの優位にあっても、カノンは小さな焦りを感じていた。
薬を飲んでから既に十五分ほど経っている。
傷口の痛みは徐々に強くなってきているし、治癒の速度も最初に比べて少しずつ落ちてきていた。
あまり悠長にしてはいられない。
彼らを退けてもまだ、倒さなくてはならない相手が残っている。
……だが、もう一度飲めば、あるいは……。
意識が反れたわずかな瞬間、視界の端に小さな影が蠢いた。
「――うおおおおぉぉぉっ!!!」
突如、小柄な機関員が雄叫びをあげながら荒々しく駆けだすと、カノンの死角をすり抜けるように、彼の脇を通り抜けた。
「っ、しまった……!」
舌打ちを漏らしつつ振り返ろうとするも、他の機関員たちの捨て身の特攻がそれを許さない。
「邪魔だ!」
銃撃が止まない中、腕や足にまとわりつく彼らを次々に切り刻むも、群れは決して怯まずその勢いを保ち続ける。
彼らは理解しているのだ。女一人さえ抑えてしまえば、カノンは成す術を失うことを。そしてそれは、間違いではなかった。
「逃げろ、ユズリハ!」
そう叫ぶも、返事はない。
既に捕まってしまったのか……そう思ったのも束の間。
パァン――
激しく轟き続ける銃声に割り込むように、背後から一発の乾いた発砲音が響いた。
辺りの空気が一瞬だけ凍り付いたのを見逃さず、カノンは取り囲んでいた連中をぐるりとなぎ払うと、すぐさまユズリハの方へと首を向ける。
銃声の鳴った方向――視線の先に広がる光景に、彼は思わず目を見開いた。
その場に倒れる人影――彼のそばを通り抜けた機関員。胸の部分から血を垂れ流している。
それから、硝煙の立ち昇るピストルを両手で握りしめた、ユズリハの姿。緊張したように息を切らしながら、がっと強く目を見開いたまま、小刻みに震える己の手をじっと眺め続けている。
すっかり青ざめた面持ちの彼女の姿を見て、カノンは咄嗟に自分の口元を手で覆った。
こんなとき、本来であればユズリハを心配する表情を浮かべなければならないはずだ。しかし彼の口角は、どうしようもなく吊り上がっていた。
心配の気持ちは確かにある。だがそれよりも、無性に嬉しさがこみ上げてしまったのだ。
彼はもう一度振り返り、表情を悟られないようにしながら口を開く。
「大丈夫かい」
「……はい」
いつの間にか再開した銃撃の中に聞こえたその言葉が嘘だということは、すぐにわかった。
さっきの機関員は地面に伏したまま、ピクリとも動かない。
「悪いけど、もっと急ぐよ」
わずかに声を低くしながら言った。
少しでも気持ちを落ち着かせる時間を作ってやりたかったが、そういうわけにもいかない。
「……大丈夫、です。ついていけます」
さっきと同じような声色。けれど今度は嘘じゃない。芯のある強さが宿っていた。
敵は今も構わずカノンの肉体を穴だらけにしている。積みあがった死体の山を前にしてなお、自分たちの命を投げ捨てるつもりらしい。
「じゃ、とっとと済ませよう」
軽い一言。それを合図に、カノンは再び敵陣へと駆け出した。
ちらりと後ろに視線を向ける。
ユズリハが覚悟を決めた面持ちで、小刻みに手を震わせながらピストルを携えていた。
妙な高揚感。刀を振るう手が、さらに軽くなったような気がした。
一階へと続く階段を駆け上がり、エントランスに繋がる扉を蹴り飛ばした瞬間、カノンは不意にその場で足を止めた。
侵入時も訪れただだっ広いエントランス。出口まであと目前といったところで、一人の男が行く手を阻むように立っている。
普段は整えられているはずの短髪は乱雑に乱れ、眉間に強くシワを寄せたまま、男は壁から背を離し、ゆらりと体を起こした。
「いると思ってたよ、羽村」
「そうか……そいつは残念だ。驚いた拍子に殺っちまおうと思ってたのによ」
羽村トオノスケは厭味ったらしくそう言うと、無言で刀を両手で握り、縦に構える。
「カノンさん、あの人……」
不安そうな声を出すユズリハに、カノンは羽村へと視線を向けたまま、口を開く。
「大丈夫、問題ないよ。ちゃんと依頼は果たすさ」
そう言って、カノンもまた切っ先を地面に向けるようにして刀を構えた。
ユズリハが固唾を吞んで見守る中――ひりつくような緊張感を裂くように、羽村が一気に距離を詰めた。
わずかに背筋を丸め、カノンは敵を待ち構える。
羽村は腰に力を込め、ぐっと膝を伸ばした。
だが、見上げたカノンの視界に、奴の姿は存在しない。
咄嗟に視線を戻す。身をかがめた羽村が目の前に迫り、首めがけて刃を振るう。が、寸前で身を引き、紙一重でそれをかわすと、後ろに下がると見せかけ、右足で蹴りを繰り出した。
「見えてんだよ!!」
羽村は左脇でカノンの足をきつく固定すると同時に、切っ先を彼の胸に向け、素早く腕を突き出す。
カノンはすぐさま腰を逆に捻り、掴まれた右足を軸にしながら、今度は左足で羽村の顔を狙う。
……しかしその動きを、羽村の瞳がぎろりと捉えた。
わずかに身を傾けるだけで、左足は空を切る。
その隙を突くように、切っ先がカノンの脇腹を鋭く抉った。
「っ……」
小さく表情をしかめつつも、強引に拘束を振りほどき、背後へ飛び退くも――
「どこに行こうってんだぁ!?」
羽村が執拗に追い打ちをかけ、それを許さない。
反撃の糸口が見えないほどの連撃に、思わず体勢が崩れそうだった。
……おかしい。さっきから妙に体が重い。
反応も遅れ気味だし、動きもキレがなくなってきている。
もしや、薬の効果が切れかけているせいか?
しかしツユリはそんなこと一言も……。
そこまで考えて、あることに気づいた。
ああ、なんとなく、なんとなくだが、彼女ならやりかねない。いや、間違いなくやる。そう断言できる。
まさかこの状況を利用して実験体にされるとは、思いもよらなかった。
(この戦い、勝てる……!)
猛攻を続けながら、羽村は心の中で強く確信した。
剣を交えてわかったことだが、奴はずいぶんと不調らしい。普段よりも動きにしなやかさがないのが何よりの証拠だ。
調子が振るわない理由。そんなものはどうだっていい。
殺す、ただ殺す。
己の心が濁っていくのを感じながら、なおも殺意が迸る。
脳裏に浮かぶのは、写真の中の少女の姿――眠り続ける、彼女の横顔。
「サチ、見てるか、サチィ!!!」
駆け巡る血の流れの一つ一つが、鋭敏に感じ取れた。
「お兄ちゃんが今、こいつを殺してやるからなァ!!!」
荒ぶる羽村の太刀筋が、さらに鋭さを増した。
……防戦一方。
まったくの素人であるユズリハですら、そう感じざるを得なかった。
羽村の激しい手数に、カノンはまったく追いつけていない。
思わず、拳に力がこもる。
(何も、できない……)
己の無力に歯がゆさを感じる。
ここまで来て、自分は未だに守られているだけだ。
そして今もなお、自分自身を守ろうともしている。
金属の凶器が、掌の中にあった。
震えに合わせて、細かい部品がカチャカチャと音を立てて、その存在を示す。
さっきまで持ち合わせていた決意は、既に薄れていた。
誰かの命を奪ったという実感。アドレナリンゆえかうまく認識していなかったその感覚が、今になってユズリハの体を襲った。
引き鉄を引けば――彼の手助けになるかもしれない。足を引っ張ることになるかもしれないが、注意を逸らす程度のことはできるだろう。
けれど、腕が上がらない。
手放したい気持ちを精いっぱい押さえつけて、ユズリハは必死に銃を掴み続けていた。
「っ……」
頭に迫る刃を受け流し、次の太刀筋を予測する。
依然調子は戻らない。だからこそ、こっちから攻めることは叶わない。
斬られた脇腹はまだ完全に治っていない。どうやら薬の副作用のおかげで、元々の治癒能力すら低下しているらしい。
(斬られるのはまずいな……)
攻撃を食らい続ければ、いずれは動けなくなるだろう。
そうなれば、あとは考えるまでもない。
「死ね、死ね、死ね死ね死ねぇぇぇぇええ!!!」
カノンの集中力を削ぐように、羽村が狂気を孕んだ叫び声とともに斬撃を繰り出す。
「実験体の分際で! 混ざり物の分際で! 人間のふりしたバケモンがよォ!」
怒りと憎しみが混ざり合った怒号。しかしカノンは一切の反応を見せない。
「てめえだって願った身だろ!? いいからさっさと罪を償え!!」
「願った……? カノンさんが……?」
羽村の言葉に、ユズリハがぽつりと言葉を漏らす。
「何が死にたくないだ! てめえに生きる価値があると思ってのか! あぁ!?」
「そうさせたのはあんたたちだろっ……!」
思わず感情をあらわにしながら、鍔迫り合う二人の距離が一気に詰まった。
「あの女に近づいたのだって、てめえのエゴだろうが! 利用するつもりだったんだろ!? てめえらはいつもそうだもんなァ!!!」
「言わせておけば……!」
「黙らせたいか!? 煩わしいか!? なら俺を斬ってみろ! 人殺しの腕で、俺の命も奪ってみせろよ!!」
「っ……!」
焦燥に駆られたのか、カノンがなぎ払うように刀を振るう。
ようやく生まれたわずかな隙。乱れた集中力の細い穴を無理矢理広げるかの如く、羽村の刀がカノンの太ももを切り裂いた。
「う……!」
途端にカノンの腰がガクッと下がる。咄嗟に掌を掌につき、膝立ちの姿勢でバランスを取った。すぐに体制を立て直そうとするも、力めば力むほどに切り口から血があふれ出し、逆に足から力が抜けていった。
「ははは! もらったァ!!!」
思うように動くことのできない彼の首に、殺意のすべてを宿した刃が迫る。
咄嗟に腕を上げようにも、もはや間に合わない。身を反らす余裕すらない。
……首を刎ねられようと、生きていられる自信があった。少なくとも、そういう風にできていた。
しかしそれは、万全であればの話。
治癒能力が限りなく低下した今の状況では、おそらく再生すらできず、本当に死んでしまうだろう。
久しぶりに感じる死の気配を感じながら、閉じかけた瞼をかっと見開き、必死に体を捻る。
無駄なあがきだ。そう言いたげに、羽村が薄ら笑いを浮かべている。
――こんなところで死ねない。
まだ死ねない。
死んでなるものか。
死んでたまるか。
僕はまだ、生きなきゃならないんだ――!
絶望に染まらない彼の感情に呼応するかのように――刀の動きがぴたりと止まった。
「な、なんだ、何故動かん……!?」
空に固定された刀を握ったまま、羽村は戸惑いを隠しきれない様子で声を漏らした。
カノンもまた、目の前で起こったことが理解できずにいた。
自分は何もしていない。何かを空中で固定するような力は持っていない。
いったい何が……。
呆然と眺めていると、それが少しずつ形となって現れ始める。
筋繊維のように束ねられた無数のケーブル。
純然たる人工物そのもので作り上げられた、大きな生命体。
見覚えはない。
けれど、直感で分かった。
己が混ざり物だからか、同種の存在を強く感じることができた。
自分が見たときは、どこかの少女の姿をしていたが、そうか、これが本当の姿か。
カノンと羽村。二人の視線がユズリハに向けられたのは、ほぼ同じタイミングだった。
彼女はその場で膝をつき、組んだ指を空高く掲げていた。
傍らには握りしめていたはずの銃が置かれている。
まるで、祈りを捧げるかのような仕草。
まさか、また願ったのか。怪異に――!
神々しさすら感じさせるその光景に、二人の思考が一致し、そしてすぐに、分断された。
ホワイトスカーレット かなね @Kanane_s
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