セロリを買いに

D野佐浦錠

セロリを買いに

 セロリ、はどんな形の野菜だったか。

 颯太そうたはそれが思い出せなかった。そもそもセロリを食べたこと自体、数えるほどしかなかったような気がする。細かく刻まれてサラダや何かに入っていた、という程度の記憶しかない。

 母に、セロリを買ってきて、と言われたので、どの鞄を持っていくのが良いかと考えていた。中学2年生にもなって夕食のお遣いとは面倒だったが、仕方がない。

 大した大きさではないだろうと決めつけて、使い慣れているリュックに決めた。財布と、折り畳み傘を入れる。雨模様だった。どの靴を履いていくか少し悩んで、おろしたてのadidasのスーパースターに決めた。白のスニーカーだ。雨が降ったら、と思うと不安もあったが、これが一番、気分が上がる。


 ドアを開けて外に出ると、じめっとした空気を感じた。曇天だった。隣町のスーパーまでは徒歩で20分強程度だ。

 セロリなんて何に使うんだよ、と歩きながら颯太は心の中で愚痴る。いつものスーパーになかったから隣町まで行ってきてくれ、だなんて。他の野菜で代用するとかあるだろうに。そんなにこだわるなら母さんが行けば、と言ってみたが、夕食の準備をしなければいけないから、と簡単に退けられた。そう言われてしまってなお母の頼みを突っぱねるほど、颯太は子どもでもなければ大人でもなかった。ただ、何となく腑に落ちない、とは思った。


 「腑に落ちる」の「腑」は内臓を意味するという。ある物事ものごとが自分にとって納得できた、という感覚を、腹の中にそれがすとんと落ちる、といった肉体的な感覚と照合させている表現、ということらしい。そう教わった颯太は、なら「腑に落ちる」の「腑」とは人間が持っている空想上の臓器ということになりますね、と授業中に言った。君は面白い考え方をするね、と教師に笑われた。クラスメイトにも笑いが起きた。あれはきっと冷笑だった。腑に落ちない、と感じた。そこから始まったその感覚は今も続いている。

 「腑に落ちなかった」物事は、ではどこへ行くのかと考える。実感としては、それらは自分の中にいつまでも溜まり続けているように思える。現に、今だって過去の授業中の思い出に意識を引っ張られている。しかし、「腑に落ちた」物事は「腑」にすとんと落ちて、「腑に落ちなかった」物事もそれはそれで自分の中に溜まり続けていくのだとすると、全ての物事は結局自分の中に入ってきては溜まり続けるということにならないだろうか。

 普通に考えて、それではきりがない。自分がこれまでに体験した全ての事柄の中では、思い出せないことの方がずっと多いはずだ。

 取り入れたり吐き出したりしているはずなのだ、と考える。「腑に落ちなかった」物事が吐き出されていく先を総じて世界と呼ぶのである、といった結論に飛びついても良かったが、何だか達観しすぎているようでかえって幼稚に思えて、やめた。その考え方だと自分が世界の一員になっていない、という構造的な欠陥もあった。少なくとも、まだ早い、という気がした。まだ早い、というのはどういう意味か。いずれそこに到達するということが自分の中で予感されているのだろうか。つまりそれは、大学生になった自分、を想像するようなことなのか。わからなかった。


 取り留めもないことを考えながらこうして近所を歩くのも、まあ悪くはないと颯太は感じ始めていた。真新しいスニーカーでアスファルトを踏みしめる感覚が、割と心地良い。馴染みきらない、この感じ。誕生日プレゼントとして買ってもらったばかりのお気に入りだった。


 颯太は、街路樹の横に小さな犬を見つけた。

 白と茶色の斑模様をした、短毛で立ち耳の、運動神経の良さそうな犬だった。あれは確か、ジャック・ラッセル・テリアという犬種だったはずだ。

 飼い主の姿が見当たらないが、首輪をしていた。迷子犬、にしては不安がっている様子もなく、しゃきっとした感じで街路樹の横で立ち止まっていた。

「スーパースター!」

 とその犬が吠えた。

「は?」

 と声が出る。腑に落ちない、どころではなかった。普通、犬は喋らない。つまりこの状況は、普通ではない。

「お前だよお前。良いセンスのスニーカーじゃないか。たんプレにでも買ってもらったって感じかよ」

「い、犬が誕プレとか言うな」

 と犬を見下ろして颯太は答えた。そういう問題ではない、という気はしていた。

「まあそう言うな。これも何かの縁ってもんだ。もっとも、お前が履いてたのがスタンスミスだったらスタンスミスを褒めてたし、エアフォースワンならエアフォースワンを褒めてたわけだが。インスタポンプフューリー……は隙間が多いからこの天気には不向きかもな。まあとにかく、良いセンスってのは本音だぜ」

「ちょ、ちょっと待て。勝手に話すな。というかそもそも、犬が喋るな」

 ジャック・ラッセル・テリアは颯太の予想以上に饒舌だった。

 もっとも犬の饒舌さを予想するという局面を颯太は人生において経験したことがなかった。ジャック・ラッセル・テリアは構わず喋り続ける。

「犬をやってると人間のファッションで真っ先に目に入るのって、靴なんだよ。特に俺みたいな小型犬はさ。真っ先に人間の足元から視界に入るわけだから。犬からしたら、人間は顔より断然、靴。わかるか?」

「わかんねえよ」

 にべもなく返すと、ジャック・ラッセル・テリアは急に小型犬らしくきゅうん、きゅうん、と高く切ない声で鳴き始めた。

「実は我犬おぬ、飼い主とはぐれちゃったんだよ。一緒に探してくれないか?」

「どういう仕組みなんだよ、それ」

 と颯太はため息をついた。その一人称も何なんだよ、と添えた。


 ジャック・ラッセル・テリアによれば、散歩中にきらきら光る赤い長靴を履いた女の子を追いかけて本能的にリードを振り切って走り出してしまったところ、飼い主とはぐれ、自分がどこにいるのかもわからなくなってしまったのだという。

「バカ犬じゃんか。賢そうな見た目してる、って思ったのに」

「まあまあ。そういうこともあるんだよ。狩猟犬のサガってもんで」

 ご機嫌そうに尻尾を立てて先導しながら、ジャック・ラッセル・テリアが軽口を叩く。数歩ごとに颯太の方を振り返っていた。

 雨はまだ降り出していないが、空の色が少し暗くなってきたようにも思えた。

「いやでも、ラッキーだったぜ、颯太。実は前にも飼い主とはぐれたことがあってな。そのときに紆余曲折の末に合流できたのが、あのスーパーだったんだ。お前がこれから、あそこにセロリを買いに行こうとしてるなんてなあ」

 これも何かの巡り合わせと、ジャック・ラッセル・テリアは颯太とともにスーパーを目指すことに決めたらしかった。

「ていうか、お前、名前は?」

「名前なんてどうでも良いだろう? 我犬おぬのことは、何とでも好きに呼べば良い」

 飼い主を探すときに犬の名前を自分も分かっていた方が良いだろう、というのは至極妥当な考えと思えたが、少しむっとしたので颯太はそれ以上追求しなかった。

「じゃあジャックな、お前。ジャック・ラッセル・テリアだから」

「安直なっ」

 がるる、と吠え声を出すジャック。

「何でも良いんじゃなかったのかよ。怒りのポイントがわかんねえよ」


「なるほどな。それでお前はセロリを買いに出たわけだ」

 とジャックは楽しそうに言った。ジャックが先行しているから表情は見えない。冷笑ではない、と颯太は思った。かといって暖かくもない。むしろそういうのが心地良い。

「これは大事なことだぞ、颯太。これはお前がセロリを買いに行くことで始まった、お前がセロリを買いに行く物語だ」

「何言ってんだ?」

「この物語が『セロリを買いに行く』で始まった以上、お前はもう『セロリを買いに行く』ことから逃れられない。母親の言い付け通りにセロリを買うのか、それとも反骨心か何かで買うのをやめるのか。もしかするとお前はセロリを買うのかどうかというところから全然離れて、突拍子もない行動に出るのかもしれないし、それはそれでお前の自由だ。我犬おぬと出会ったことでお前の物語は色々な方向に広がる余地ができた。もしかすると、この先で我犬おぬの飼い主とセロリのどちらを優先するか、みたいなことになるかもしれないし、ならないかもしれない。でも何にしても、お前はもう『セロリを買いに行く』ということ自体からは逃れられない。どういう道筋を辿ろうと、その出発点には常に『セロリを買いに行く』があるんだ」

 何を言ってるんだこいつ、と颯太は思う。物語? 

 別に自分の人生は母親のお遣いの言い付けから始まったりはしていない、と反抗期らしい反発をおぼえる。

「より重要なことには、ここでセロリがセロリである必要はないってことだ。別にロマネスコでもアーティチョークでも構わない。マクガフィンってやつだ。実在しない架空の野菜でも何でも良い。もっとも、近所のスーパーで普通に売っているであろう野菜じゃちょっと話の辻褄が合わなくなってくるが。玉ねぎ、とかじゃちょっとな。ちなみに犬に玉ねぎは毒だから食わせてくれるなよ。我犬おぬが死んでしまう」

「滅茶苦茶言ってんじゃねえよ。俺の母さんがセロリが要るから買って来いっつったんだ。他の野菜で良いわけねえだろ」

「それだ」

 とジャックはなおも尻尾を振り続ける。

「『俺』にも『母さん』にも意味がある。それはお前が選択した言い方だからだ。お前が『ママ』でも『お袋』でもなく『母さん』を選択していることにはお前の意志がある。それは良い。我犬おぬはそういうのが好きだ。然るに一方、お前が『颯太』であることや俺がジャック・ラッセル・テリアであることに大した意味はない。『颯太』は交換可能な固有名詞に過ぎない、と言ったなら」

「ふざけんじゃねえよ」

「と、お前は怒るだろうな。まあそりゃそうだ。悪かったよ。我犬おぬだってジャック・ラッセル・テリアである自分を誇りに思っている。『ジャック』はいただけないにしてもだ」  

 この美しい毛並みを見よ、とジャックは誇らしげに言い放った。確かに手入れの行き届いた、良い毛並みだった。自分がここまでのところで理解したジャックのキャラクター的な毛並みではない、というのが颯太の印象だった。


 隣町のスーパーに行くには、小さな橋を渡る必要がある。

 くすんだ灰色のコンクリートでできた、矩形の用水路を渡るための橋だった。幅2メートル強、長さ3メートル強程度のものである。下の方で、水が控え目な量で流れていた。

 この辺りに来たのは久しぶりだった。小学6年生の頃、何度かこの近くに住んでいる友達の家に集まってマリオカートをプレイしたことがある。あれは楽しかったな。マリオカートは人類の財産で、世界平和の象徴だ、と颯太は懐かしく思い返した。

「『橋を渡る』という行為は色々な意味で象徴的だ。川というものは境界の暗喩メタファであり、橋を渡るということは、分かたれた境界を越えること、本来の位置から隔たった場所へと足を踏み入れること、橋を渡る主体の自立と成長、そういうことであると一つの現象の中に見出すことができる」

「また適当なことを。そもそも、わざわざ橋とかいうほどでもないだろこれ。数歩で渡れるぜ」

「ははん。これがナントカ大橋みたいな長大橋ちょうだいきょうだったなら、また別のドラマも生まれたんだろうがな。もっとも、それはちょっと我犬おぬも勘弁願いたいものだが」

「お前が勘弁しろって。そんなデカい橋も、デカい川もそもそもうちの近所にはないんだから。勝手にその辺の道をドラマの道具にするんじゃねえよ。それで俺の人生には大した困難もない、みたいなことまで言い出したらマジでキレるぜ。大量のセロリの匂いを鼻先で嗅がせてやるからな」

 だいいち川が境界の暗喩メタファって何だよ。川があったらそこが境界になるのは当たり前だ。喩えとして安直すぎるだろう、と颯太はこぼす。

 この橋について颯太が思ったことといえば、マリオカートのコースにこれがあったらヘアピンカーブになるから、ドリフト走行で曲がりきるのが難しくて盛り上がるだろうな、ということだった。


 ジャックはきょろきょろとあたりを見回しながら、スーパーに向かう道を歩いていく。

「飼い主さん、どんな感じの人よ。俺も探すわ」

「颯太お前、良い奴だなあ。感謝の気持ちで一杯だよ」

 わん、とジャックは一声鳴いた。

「今更かよ。良いって」

「コールハーンのフラットシューズを履いてる。色はベージュで、起毛素材だ。踵からつま先にかけてのシルエットが良いんだ」

「靴以外で」

「ああ悪い。40代の、名誉のために詳細年齢は伏せるが美人のママだよ。黒いパンツに白のニット、髪は茶色のロング。割とスリムな体型でね」

 何だかお洒落そうな感じだ。うちの母さんとは大違いっぽいな、と颯太は思う。

「見た感じ、そんな人は今のところ近くにいないけど」

「すぐには見つからないかもな。だが、いずれ見つかる」

 ジャックの言い方は自信に満ちていた。

「何かお前、不安そうじゃないよな。このまま飼い主が見つからなかったらどうしよう、とか思わないの?」

「大丈夫だ。我犬おぬにとってこの物語は『飼い主と再会する物語』だからだ。いずれ再会できる。間違いなく。この物語に登場した要素は結末において回収されなければならないからだ」

 その論理はどうも颯太にとって受け入れにくいものだった。物語とはそんなに万能な、というか都合の良い枠組みだろうか。

「……その理屈だと、あれじゃねえの。お前、最後に玉ねぎ食って死ぬんじゃね」

「えっ」

「さっきお前が自分で玉ねぎは犬に毒だから食べたら死ぬ、とか言ってただろ。それ、回収しなきゃいけないってなったらさ」

「なな、何を言ってる。これは『玉ねぎを食べて死ぬ物語』ではない」

「誰が決めんだよ、それを」

 飼い主はまだ見つからない。

 雨は降り出さない。雨模様らしい匂いだけが先に立っていた。


 スーパーに到着した。

「着いちゃったよ、おい」

「うむ」

 うむじゃねえよ、と颯太は毒づいた。犬を連れてスーパーの店内には入れない。

我犬おぬはここで飼い主を待つ。以前にはぐれたときもここで飼い主と再会できた。だからここにいるのが一番、可能性が高い。颯太、お前はセロリを買ってこい」

「ああ……わかってるよ。っけどさ」

 颯太はしゃがんで、駐輪場の柱のそばに座るジャックと目線の高さを合わせた。

 その首を適当に撫でながら言う。

「その間にお前の飼い主がお前のことを見つけたら、俺たち、そのまま挨拶もできずに、さ」

 犬の首って、意外と筋肉質なんだな。知らなかった。

 颯太は照れ隠しでそう言い含めた。

「人間の腕みたいなものだからな。言ってみれば、首輪は支配の暗喩メタファだというのは物理的に正しくない。人間にとって首は弱点だが、我犬おぬたち四足歩行の動物にとっては首が一番強い部位だ。犬が首輪とリードで飼い主と繋がっているというのは、人間どうしに置き換えると『手を繋いでいる』とかの方がずっと実態に近い。で、それはそうとお前は我犬おぬとの別れが惜しいというわけだ。泣かせるじゃないか」

「はあ? ち、違えし」

 ぷいと顔を横に向ける颯太の顔を、ジャックが舐めた。

「やめろ、馬鹿」

「犬は親愛の証として相手を舐めるんだよ。これは暗喩メタファなんかじゃなく心からの行動だ。ありがたく舐められろ」

「やめ、やめろって」

 犬の舌の温度、ざらつき。

 唾液の粘っこさ。獣っぽい匂いがした。


「あらっ」

 そのとき、聞き慣れない女性の声が上から聞こえた。

 颯太は声のした方を振り返る。ベージュ色、起毛素材の底が平らな靴。上品な印象。フラットシューズ?

「ちゃ、ちゃちゃちゃちゃ、ちゃ」

「茶?」

「チャーミーちゃあん!」

 顔を上げるとそこには、茶色く長い髪の美人が。 

「ママ!」

「『ママ』?」

 チャーミーと呼ばれたジャックが、颯太の目で追えないようなスピードで尻尾を立てて左右にぶんぶんと振っていた。全身を震わせ、「ママ」と呼ばれた女性のもとに駆け寄る。

「良かったわ! やっぱりここで待っててくれたのね!」

 飼い主の女性とジャック、もといチャーミーは熱い抱擁を交わした。

 確かに美人だった。40代というのはヒントとして適切ではなかった、と颯太は感じる。もっと若く見えた。


「ジャックで良いぞ」

 ひとしきり飼い主との再会を喜んだジャック、もといチャーミー、もといジャックは颯太の方に振り向くとそう言った。

我犬おぬの名は、ママにとってはチャーミー、お前にとってはジャック、そういうことで良い」

「あなたがチャーミーちゃんをここまで連れてきてくれたの! 本当にありがとう」

 薄く目に涙さえ浮かべながら、ジャックが「ママ」と呼ぶ女性が颯太の手を取った。異質な体温と肌の感触。薄紅色のジェルネイルが目に入った。家族以外との身体的な接触はずいぶん久し振りに思えた。何となく気恥ずかしくなる。

「いえ……あの僕は、母に言われてセロリを買いに来ただけで」

「セロリを! あらあらあらあら、素敵じゃない。サラダ、マリネ、スープ、パスタ? 良いわあ、素敵なお母様でいらっしゃることね」

 颯太の思い描く母は、「素敵なお母様」という言葉が取り得る意味の射程からかなり離れているようにも思えたが、そういうこともあるかもしれない、と一旦受け止めることにした。

「えっと、はあ、はい。ありがとうございます」

「お礼を言うのはこっちの方よ! チャーミーちゃんのこと、本当に心配していたの! 良ければ、後日に改めてお礼をさせて」

 有無を言わせない口調で「ママ」がそう言う。急かされるがままに、颯太は連絡先を教えていた。じゃあインスタでDMください。


 ジャックが頭を低く下げて、颯太に近付いてきた。

 颯太はその頭をさわさわと撫でた。

「世話になったな、颯太」

 と頭を下げたままジャックが言う。最前さいぜんより耳が少し垂れていた。

「はは、まあ楽しかったよ」

「セロリを良く味わって食えよ。青臭くて、苦くて、ほんのちょっと甘い。何だか人生みたいだ、とか何とか言って物語を閉じるのがそれっぽい」

「あのなあ」

「ふはは、まあそうだ。人生はセロリだ、なんていうのはセロリに失礼だな」

「その前に俺に失礼だろうが」

 マーブルケーキのように白と茶色が混じった背中を、颯太はぽんと叩いた。

「じゃあな、ジャック」

「ああ、またな」

 そうするとジャックは飼い主に連れられて、スーパーを去っていった。

 何だか簡単に一人になってしまったな、とそんな感慨があった。一冊の本を読み終えたときの気分に似ていた。


 ぱぱぱぱぱー。ぱぱぱぱぱー。ぱぱぱぱぱーぱ、ぱーぱーぱーぱ。

 ぱぱーぱぱぱぱ。ぱぱーぱぱぱぱ。ぱー。


 「呼び込み君」のメロディが鳴り渡るスーパーの野菜売り場で颯太はセロリを手に取った。

 白っぽい緑というのか、緑っぽい白というのか。そういう長い茎の先にいくつかの葉がついている。こんなだったのか、と颯太は感心する。ぎりぎりリュックに入りそうなサイズで良かったと思う。


 ぱぱぱぱぱー。ぱぱぱぱぱー。ぱぱぱぱぱーぱ、ぱーぱーぱーぱ。

 ぱぱーぱぱぱぱ。ぱぱーぱぱぱぱ。ぱー。

  

 それにしても、夕方のスーパーというのはこんなにも多くの人が集まるものなのか。年齢も服装も多様な大人たち。学校と家を往復しているだけでは交わることのなさそうな人たちだった。ジャックと「ママ」も多分にそういう属性の相手だったが。


 ぱぱぱぱぱー。ぱぱぱぱぱー。ぱぱぱぱぱーぱ、ぱーぱーぱーぱ。

 ぱぱーぱぱぱぱ。ぱぱーぱぱぱぱ。ぱー。


 ここにいるあらゆる人たちの人生の一瞬がここで交錯している、という見方をすると、何だか不思議で、面白いことのようにも思えた。出会いと別れのドラマだってここにはある。迷子犬は飼い主と再会し、行きずりの男子中学生と別れた。そして男子中学生はセロリと出会う。「呼び込み君」のメロディがそれに相応しい劇伴なのかどうかはわからないが。

 そんなことを考える時点でジャック的な思考に染まっている、と颯太は反省した。セロリをレジに、と考えてから、駄賃にコーラぐらい買っても怒られないだろうと500mlのペットボトルを追加した。

 

 コーラを飲みながら颯太は帰宅した。何の出来事も起こらなかった。雨はとうとう降らなかったし、adidasのスーパースターも綺麗なままだ。割合に喉は乾いていたのでコーラは美味かった。いつもの通りに。身体の中で高い糖分を帯びた泡がはじけた。


「ただいま」

 といつも通りの科白せりふを言って、母にセロリを渡した。

「助かるわ、ありがとう颯太」

 母は笑顔でセロリを受け取った。

 目論見通り、コーラ代は駄賃として認められた。納得の帰結だった。腑に落ちるとはこういうことだ、と颯太は得心する。何だか良い働きをしたぞ、とわかりやすい形での自己肯定感が生じる。

「母さん、セロリなんて何に使うんだよ」

 それは当初からの疑問だった。別にセロリが無いならわざわざ買いに行かずとも、他の野菜で代用するとかすれば良いのではないだろうか。

「セロリとミドルベーコンの塩麹しおこうじ炒めを作りたいのよ。イケメン料理研究家のジャンマ・ミドラーがTikTokでバズらせたレシピよ、知らない?」

 知らない。

 「ジャンマ・ミドラー」は交換可能な固有名詞というやつではないのだろうか。それは自分にはわからない。母の領域だ、と颯太は結論した。ミドルベーコン、もよくわからなかったが、多分ベーコンの種類だろう。割と美味しそうな響きだ。


 颯太は自室に戻って、ベッドに横になるとジャックのことを思い出した。

 ミドルベーコン、からジャックの肉付きを思い出したのは何となくよろしくないような気もしたが、そういう成り行き自体はコントロールできないから仕方がなかった。かといってベーコンとジャックは颯太にとって交換可能な二者ではない。

 マリオカートのことも少し思い出した。久しぶりにプレイしてみようかとも思ったが、一人で遊ぶとそこまで面白くないんだよな、と考えてやめた。まずまず悪くない一日だった、と夕食の前に総括している。

 母の作ってくれるというセロリの料理はどんな味がするのだろう。

 大した想像もできないまま、颯太はイヤホンを耳に装着した。凛として時雨の「I was music」を再生しながら、少し眠った。(了)

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

セロリを買いに D野佐浦錠 @dinosaur_joe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画