「誠に恐れ入りますが、持ち出しは御遠慮願います」〈前編〉
夏休みも差し迫った、とある日の部活終わり。
部室と併設されている更衣室で、道具を片付け、着替えを済ませた彼は、スマートフォンを確認していた。
着信がニ件と、メッセージが一件。
着信は康樹と充晶からのもので、メッセージは太壱からのものだった。
内容は大体予想がつくが、未読放置も後から文句を言われるのが面倒だ。
首にかけたタオルで汗を拭いながら、メッセージを開く。
“部活上がったら準備室来てくれ
ちょっとやばいかもしれん”
その二行だけだったが、「何が」というのはさておき、太壱が「やばい」と言っているということは、何かが起こっている。
清司は、
“今から行く”
とだけ入力、送信すると、タオルで顔を覆った。
目を閉じ、そのままきっちり十秒。
吸った息を大きく吐き出してから、彼はタオルを乱暴に丸めて鞄に突っ込んだ。
それを見ていたのだろう。
同じく着替えと後片付けをしていた先輩が近づいてくると、
「おーう、ヤナっちゃーん。なーにやってんの?彼女?」
そう言いながら馴れ馴れしく肩に腕をまわし、清司のスマートフォンをのぞき込んで来る。
見られて困るものなどないが、彼の態度に清司は辟易していた。
「て、てっちゃーん、やめとけって〜」
「はぁー?だってコイツ、めっずらしくパッと見でイラついてんじゃーん。彼女だったら紹介してもらおうぜ?この仏頂面と付き合ってる女なら見てみてーじゃん?」
この「てっちゃん」もとい上村哲二は、二年生で一つ上の先輩にあたるのだが、なにせ自分より下とみなした者には態度が悪い。
この男が原因で、退部届を出した部員がいたという話も耳にしているくらいだ。
しかし、教師、顧問、三年生の前では従順で、そんな素振りは決して見せない、ある意味完璧な二面性を持っている。
こういう人種は、普段であれば絶対に相手にしないのだが、今日、今だけはそれができないレベルまで、清司は煮詰まっていた。
なにせ今日は、朝からツイていない。
何やら朝からバタバタと忙しくしている様子の母親に代わり、目玉焼きとトーストを焼けば、弟に邪魔をされて両方焦がしてしまったところから始まり、休み時間、息抜きに買おうとした自動販売機のコーヒーは、業者が補充時に入れ間違えたか、彼が絶対に飲まないミルクコーヒーが落ちてきた。
昼に学食で夏季限定メニューを注文しようとすれば品切れ。
午後の授業では、昨晩仕上げた数日前からの課題を家に忘れてきたことに気づき、担当教師に頭を下げねばならず、放課後に至ってはこのあとトラブルに巻き込まれることは確定事項。
その状態からのこの事態。
普段滅多なことでは怒らないのだが、どうにもこうにも感情のやり場がない。
清司は、完全に無の表情で、依然として肩を組んだ状態でニヤニヤしている上村の顔を見ると、
「上村先輩。明日、先生に地稽古のお願いしておきます」
そっと自分の肩の、上村の腕を押しやり、
「あ?」
「俺、確か先輩とは地稽古組ましてもらってないっす。よろしくお願いします」
そう言って大きく一歩離れ、頭を下げた。
その流れで鞄を掴み、「お先に失礼します」と礼をして早々に更衣室をあとにする。
珍しく、あの男を確実に、公衆の面前で、正面切って叩きのめしてやろうと心に決め、清司は化学準備室を目指した。
◆
「……お、おん?」
そんな声をもらし、呆然とする上村哲二は、いつもなら一緒になって標的にした人間をつつきに来るはずの仲間を振り返った。
室内は静まり返り、何やら気まずい空気が漂う。
二人の仲間のうち一人は、そそくさと帰り支度を進め、もう一人は絶対にこちらを見ないように背中を見せている。
状況が飲み込めず、上村は背中を見せている方の仲間の肩を掴んだ。
「ど、ど〜したん?いつもなら笑うとこじゃね?」
その声に振り向いた彼は、上村の肩に手を置き返すと、
「……てっちゃん……ご愁傷様」
そう言って更衣室を出ていった。
もう一人の方も、帰り支度が完了したのか立ち上がり、
「てっちゃん、生きろよ……」
そう言い残して先の彼を追うように出ていった。
残るは後輩一名だが、彼に至っては最早、顔面蒼白と言っても過言ではない。
上村は、彼を逃すまいと正面に立ちはだかると、睨みを効かせて問いただした。
「お前、なんか知ってんだよなぁ?言えよ」
「う、上村先輩、あの日、部活休んでたから、知らないんすね」
「あの日って何の日だよ?」
「顧問の先生が、おれ達部活入って一週間くらいの時、柳谷の実力見るのに、他の先輩たちと地稽古させた日があったんす」
「ほーん。で?」
「地稽古組んだ先輩方、対戦のあとすぐ、全員帰ったっす」
「はぁ?」
「部活始まって一時間経たないで、顔色悪くして帰っちゃったんすよ!」
「てめぇ、嘘ついてんじゃねぇだろうな?」
「ううう嘘じゃないですって!も、もういいっすよね!じゃあ、お先に失礼します‼」
言うだけ言って、後輩は上村の脇をすり抜け、そそくさと出て行ってしまった。
聞くだけ聞いて、一人取り残された上村は、やはり状況が飲み込めないまま、更衣室を後にした。
翌日の部活が、剣道を始めて以来、最大の恐怖を味わう日になるということを、彼はまだ知る由もない。
◆
清司が化学準備室のドアの前に立つと、室内が何やら騒がしかった。
いつもよりも、聞こえてくる声の主の人数が多いように聞こえる。
彼は眉間にしわが寄るのを自覚しながらドアを開けた。
「おや、来ましたねぇ」
「お!清司おつ‼」
「お疲れ様」
「やっと来た……」
いつもの四人、化学準備室の主である化学担当教師の長谷川と、康樹、充晶、太壱がそれぞれに言う。
その中で、太壱は何故か疲れた様子を見せていた。
そして、それを見守るように黙っている女子が二人。
切れ長な目が特徴的で、少し気が強そうなショートカットと、対象的に、伏し目がちで、見るからに気の弱そうなセミロングが特徴的な女子生徒達だ。
二人に見覚えは、正直ない。
学年は同じだろうが、見た目で判断がつくのはその程度。
そして、室内中央にある実験机の上には、黒い涙をぽたぽたと流している、薄汚れたクマの玩具と、表面上で黒いシミがちょろちょろと動き回る古びた書類、そして妙に真新しい光沢を放っているのに、刃先が黒く濡れたようになっている、テレビドラマで見たことのある医療用メス置かれていた。
太壱以外の人間には、「黒い」部分は見えていないだろう。
そして、その三つの出処を察するに、どこぞの廃墟にでも侵入した馬鹿が持ち出したものに違いない。
しかし、今ここに来ている二人を見るに、それをやらかしそうな人間とは思えず、清司はとりあえず何も言わずに、空いている椅子に座った。
「誰か、柳谷君に説明を……」
全員が黙りこくった状況を打破しようと、長谷川が口を開く。
彼と目があったのか、それに答えたのは康樹だった。
「え……えーっと……清司、まず聞きたいんだけど……なんかあった?」
その問を聞いて、隣に座る充晶は天井を見上げ、顔面を両手のひらで覆っている。
清司の隣に座る太壱は机に両肘を付き、組んだ手の上に額を乗せ、うなだれた。
問われた清司は、眉間のシワにプラスして、こめかみに青筋が浮くのを感じる。
「あー……なんだ。まあ、色々となぁ」
絞り出したように言った声は、若干震えていた。
それを聞いて康樹が逃げ腰になる。
察しのいい充晶が、女子二人に、明日また連絡する旨を伝え、今日はもう帰るように促した。
ここまでに何を聞いたのか、うなだれたままの太壱は反応無し。
女子二人が準備室から出て、少し経った頃合いで、清司は再び口を開く。
「この……三点セットを持ち込んだのは……どこの生命体だ?」
しどろもどろに康樹が答える。
「そ、それは、ささささっきの女子二人で……」
こちらも、別の意味で声に震えが混じっているのは気のせいではない。
「どうしてここに持ってくることになった?」
「オレが……その、困ってるって話聞いて……ち、力になれるかなって……」
「じゃあ、大元の場所から持ち出してきたのは、別の単細胞だな……?」
「あ、あの二人のうちの一人の子の、大学生の兄貴だって言ってた」
「……で、これをどうしろと?」
「そ、それは……そのぉ」
言いづらいことなのか、康樹は明らかに言いよどむ。
「何だよ……言えよ」
容赦なく、追い詰めるように彼が言うと、康樹は覚悟を決めたのか、その場で立ち上がると頭を下げた。
「今回の依頼はこの三点セットの現場返却ですよろしくお願いします‼」
「なにが!よろしくお願いしますだ!この馬鹿たれが‼」
早口でまくし立てるように言い切った彼の言葉に、本日最後にして最大級の清司の怒声が、化学準備室がある二階廊下にまで響きわたったのは、言うまでもない。
◆
三人から事の次第を聞いた清司は、先の太壱と同じ姿勢を取っていた。
未だ黙ったままの太壱を除いた、康樹と充晶の話によれば、あの女子二人から相談を受けたのは一週間前の事。
二人が彼女達から聞き出した話の内容によると、セミロングの方の女子が、大学生の兄と、その友人達に連れられ、二週間ほど前、街外れにある廃病院に、深夜の肝試しに行ったのだという。
そこで、悪ふざけをした兄が、先の三点セットを持ち帰り、友人達に自慢していたが、その翌日から自分と兄のスマートフォンに、共通した電話番号での着信が、毎日決まった時間に来るようになり、恐ろしくて困り果てているという内容だった。
「……兄妹のうちどっちかでも、電話には出たのか?」
清司が顔を上げないまま問うと、充晶が答えた。
「出てはいないって。でも、着信履歴の番号は調べたみたい」
「どこからなのかわかったのか?」
「ネット検索で番号だけじゃ出てこなかったけど、行った地名と病院名とを合わせて検索かけたら、その廃病院の放棄されたホームページが出てきて、それに記載されてた番号と一致したって」
それを聞いて、彼はやはり顔を上げないままため息をつく。
こういうことに関して、人はどうしてこうもテンプレートに沿った行動を取るのだろう。
どうせテンプレートに沿うなら、人に迷惑をかけない方向で沿ってはもらえないものだろうか。
清司は顔を上げると、康樹を睨みつけた。
「つーことは。この三点セットがここにあるのは、康樹、お前のせいだな?どうせ、現物が見てみたいとかなんとか言って、あの女子に持って来させたんだろ?」
そう言うと、康樹の肩がぎくりと跳ねたのが見えた。
「それが、半分当たりで、半分ハズレなんだよね」
何も言わない——というか、言えない康樹に変わり、充晶が続けて答える。
「この三つ、彼女達から康樹が受け取ったの……三日前なんだ」
「はあ?」
「いや……オレのとこにも、電話かかってくるかなー……なんて」
「………………」
どうやら回復したらしい康樹の話に、言葉を失う。
「で、かかってきたから、電話に出てみたんだよ。そしたら、女の声で『カエシテ』って……すんごい速さでずーっと言ってんの……」
「ま、怪談話としては、ありがちなオチだよね」
「いや、ありがちだけどリアルに聞いたら怖えーよ‼つかなんだよあの高速再生⁉思わずなんて言ってんのか気になってすんごい耳すませて聞いちゃったじゃん‼」
実際問題、本当に怖かったのだろう。
平然とした表情で言った充晶に対し、しがみつきながら訴えている。
と、そこでようやく太壱が顔を上げた。
半眼で言う。
「……康樹」
「うぇ?」
「お前は、本当に、懲りるという言葉が、その脳みその中の薄っぺらい辞書には入ってないんだな……」
その言葉に、清司が続く。
「太壱。許してやれ……薄っぺらいんだ」
どこか哀れみのこもったそのセリフに、言葉を失った康樹と、隣で笑いをこらえている充晶。
「……なんか、ひどくね?」
さすがに腹を立て始めた康樹だが、ふと横を見ると、それまで黙って聞いていた長谷川まで、肩を震わせて笑いをこらえている。
教師にまで笑われるとは思いもしなかった康樹は、ついに怒り出した。
「もー!助けてくれたっていいじゃねぇかよ!」
そこには充晶が答える。
が、
「ぐふっ!あっははははは‼はー、もう、おもしろい。誰も助けないとは、言ってないよね?……くくっ二人もふふふっ、許してあげなよ」
ついにこらえきれなかったらしく、言いながら、腹を抱えて笑いだした。
「味方してくれてるようでお前が一番笑ってるのわかってるからな!オレもう泣くぞ⁉泣いちゃうぞ⁉」
言いながらも、康樹は既に涙目だ。
もう少し放っておいてもいいが、太壱を見ると頭を抑えて首を振っている。
何かを諦めたようだ。
それを見て清司もため息をつく。
なんだかんだ言っても、この三点セットは康樹の手には余る。
特にこのクマの玩具。
プラスチックの黒い目が、先程からこちらを見ているように見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。
黒い涙は何故か止まっている。
それを丁寧に手に持つと、クマの体が動き出した。
ゼンマイ式なのだろうそれは、みーごみーごと音を立てながら体を揺らし、ぱちぱちぱちぱちと両手のタンバリンを打つ動作を繰り返す。
もちろん、ネジの部分は触れていない。
突然の怪現象に驚き、固まる三人。
太壱は予見していたか、特に驚きもせず、
「だからおれ、絶対触らなかったんだ」
と、ポツリと言った。
まあ、周りのリアクションはさておいて。
清司は机のすみに置かれていた紙袋を引き寄せ、それを中に入れようとしたが、その途端にクマの動きが激しくなる。
体の駆動音とタンバリンの音がやかましい。
彼はクマの目を正面からじっと見据え、
「うるさいぞ。捨てないから安心しろ」
言うと、クマはピタリとその動きを止めた。
室内が静まりかえる。
それをそっと優しく紙袋に入れて、お次は書類と医療用メス。
見ると、紙の表面で蠢いていた黒いシミが、シュミラクラ現象に見えなくもない人の顔の形を作り、じっと清司を見ていた。
目だけは造形に力が入っているのだろう。
白目と黒目がはっきり形作られたそれは、愛嬌も何もあったものではない。
ぎょろりとした目で、少し睨んでいるようにも見えるそれを、やはり丁寧に持ち上げて、同じように言う。
「ちゃんと返すから睨むな」
その言葉に、シミは形を解き、先程までと同じように、ただの紙面上を蠢く黒いシミになった。
動きは先程より少し緩慢かもしれない。
こういった形で感情表現をしてくるシミも始めて見たなと、内心感心する。
最後は医療用メスだが、そっと持ち上げると、こちらは刃先部分の液体のような黒いものが、とろりと流れて清司の指先にまとわりついてきた。
細く伸び、くるりと巻き付いたそれは、ぎゅっと清司の指先を締め上げてくる。
「だから、ちゃんと返すって言ってんだろ」
その言葉で、その黒いものも納得したのだろう。
もとの位置に戻ると、沈黙した印なのか、光沢を失った。
両方を丁寧に紙袋に入れ終わり顔を上げると、康樹と充晶がお互いひっつき合い、かたかたと震えていた。
長谷川は驚いたときの姿勢のまま、目を丸くして清司を見ている。
太壱は盛大にため息をついた。
「そいつらどーすんだよ?」
机に頬杖をつき、横目でこちらを見ている彼は、少し呆れ気味だ。
クマの玩具のくだりはともかく、今のシミやら液体っぽいものとのやり取りも、太壱にはしっかり見えたのだろう。
「返却まで俺が預かってやる。どうせ康樹じゃ持て余す」
「……お人好し」
「うるせー」
清司は言いながら、床に置いてあった自分の鞄を背負うと、三点セットを入れた紙袋を手に、化学準備室を出た。
あとのことは丸投げしても問題ないだろう。
何が起こったかの説明は太壱がしてくれるだろうし、返却に向かう予定やら何やらも、すぐには決まらないはずだ。
兎にも角にも今日はツイていない。
早いところ家に帰って、やることを済ませて寝てしまおう。
そんなことを考えながら、彼は帰路についた。
◆
清司が出ていってから、太壱はつぶやくように言った。
「良かったな康樹。清司がお人好しで」
その言葉に、いい加減充晶と離れた康樹が、頷きながら答える。
「お……おう。……オレ、あいつにちゃんとお礼したほうがいいかなぁ?」
「当たり前だ」
「当然だよね」
「そうでしょうねぇ」
室内の三人に同意され、さすがにしょんぼりと肩を落とす。
「康樹は、僕以上に好奇心が強いよね。少し自重すること覚えたほうがいいと思うよ」
充晶に言われ、さらに肩を落とす康樹。
「ところで、柳谷君は、先程物に向かって話しかけていたように見えましたが、あれは何が起こったのでしょう?」
突然の話題転換。
長谷川が興味深く三人に問いかける。
唯一答えられる太壱に注目が集まる中、彼は少し困ったように、先程の状況を説明した。
振り返り、それを言葉にしつつ思うのは、あれは恐らく、清司にしかできない芸当だろうということ。
曰く付きであろう廃墟から持ち出された、触れれば祟るような代物に直接触れ、一つ一つ言葉だけで黙らせるなど、並大抵のことではできないはずだ。
昔からの付き合いで、これまで散々見えるものをお互いに共有しあってきたが、最近は清司がやってのけることが、人並外れているなと思わされることが多くなっているように思う。
本人は無自覚だろうが。
説明を終えると、長谷川は感心したのか何なのか、「ふむふむ」と眼鏡の位置を直しただけだった。
あとの二人は素直に「すげー!」「さすが清司だね」など、感想を述べている。
長谷川はさておき。
この二人、今後もう少し強く釘を刺さないと、清司にしか解決できない案件ばかり持ってきそうで恐ろしい。
それがどれほど彼の負担になることか。
見えていないというのは、本当に厄介だ。
太壱はわざと音を立てて立ち上がり、盛り上がる二人の会話を途切れさせると、
「お前ら、もう帰るぞ」
と、苛立ちもあらわに言った。
とにかく、今日はもうこれ以上はどうしょうもない。
◆
一晩経って翌日の放課後。
部活で、予定通り件の先輩——上村を打ちのめした清司は、心なしか晴れやかな気分で化学準備へと向かっていた。
地稽古が始まり、始めの掛け声と共に、お互いに睨み合って数秒。
その時点で何故か顔色を変えた上村は、いつもの勢いがなく、どこか怯えていたように思う。
激しい打ち合いの末、顧問と三年の先輩に押さえつけられて動きが止まったときには、面が一本決まっており、上村はしゃがみこんで頭頂部を抑えていた。
その後、前の地稽古の時の諸先輩方と同じく、面を外した上村の顔色は悪く、そのまま部活を早退していき、顧問にはため息まじりに、
「柳谷はやっぱり試合には出せんな」
と言われた。
通っていた道場でも似たようなことを言われたことがあり、その言葉には慣れてはいる。
しかし自覚がなく、納得しているわけではない。
が、どうしても試合に出たいというわけでもないので、それに対してどうこう言うつもりはないし、基礎稽古だけでも十分鍛えることはできるので、特別問題には感じていないのが現状だ。
さて。
化学準備室に到着した清司は、いつも通りにドアを開けた。
と、中にはいつもの顔ぶれと、昨日の女子が二人。
そのうち一人、セミロングの方がうつむいてすすり泣いており、隣に座るショートカットが慰めている。
何事かと男どもの方を見ると、今回一番彼女達と接点があるはずの康樹がおろおろし、長谷川はそれを落ち着かせようとあたふたしていた。
充晶は女子というより、女性全般に対しての対応に慣れているのだろう。
黙ってポケットティッシュを差し出している。
太壱は我感せずといった様子で、自分で買ってきたと思しき缶コーヒーを飲んでいた。
と、清司が入ってきたことに康樹が気づく。
「清司!お助けを!」
開口一番にそんなことを言う彼の言葉はとりあえず無視して、清司は空いているいつもの定位置、太壱の隣の椅子に腰掛けた。
そもそもこの状況で、何をどうしろというのか。
清司は、来る途中購買の自動販売機で買ってきた缶コーヒーを開けると、何も言わずに口をつける。
「わーん!無視しないで!」
そう言った康樹は、本気で困っているのだろう。
表情がそれを物語っている。
だがその前に、状況説明がほしいところだ。
太壱を見やるが、彼も状況がつかめないのか肩をすくめて見せた。
充晶は女子の相手でそれどころではなさそうである。
清司はため息をつくと、康樹に向き直り、極力威圧感が出ないよう気をつけて言った。
「まず、なんでそこの女子が泣いてんのかを説明しろよ」
「いや、昨日あったこと二人に話したらさ、急に泣きだしちゃって……」
それを聞いて、清司は思わず呆れた顔をしてしまう。
隣の太壱も恐らく同じリアクションだろう。
恐らく康樹自身が、もとから怪現象やらなにやらを興味津々に追いかけていた事と、最近手に入ったモノのおかげで、実際にそういったものに接する機会ができたせいで、何も知らない一般人の恐怖心がわからないのだろうと予測がつく。
そして彼女自身も、廃病院という立入禁止エリアに踏み入ってしまったことと、身内がそこから勝手に物品を持ち出してきたという負い目に加え、廃病院の電話番号と合致する相手からの定期的な着信で、不安がピークだったところに、昨日ここであった怪現象を、馬鹿正直な康樹から全て聞かされたに違いない。
それがどれほど今の彼女の心にダメージを与えたか。
察するに余りある。
「お前の辞書には、デリカシーという言葉も載っていないらしいな。今度充晶からみっちり教わっとけ」
「え、あ、うん。なんか、ごめん」
辛辣な清司の言葉に、康樹は素直に謝った。
状況はわかった。
ひとまずここは、彼女を落ち着かせて泣き止んでもらうことから始めるべきか。
とはいえ、清司自身もこういうときに使えるような、気の利いた言葉を知っているわけもなく、どうしたものかと閉口する。
充晶に目配せするが、彼もこれ以上はなすすべが無いようだ。
清司は内心、面倒くさくなってきたのを感じ、ため息をつく。
そもそも、怖くなって泣くくらいなら、そのような場所に行かなければいいのだ。
女子二人に向き直ると、頬杖をついて声をかける。
「おいあんた、泣いたって、どうにもなんねぇぞ」
その言葉に、ショートカットの方が清司を睨みつけた。
「ちょっとあんた、どういうつもり?この子こんなに怖がってるのに——」
「だから何だってんだよ」
「はあ⁉」
康樹を指差して言う。
「こいつがどういうふうに話して怖くなったか知らねぇが、今回その元凶作っちまったのは自分自身だろうよ。ガキじゃねぇんだ。後悔するくらいなら最初から行かなければよかったんだ」
ショートカットの女子を軽く睨みながら言うと、セミロングの方がようやく顔を上げた。
涙に濡れたその顔は、やはり大人しそうな顔立ちで、優等生だと言われれば疑われはしないだろう。
人は見た目によらないなと、つくづく思う。
「ひっく……ちょっと……みんなで行くのが楽しそうで……ついて行っただけなの……」
彼女は、なおも涙を流しながら、清司を見て言う。
言っていることは嘘ではないのだろう。
が、いくら泣いたところで同情の余地はない。
「それでもだ。曰く付きなんて場所は、入っただけでヤバイこともある。「死にたくなけりゃ近づくな」が鉄則なんだよ。今回は物持ち出してるから、そっちが原因だろうけどな」
清司が冷たく言い放つと、彼女は再び目を伏せた。
ティッシュを握りしめ、震えだした彼女をショートカットの方が「大丈夫だよ、ね?」などとなだめている。
「やっぱり……私……呪われて——」
「それはねえよ」
セミロングが絞り出すように言った言葉を遮るように否定して、清司は残りの缶コーヒーを飲み干した。
「……え?」
理解が追いつかないのか、彼女はぽかんとした表情で清司を見る。
彼女の隣ではショートカット女子も似たような表情をしていた。
「どうしてそう言い切れるの?まあ、呪いっていうのも少しオーバーかなとは、僕も思うけど」
充晶も、清司を見てそんなことを言う。
「呪いってのは、そもそもの成り立ちが小難しいものなんだ。放置された建物に入ってゴミみたいな物持ち出したからって、簡単に呪われるようなブービートラップ、あってたまるかって話なんだよ」
清司がため息をつくと、太壱がそう補足で説明した。
太壱は少し苛立った様子で続ける。
「大体さ。君、さっきからじぶ——」
「太壱」
放っておけば、二人を攻め始めかねない彼を、清司が止める。
止められた太壱は、少し意外そうな表情を浮かべたあと、舌打ちして顔を背けた。
ここまで聞く限り、セミロングの女子は自分の心配ばかりで、ともに行った兄の事を心配する様子もなければ、きっかけと思われるあの三点セットを渡した康樹の事を気にする様子もない。
ショートの女子の方は、セミロングの心配をするあまり、周りの人間を睨みつける始末。
人間の自己中心の極みを見せられているようで、気分が悪くなる。
空になった缶をもてあそびながら、清司は話を戻した。
「ともかく、今回はこっちで全部達片付けてやる。これに懲りたらそういう場所にはもう行くな」
「う、うん」
「あとの話は康樹としてくれ」
「ほ、ホントに、もう大丈夫なの?」
そのセミロング女子の念を押す言葉に、かたかたと揺らしていた缶の動きを止めると、清司は手元に向けていた視線を彼女に戻した。
「あっちとはもう話がついてる。後は物を返すだけだ」
清司はそう言って立ち上がると、空き缶を手に準備室から出た。
これ以上彼女と話をする気にはなれない。
◆
〈お前、抜け駆けすんなよ〉
帰宅した途端に着信を知らせたスマートフォンを、画面を確認せずに取ってしまい、清司は軽く後悔した。
開口一番に責められ、一瞬なんの事かと考えるが、すぐに化学準備室から出たタイミングの事に思い至る。
電話口の相手は太壱だ。
「別に、しようと思ってしたわけじゃねえよ」
言い訳がましく聞こえるかもしれないが、清司はそう言いながらハンズフリー通話に切り替え、制服から着替える。
〈あのあと、あの片割れの女子、お前にガチギレして大変だったんだぞ〉
「そんなもん勝手に言わしとけ。外野なんぞどうでもいい」
あのショートカットの女子がきーきー喚いている姿が浮かび、苦虫を噛み潰したような顔になった。
太壱が見たら何らかのツッコミを受けていたかもしれない。
〈おれもまじであのタイプ無理だったから、その時点で離脱したけどよ〉
「お前にしては珍しくキレてるなとは思った」
そう言うと、太壱の笑い声が聞こえた。
あの状況で、彼女にうんざりしていたのが自分だけではなかったと知って、内心ホッとする。
〈で、お前が言ってた話つけたって、どういうことだよ?〉
太壱にそう問われて、はたと考える。
半袖のシャツに袖を通し、机に置いていたスマートフォンを手に取ると、ベッドに腰掛け、自分の昨晩の行動を振り返った。
が、最適な表現が見当たらず、そのままを言葉にする。
「いや、普通に話した」
〈普通とは⁉〉
「電話がかかってきたから、普通に出て、こっちの都合言ったら黙った」
〈それは普通じゃないからな!ほんっと普通じゃないからな⁉〉
「そ、そうなの、か?」
〈お前、もう少し自分の事自覚しろ?〉
「……お、おう」
〈……その反応はあんまりわかってねえな〉
「………………」
太壱の反応に、改めて考える。
はたして、太壱が言う普通とは何なのか。
自分の中ではそこまで周りとずれた思考をしているつもりはないのだが。
〈はあー。まあいいや。とにかく、お前、最近やってること、そこらの霊能者じゃまず無理ゲーだからな?〉
「……できないのか?」
ため息まじりの太壱の言葉に驚きが隠せない。
〈聞いたことねえよ!だから何だって話だけどな‼〉
「そうか……」
これまで、世間一般の、霊能者として活躍している人たちは、自分がやっている事はできて当然と思っていたのだ。
では、世の霊能者を語る人間ができることとは、一体何なのか。
若干がっかりし、肩を落とす。
〈いいか、康樹と充晶にはできること言うなよ?あいつらすぐ調子に乗って、無駄にいろんな話拾ってくるぞ〉
太壱は「まったく」とため息をつき、忠告をする。
その意味を噛み砕き、飲み込んだところで出てきた言葉は、ひどくシンプルなものだった。
「……それは……めんどくさいな」
〈そう言うと思ったよ。ったく。めんどくさいじゃ済まないことになる前に言っとこうと思っただけだ。じゃあな〉
その言葉を最後に一方的に通話が途切れる。
手にしていたスマートフォンをベッド上に放り投げて、彼はため息をついた。
やってしまったことは仕方がない。
今後気をつけるしかないだろう。
が、今の時点であの二人に、自分の能力がどこまで評価されているかが問題な気がしないでもない。
そこまで考えて、彼はそのまま両腕を広げて寝転がる。
自分の事を俯瞰して考えるのは、昔から苦手分野だし、疲れることは嫌いだ。
そのまま目を閉じ、夕飯までの短い時の間惰眠を貪ることにした。
サイキック・ケースワーカーズ 柳谷清司の怪奇録 風月 @fuduki07
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