「昼休みの……」
この高校は、戦前からの歴史がある古い学校だが、それと同時にこの学校食堂も、同じだけの歴史を重ねている。
その日の昼休み。
清司は、朝からどうしても蕎麦が食べたくなって、母親作成の弁当を断って、食堂の券売機前に並んでいた。
券売機の蕎麦のエリアには、「かけそば」「たぬきそば」「きつねそば」「カレーそば」など代表的なものから、「なめこそば」や「おろしそば」などの変わり種まで並んでいる。
何故か蕎麦のメニューが豊富なのだ。
蕎麦屋だと言われれば信じてしまいそうなラインナップである。
数日前の放課後。
もはやたまり場となっている化学準備室で、ひょんな事から食堂のメニューの話になった。
彼は普段弁当持参なので、食堂を利用することはなかったのだが、化学担当教師の長谷川曰く、
「九華の学食のきつねそばは、卒業までに一度は食べておくべきですよ」
と言う話だった。
食堂のメニューは基本外部委託だが、蕎麦だけは昔から、厨房で鰹と昆布でだしを取るところから作っているという。
汁に使われる醤油は、他のメニューにも使われているが、かつては醤油蔵だった地元の醤油工場から、昔と同じ製法で作られたものを仕入れ、麺も地元の老舗製麺所のもの。
そして、きつねそばのおあげに関しては、市販のあげではなく、地元の老舗豆腐屋の油揚げを仕入れ、毎日煮含めるところから仕込むという本格仕様。
その味は代々受け継がれており、卒業生も懐かしがって、学校が解放される学校祭の時には、わざわざ食堂のきつねそばを食べるためだけに、他県から帰ってくるファンもいるのだとか。
そんな話を聞いてしまっては、食べないわけにはいかない。
季節は初夏だが、空調が効いた食堂内なら、温かい麺でも苦にはならないだろう。
清司は迷わず券売機の「きつねそば」のボタンを押すと、出てきた券を手に配膳口へ並んだ。
◆
「今年もいい匂いさせてるわね〜」
その突然の声に、食堂内が静まり返る。
見ると、派手な金髪の女子生徒が、食堂の入り口で満面の笑みで立っていた。
その見た目は一見派手だが、目鼻立ちはモデルかというくらい整っており、肌の色も白い。
金髪も、染めているというよりは、外国人のそれだ。
清司はそれだけを確認すると、目の前で作られる自分のきつねそばに視線を戻した。
もとより興味もないし、今は件のきつねそばの方が重要案件だ。
茹で上がった麺がどんぶりに盛られると、汁が滴るあげと刻みネギがのせられ、つゆが上から注がれる。
完成し、美味しそうな湯気がのぼるそれを厨房の高齢女性から受け取って、彼は飲食スペースを見渡した。
席はちらほらと空いている。
適当に一番近い場所に目星をつけ、歩き出す。
ふと気づくと、みな一様に手を止め、ある一点に視線を向けていた。
視線の先を見ると、先の女子生徒が自分の少し後ろで、先程自分がしたように、厨房からきつねそばを受け取っている。
女子生徒は、蕎麦が乗ったトレーを手にこちらに視線を向け、目が合うと、にっこりと微笑んで、
「よかったら、一緒に食べない?」
と声をかけてきた。
が、清司は視線をそらし、
「断る」
そう短く返し、予定通りの席に腰を下ろした。
とたん、周囲のざわめきが戻ってくる。
一人の女子生徒に注目していた他の生徒や教員たちは、何事もなかったかのようにそれまでの行動を再開した。
◆
戻ってきたざわめきの中。
他にも空いている席があるにもかかわらず、わざわざ清司の正面の席に、女子生徒は腰を下ろすと、その見た目とは裏腹に、きちんと両手を合わせ、礼儀正しくいただきますとつぶやいてから食べ始めた。
正面の人物はさておき。
清司自身も噂のきつねそばに向き合う。
見た目は何の変哲もない、三角のあげが2枚と、小口切りのねぎがトッピングされただけの普通の蕎麦だ。
ただ、香りがとても良い。
本格的な合わせだしの蕎麦つゆと重なって、あげの甘辛い匂いが漂う。
麺も蕎麦屋の手打ちのものとまでは当然いかないが、コシのある細麺でのどごしがいい。
あげは、一口かじるとしっかりとしみ込んだ汁が、じわっとしみ出てくる。
程よい甘じょっぱさで、つゆとも相性抜群だ。
食堂のクオリティとは思えない味に驚きつつ、きつねそばを食べすすめ、十五分とかからずに汁まで完食してしまった。
確かにこれは、また食べたいと思うのはわかる。
大盛りにすればよかったと軽く後悔しつつ、立ち上がったところで、同じメニューを食べすすめていた女子生徒が、またも声をかけてきた。
「おまえ、面白い目を持っているのね」
目を細め、弧を描く口から発せられるその声に怖気が走る。
思わず動きを止めると、彼女はこともなげに続けた。
「周りのことは気にすることはないわ。私がいる間の記憶は他の記憶に置き換わる。私のことは、誰も覚えていられないの」
改めて周りの生徒を見渡すと、先程はあれだけ彼女に熱のある視線を向けていたにもかかわらず、今はまるでそんなことはなかったし、彼女が存在していないかのようだ。
「そういう術なの。ぜーんぶ私の手の内。ちなみに、あなたには効いてないみたいなんだけど、その目のせいかしら?それとも魂のせい?」
言いながら立ち上がり、彼女は清司の正面に立つと、上目遣いで見つめてきた。
そしてその整えられた鋭い爪が目につく、細く白い指先を、心臓のあたりに這わせてくる。
その指から逃げるように一歩下がると、一気に冷や汗が吹き出してきた。
得体のしれない存在を前に、どうにか声を絞り出す。
「……人間、じゃねぇな?」
「そうね。人の姿は借りているけれど、人じゃあない。その点お前は、人なのに、随分人とかけはなれているじゃない?」
彼女はそう言うと、口元を手で隠し、クククと笑って席に座り直した。
その正面の、それまで清司が座っていた席を指差し、表情を変えないまま言う。
「もう少し話がしたい。お座り」
清司は、それに素直に従うのははたして安全なのかを考え、ためらう。
彼女はそれを見越したのか、
「座れ」
と鋭く言ってきた。
同時に、何か術でもかけられたのだろうか。
清司の意に反して、身体がぎくしゃくとした動きで勝手に席に座った。
「なにも取って食おうってわけじゃないわ。人を食うのは、この食堂ができた時にやめたの。人の肉より、この蕎麦のほうが美味しいから」
清司が席に座ったことで満足したのか、彼女は食べている途中だった蕎麦を再び食べ始める。
何も言葉を発せないまま、その光景を見守ることしかできず、少しして、残りを完食した彼女は、満足気に卓上の紙ナフキンで口を拭きつつ、食器が乗ったトレーを横にずらした。
頬杖をつくと、男からすれば非常に魅惑的に見える微笑みを浮かべ、こちらの目を見つめてくる。
ひどく無駄な時間に感じるが、身体の自由が戻らない中、彼女の視線を睨み返すこと数秒。
彼女はぱっと視線を外し、大きなため息をついた。
「だめね!やっぱりおまえに魅了はかからない。縛りは効いたのに。どういう仕組みなのか、その目えぐって確かめたいくらい!」
どうやらこの時間は、彼女の術のお試し時間だったようだ。
「年に一度のお楽しみに、随分面白い人の子がいたものだわ。どうしようかなぁ。連れて帰りたいな。でもなぁ。アレに睨まれてここの蕎麦食べられなくなるのは嫌だなぁ」
そんなことをぶつぶつと言いながら唸りだす。
このままでは、昼休みの時間いっぱい、この目の前の、得体のしれない女子生徒の姿をした何かのおもちゃにされそうである。
それだけは御免こうむりたい。
そもそも、ここまで注目されてしまっては、はたしてこの昼休みの時間だけで開放されるのかも疑問だが。
清司は、金縛りをどうにか解けないかと身体に力を入れてみるが、上手くは行かなかった。
「んー?あぁ、縛りのおかげで喋れないのね!」
彼女はそう言ってテーブルに身を乗り出すと、右腕を伸ばして、人差し指で唇をなぞる。
と、喉と口元に自由が戻り、彼は思っていたことをようやく口に出した。
「あんたは一体何なんだ?なんでわざわざ生徒に紛れてまで学食の蕎麦食ってんだよ?」
それを聞いて、彼女はきょとんとした表情を見せたあと、けたけたと笑い始めた。
何がそんなにおかしいというのか。
清司は苛立ちもあらわに視線をそらした。
口以外の自由が戻らないことも、苛立ちの原因の一つだが。
ひとしきり笑ったあと、彼女はすうっと息を吐き、清司に顔を寄せて言う。
「まず一つ。おまえの目は、そこまで節穴じゃぁないだろう?」
耳元で囁くように言われて、彼女に視線を戻すと、彼女の背後に何かゆらゆらとしたものが九つ、薄っすらと見えた。
思わず目を丸くすると、彼女はまた、けたけたと笑ってみせる。
「普段は絶対に見られないようにしてるけど、おまえが見えるか確かめたくて。さっきから気配だけは出していたのに、おまえ全然見ないのだもの」
からかうように言うと、清司の顎をひとなでしてからもとの位置に戻った。
「……名のある妖怪か」
「そうね。昔は遊びで国を滅ぼしてた時期もあったから、ちょっとは有名かしら」
「はぁ?」
「白面金毛九尾の狐といえば、昔の人間はわかったけど……この国だと
妖怪の名前に特別詳しいというわけではないが、あまりにも有名な固有名詞の登場に、驚きが隠せない。
九尾の狐など、過去の人間が作った創作物だと思っていた。
しかし、仮に本当に目の前の彼女が有名な狐だったとしたならば、昔から伝わる、退治されたあとに残ったとされる殺生石やらなにやらの話はどうなるのか。
「……あんた、退治されたって話で伝わってるのは何なんだ?」
「あんなの、フリに決まってるじゃない」
「フリだぁ?」
「そ。私の毛玉作って、力込めてそれらしくしたら騙されてくれたから、私はその隙に逃げたってわけ」
ということは、現存して、今でも手厚く供養されているあの岩は、この化け狐の毛玉ということか。
そしてその化け狐の心を掴んで離さないのが、この地方都市の片隅の、どこにでもあるような学食のきつねそばとは、なんの冗談だろう。
「……とりあえず、金縛りを解いてくれ」
ひとまず清司は、この落ち着かない状況を打開するべく、そう懇願した。
◆
食べ終えた食器を下善口に下げ、清司は彼女と共に校舎北階段の踊場に移動した。
その階段は校舎の外れに位置しているせいか、普段から人通りはほとんどない。
「こんなひとけの無いところに呼び出して。イヤらしいわね。何をする気なのかしら?」
にやにやしながらそう言うと、彼女は階段の真ん中あたりで腰を下ろした。
「何もしねぇし何もねぇ!つか、あんたが何もねぇなら俺は教室戻るぞ!?」
「やーねー。ほんの冗談なのに」
怒鳴るように言った清司に対して、彼女は頬杖をつきながら言う。
清司はため息をついて階段正面の壁に寄りかかった。
「で、俺はいつまであんたの暇潰しに付き合えばいいんだ?」
彼がそう言うと、長い髪の毛先をくるくるともてあそんでいた彼女は、表情を崩さず返す。
「あら。その言い方だと、私の気が済むまで相手してくれるように聞こえるのだけど?」
「そんなことは言ってない。昼休み中だけだ」
「なーんだ。つまらない」
ぶっきらぼうに言った彼の言葉に、彼女はそう言って唇を尖らせると、そっぽを向いた。
「それにあんた、敵意は無いみたいだからな」
清司自身、これまで妖怪に会ったことがないわけではない。
しかし、これまでの経験上、言葉が通じる妖怪は人間の世界に馴染んでいるものが多く、大体は友好的だった。
目の前の大妖怪がどうかは知らないが。
「あら?敵意があったら何なのかしら?」
顔を背けたままの彼女は、はたと気付いたようにそう言って、横目にこちらを見る。
何に気付いたのかはわからないが、直前までと空気が変わったように感じるのは気のせいか。
「さあな。喧嘩くらいにはなるんじゃねぇか?俺が死ぬからやらねぇけど」
清司は言いながら、万が一のためにいつでも動けるよう、壁から身を離した。
大仰な動きは見せないよう、自然体で。
身体の重心を中央に置くよう意識する。
「よくわかってるじゃない。でもね……」
女子高生の姿を模した大妖怪は、ゆっくりと立ち上がると、そう言いながらゆっくりと階段を降りてきた。
「だけどね……おまえ、とても蠱惑的な、美味しそうな匂いがしているの」
最後の一段を降りるとほぼ同時。
「――っ!?」
彼女は予備動作もなしに、一瞬で清司に肉迫すると、清司の胸ぐらをつかみ、そのまま床に引き倒した。
床に後頭部を打ちつけるすんでのところで、逆方向の力で引き止められ、静止する。
「あっははははは!その年までよく無事でいられたものよね!」
スカートが翻るのを気にすることもなく、人間には到底真似できない芸当を披露した彼女は、清司の胸ぐらを掴んだまま馬乗りになると、身体をゆっくりと床に降ろした。
清司はすぐさま起き上がろうとするが、喉に鋭利な爪を突きつけられ、断念する。
両手足は自由だが、人外の腕力を見せつけられては、力技でどうにかしようという気にもならない。
白秋を使おうかとも思うが、その動きを見せた瞬間に何が起こるかは明白だった。
「……人間食うのは、止めたんじゃなかったのか?」
苦し紛れに言うが、それもさして意味は無いだろう。
「くくく、あははははは!ばぁーーーか!それはそれ、これはこれよ!」
清司の言葉を聞いた彼女が、心の底から馬鹿にするように笑う。
「……くそっ」
「どうせ今まで、腑抜けた今どきの奴等しか見てこなかったんでしょ?そうよね。この国の妖怪はみんな大人しいもの」
毒づくしかない清司を、とらえた獲物を見るような目つきで見つめる目は、もはや人を模したそれではなく、肉食の獣そのものだ。
「惨たらしく殺したりはしないわ。血の一滴も、髪の毛一本も残さずキレイに食べ尽くしてあげる。でもそれまでの間ちゃーんと恐怖を感じてくれなきゃ嫌よ?恐怖に歪んだ人間の顔を見ながら食べる肝が、最っ高に美味しいんだから。でも、今まで食べてきた中でも、おまえは最上級に美味しそう。他の人間と匂いが違うもの。あ、ちなみに過去最高に美味しかったのは若い陰陽師。あの時は、どうやったら生きたまま肝を取り出して食べられるかやってみたの。意外と人間って死なないのね。びっくりしたけど、あの肝がほんっとうに甘くてまろやかで、香りもよくってとろけるようだったの。だからおまえも簡単に死んでは駄目よ?できるわよね?」
「できるか!!」
彼女は恍惚とした表情を浮かべて、聞いてもいないことを並べるが、清司はたまらず反論した。
何を想像しているのか。
考えたくもないが、彼の身体に触れる指はどこか艶めかしい。
その指がいつ、どう動くのかわからず、緊張で冷や汗が流れた。
その時だった。
「ゔぁーーーー!!」
「ぎゃん!?」
彼女の背後から突然作業服姿の男が現れ、ぶん回された横薙ぎの竹箒に吹き飛ばされる。
「用務員!?」
「ゔぅーーー!!」
清司が驚きの声をあげると同時に、男がうなり声をあげた。
「屋敷神もどきが、どうして……!」
勢いよく壁にぶつかった彼女が立ち上がり、男をにらむ。
竹箒が当たった方は、変化が解けているようで、狐の姿が見えてしまっている。
が、男は怯むことなく、竹箒を片手に仁王立ちし、彼女をにらみ返した。
「あ゛ーー」
「アレの監視下!?見てるの!?え、やだ!ウソ!?」
はたからみている清司には、男の声は濁ったうなり声にしか聞こえないが、相対する彼女には言語として聞こえているらしく、二人の会話が展開される。
「だって、今日は新潟に酒を買いに出かけるからいないって……!」
「あ゛ぅー」
「それに、年に一回一日だけは好きにしていいっていう約束……」
「あ゛」
「人の子一人くらい良いじゃない!こんな人間、数百年に一人いるかいないかよ⁉SSRの星五の超上級よ⁉」
「ゔぅー」
「わかったわよ!……なによもう!せっかくいいところだったのに!……デザートに指一本くらい……」
「ゔ!」
「あーん!わかったわよ!もう帰るわよ!」
どうやらもう一人、見えない何かの強い影響があるようで、彼女は大人しく退散する流れのようだ。
「………………」
静かに起き上がり、成り行きを黙って見守っていると、彼女は涙目になりながら、ぎろっと清司をにらむ。
「ちょっとおまえ!一年でしょ!去年はいなかった!名前は!?」
「誰が教えるか!」
食われそうになったというのに、すんなり教えるほどお人好しではない清司は、そう言って彼女をにらみ返すが、
「言わせてもいいのよ?」
「柳谷清司だ」
その言葉に先の食堂での術を思い出し、彼は即答した。
ここで逆らうほど向こう見ずでもない。
「覚えておきなさい!柳谷清司、おまえはほんとうに堪らなく美味しそうな匂いがする人間なんだからね!他の妖怪だの化け物だのに食われるんじゃないわよ!」
よほど悔しいのか、彼女は一度拭った目元をすぐにまた潤ませ、指をさして言う。
「そもそも食われてたまるか!」
立ち上がった清司はたまらずそう返すが、彼女は、再び今にも溢れそうになっている涙を拭い、
「……他のやつに味見でもされようものなら許さないからね!味見したヤツもろとも、ここら一帯焦土にしてやるから!!」
そんな恐ろしいことを言い残して、文字通り、どろんと消えてしまった。
突如現れた作業服姿の男——用務員の蒲田に助けられた形になった清司は、彼に向き直る。
蒲田ははっとした様子を見せたあと、心配そうな表情でおろおろと清司の身体のあちこちを見ている。
「あー……怪我はしてない」
清司がそう言うと、蒲田は心底ほっとした表情で、胸をなでおろした。
胸ポケットからメモ紙と鉛筆を取り出し、さらさらと書き始める。
“気づくのが遅かった
ごめんね
呼んでくれればよかったのに”
その内容に疑問符が浮ぶ。
「なんであんたを呼べば何とかなる話になってんだ?」
そう言ったところで、タイミングが悪く予鈴が鳴る。
「げ!」
“放課後呼んで”
「わかった」
そんな短いやり取りをして、清司は階段を駆け下りた。
◆
放課後。
昼休みの階段の踊り場に再び来た清司は、ふと考えた。
蒲田は「呼んで」と言ったが、一体どう呼べば良いのだろうか。
まさか、校内で大声を出すわけにもいかない。
一人考えていると、ふいに肩を叩かれる。
驚いて顔を上げると、いつの間にそこにいたのか、蒲田がにこにことこちらを見ていた。
「居たのかよ」
清司がつぶやくようにいうと、蒲田はメモ紙を見せてきた。
“呼び出し方法
伝えてなかった
待ってた”
そのまま追加で何やら書き始める。
“この学校の守りを任されることになった
何かあったら窓三回ノックして”
そう書かれたメモを見せ、相変わらず笑顔の蒲田に、清司はため息をついた。
聞きたいことはいくつかある。
話が長くなることを覚悟し、清司は階段の段差に座った。
目線を合わせたいのだろう。
蒲田も階段の踊り場にあぐらをかいて座る。
「呼び出し方はわかった。使うことはないと思うけどな。それより聞きたいのは、昼休みのあれは何だったんだってことなんだが?」
聞かれた蒲田は頷くと、メモ紙に鉛筆を走らせた。
“あれは妖怪
近づかないで
本当に食べられる”
「いや、そんなことはわかってんだよ。俺が聞きたいのは、何であんな有名な妖怪がうちの学食の蕎麦食ってんだって話だ」
そもそも捕食される危険があるのに、自分から近づくほど間抜けではない。
蒲田は更に鉛筆を動かす。
“あのきつねそばが美味しいから
それこそおあげだけでも戦前から受け継がれてる味
年に一回一日だけ食べに来てもいいって言われてる
楽しみにして毎年来てる
来年も多分来る”
「それだけ?あの蕎麦が美味いからってだけで、わざわざ人間に化けて食いに来てるってのか⁉」
その内容に、清司は驚きと呆れを同時におぼえ、複雑な気持ちになる。
長く生きると、そういうものなのだろうか。
今の世の中、他にも美味しいものは溢れているし、蕎麦屋だって、探せばもっと古い老舗の店があるだろうに。
それと同時に浮上する、気になる存在がもう一つ。
「……年に一度だけって、誰が許可出してんだ?許可出すってことは、逆に立入禁止にしてる偉いやつがいるってことか?」
話の流れを単純にみれば、あの大妖怪に大人しく、その約束を守らせるほどの力を持つ存在がいるということだろう。
蒲田がその存在をちらつかせたということは、彼の上役ということにもなるのだろうか。
“昔からこの辺の土地仕切ってる妖怪がいる
あの狐の妖怪も古いけどもっと古い
神様に近い
すごいよ
この辺の妖怪が大人しいのはあの妖怪のおかげ
何でもお見通し
人に害のある妖怪は土地に入れない”
そこまで書かれたメモ紙を見せると、蒲田はふすんと得意げに鼻を鳴らした。
「そうかい。そいつがあんたの上司みたいなもんか?」
妖怪やら幽霊やらに、人間社会のような上下関係が存在するのか疑問だが、清司の確認に、蒲田はこくりと頷く。
「……で、あんた、屋敷神ってのになったのか?そもそも屋敷神ってのは何なんだ?」
その清司の疑問に答えようと、蒲田はメモ紙に視線を落とす。
“自分長く居すぎて土地との結びつきが強くなりすぎて学校から出られなくなってたでしょう
で
さっき言った妖怪が来て
前任がいなくなって悪いものが溜まり始めたからどうせ居るならやってほしいって
頼まれたから引き受けた
学校敷地内なら自分負けない
さっきみたいによそから来た妖怪なら追い払える
ようになった
もともと居るのはできないけど”
書き終わった蒲田がメモ紙を見せてくる。
清司がそれを読み終わると、続けて鉛筆を動かし始めた。
“あと
建物が長持ちするように手伝うこともできる
見えない壊れたところ知らせるとか
生きた人に付いてくる悪いものが居座らないようにはらったり
火事が起こらないようにしたりとか
世の中
古い家長持ちしてるのはこういう家神や屋敷神みたいなのがいるからって妖怪に言われた”
「そういうもんか」
どうやら、書いてみせた内容が誇らしげなようで、蒲田はふんふんと、やはり得意げに鼻を鳴らす。
ここ数日、校内が外と比べてやけに静かに感じていたが、どうやら彼の働きのおかげだったらしい。
前任者のことも気になるといえば気になるが、それは自分には関係のないことだろう。
清司は立ち上がると、ズボンに付いた埃を払いながら蒲田に言う。
「じゃあ、あんたがいれば校内は安全ってことだな?」
言われて、蒲田は笑顔で頷き、立ち上がる。
「そうか……今回は助かった、ありがとう」
蒲田が立ち上がったところで、清司はそう言いながら頭を下げた。
今回のあの化け狐は本当に質が悪かった。
もし彼がいなければ、もしかしたら今頃、良くて片腕、最悪全てを食われて、この世とオサラバしていたかもしれないのだから。
そんな清司の姿に、蒲田は何やらあたふたしたあと、頬をかきながら照れたような表情を見せ、またメモ紙に鉛筆を走らせる。
“そんな
かしこまらなくていいよ
お礼言われるの慣れてない
それに生徒守るの当然
何かあったら遠慮しないでまた呼んで”
そんな内容のメモを見せたあと、彼は笑顔で手を振りながら、壁の中へ消えていった。
◆
数日後の昼休み。
持参の弁当を食べ終えた清司は、廊下の掲示板に張り出されたポスターを見ていた。
内容は食堂の期間限定メニューの告知だ。
「お、清司、なに見てんの?」
たまたま通りかかった康樹が、興味津々に覗き込む。
「夏季限定冷たい麺シリーズ?蕎麦ばっかりだなー。あ、冷中あるじゃん」
ポスターの内容を読んで、康樹はそんな感想をもらした。
普段から食堂を利用しているはずなのに、意外な発言だ。
「おまえ、食堂の蕎麦、食ったことないのか?」
「そういえばないかも。学食使うときは食うならカレーかラーメンだし、蕎麦かうどんかって聞かれたら、オレうどん派なんだよな」
書かれているメニューの内容をチェックしつつ尋ねると、康樹はうーんと考えながら返す。
「一回食っとけ。きつねそばは美味かった」
先日の蕎麦を思い出すと、どうしても化け狐のことも思い出してしまうが、それはそれだ。
きつねそばは本当に美味しかった。
「マジで?」
「あぁ。あれは食っておいたほうがいい」
康樹の反応に、清司は味を思い出しながら返答する。
と、康樹がはたと気づいたように聞いてきた。
「ん?でもおまえ弁当組だろ?どこ情報だよ」
「長谷川先生」
「あーね」
情報の出処に、彼は納得した表情でそんな声をもらした。
「間違いなく美味かった。次は落ち着いて食いたい」
そう言いながら教室に向かい歩き出す。
ポスターに書かれたメニューには、夏季限定の「冷しきつねそば」があった。
今度こそ落ち着いて。
そして大盛り注文で食べようと、廊下を歩きながら清司は密かに心に誓った。
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