黒と、白

志乃亜サク

黒と、白

 はじめに誰がそう呼んだのか。

 それは「黒」と呼ばれていた。


 いきもののようでもあり、気象のようでもあるもの。

 形がなく、温度もなく、色のないもの。

 穴のように隙間のように、それそのものには実体もなく周囲の物理と結んで初めて存在しうるもの。


 では人がなぜそれを黒と呼ぶのかといえば、それがふしぎと黒を好むからだ。月のない夜を好み、光と光のあいだにぽっかりとあいた虚空のような闇を好むからだ。


 どういう加減か、それは時おり人の目にも映ることがあるという。

 といっても、それはある天体が周囲の光をわずかに屈折させることで存在を示すように、そこになにがしかの異物があるよう感ぜられるに過ぎない。

 

 そしてその透明な身体の向こうにあるのは、決まって黒だった。

 見上げた夜空に泳ぐ奇妙なものを、誰かが「黒」と呼んだのだ。



 さて、今夜は新月。


 いままたひとつの「黒」が、はるかな高みから街を睥睨していた。

 眼下の太い道には紅白の光が行き交い、うねりながら河のように流れている。その河に沿うようにして幾千、幾万もの塔が立ち並び、そこにいた無数の孔からまた光が漏れていた。


 びゅうびゅうと冷たい風が彼の身体を通っていった。彼はそんなことに頓着する様子もなく、ぬうめりとした魚のように音もなく夜を泳いでいる。


 彼——と呼ぶのが適切かはわからないが、彼は探していた。彼が好む、より深い黒を。今夜のねぐらとするのに相応しい、心地良い夜を。


 もし彼が単に視覚的な暗闇を求めるのであるなら、なにもこんな絢爛たる都会を探す必要はなかった。人里離れた山林にそれを求めれば、いくらでも見つけることができるだろう。

 だが朝になれば霧散してしまうような儚い闇を、彼は好まなかった。払暁に追い立てられ夜から引き剝がされるその不快を、彼は好まなかったのである。


 彼がとくに好んで求めたのは、人の心の内にある闇だった。なぜならそれは夜の森よりなお暗く、朝を迎えても消えることのない闇だからである。


 人の心の闇は、つくづく甘美だ。

 彼は幾度も反芻する。

 かつて彼がねぐらとしてきた無数の者たちの、闇の味を。

 王侯、僧侶に学者、やくざ者、女衒に娼婦……老若も男女も貴賎も貧富も区別なく、みなそれぞれがそれぞれの闇を有していた。


 たとえばあの男。名さえ知らぬあの男の闇の味——。

 病の老母にはよく孝行し、公共に力を尽くし、面倒ごとを進んで引き受け、困る者があれば手を差し伸べ、みずからは嫁もとらず、遊びもせず、誰もが善人と呼んだあの男。


 しかしこの清貧の男に蓄積した孤独を、疲労を、焦燥を、誰が知っていただろうか。


 ある新月の夜。男はどうしても寝つけずにあばら屋の戸を開けて外へ出た。

 家の奥では老母がしずかに寝息を立てている。村も草も木も、眠りの中にあった。あるいは男自身も微睡の中にあったのかもしれない。

 男は、しんしんと鳴る森を抜け、沢へと降りた。獣や妖に出くわさないとも限らない。が、ふしぎと恐れはなかった。沢には緩やかな風が吹き、水面が光っていた。

 男はそこで夜空を見上げ、星の爛々と瞬く間に悠然と泳ぐ「黒」を目に映し、そうして彼を心に宿したのであった。


 男の右手には、錆びた鎌が握られていた。沢に降りる間の叢を払うため、戸口に立てかけてあったのを持ってきたのだ。


 沢風が強くなった。

 男はそのなまくらな刃の鈍い光を眺めながら、自分をこの境遇へと追いやった人々の悪意なき顔を順番に思った。そうして先刻まで思いもよらなかったある黒い念慮が心にしみのように広がっていくのを感じていた。

 男はみずからの中に生まれた黒い思念を恐れ、慄いた。しかしそれがあるいは元からの願望だったのかもしれないと思い至ったとき、男は声をあげて哭いた。それは山犬の遠吠えのように、谷をかなしく震わせたのだった。


 「黒」は男の内からその咆哮をじつと聴いていた。そして深まり行く闇に沈みながら、その甘美に酔い、眠りについたのである。


 その後男がどこへ行き、どうなったのかは「黒」にもわからない。

 目覚めればまた別の新月の夜。いつものように彼はどこか知らない空に揺蕩っていて、知らない町の知らない灯火をはるかに見下ろしているのだ。そうして彼はふたたびそこに集う人を、彼にとってのねぐらを求めて夜を泳ぐだけである。


 人という生き物はみな、心にはかりを持っている。その天秤の両腕に白と黒の石を置き、天秤が黒側に振れないよう気を配りながら日々を生きている。それが人間じんかんにあるべき振る舞い、倫理であると誰かが決めたためだ。


 人ならぬ彼には人の倫理というものが理解できない。人はそこから外れることを恐れるが、「黒」である彼にしてみれば、人の言う倫理の外がむしろ生物の本道ではないかとも思えるのだ。


 窮屈な生き物だ。彼はそう思う。そのようにみずからを縛る生き物を、彼は他に知らない。だが、それこそが彼が人を愛してやまない理由でもあった。 


 人の中には、はじめから天秤が黒側に振れることにさしたる躊躇ちゅうちょがない者もいる。だがそれらの者が抱える闇のなんと軽薄なことよ。無論、それは彼の好むものではなかった。


 彼がとくに好むのは、左右の皿に限界まで石を積んだ天秤が、一瞬の静止のあと破滅的に平衡を失う瞬間の闇だった。それは善良な人間が……善良であろうと最後まで踏みとどまろうとする人間だけが持ちうる、寸毫の光さえなき極上の闇であった。

 彼はそのことを不条理とは思わない。彼には人間の善というものがわからないし、人の善とはやはり人ならぬものから見れば歪なのだ。それでも、人が人であろうと身悶える姿を、彼は美しいと思った。

 

 

 さて、今夜もまた新月。 

 いつの間にか雨が降り始めていた。


 彼の目に、息を切らしながら自転車で急坂をのぼるひとりの若い男の姿が映っている。

 青白い頬、濡れた肩、震える唇、丸まった背中。しかし目だけは爛々と光っている。


 多くの人の闇を見てきた「黒」には、この若者がいま何かしら大きなものを胸に抱えていることがすぐにわかった。白と黒との間でせめぎ合う者に特有の、魂の匂いのようなものがあるのだ。


 坂の上で足をつき、荒い呼吸とともに意図せず空へと視線を向けたとき、男は少し空がずれたような奇妙な感覚を覚えた。それが「黒」と目を合わせた瞬間であり、それを心に宿した瞬間でもあるとは、男には知る由もなかったが。


 雨が強くなる。

 男はふたたび走り始め、やがてあるアパートの前で自転車を停めた。

 見上げる視線の先には二階の角部屋、カーテンの間から光が漏れているのが見える。そこには、男の恋人が住んでいる。


 いま、男の内なる天秤が白と黒との間で交互に傾きながら揺れている。同じく内にある「黒」にはそれがわかるのだ。といっても彼に作為はない。天秤の傾きに干渉することもない。選ぶのはあくまで人なのだ。「黒」はただ、その選択を眺めるだけである。


 男は濡れた衣服から水滴をおとしながら階段をのぼり、先ほど見上げた一室のチャイムを鳴らした。

 するとまもなくドアが開き、女が出てきた。女は突然の来訪に驚きながら、男を中へと招き入れた。


 濡れた恋人の身体を拭きながら、女は訝しんだ。もとよりこの男の行動は少々突飛なところはあった。これまでも連絡なく夜訪ねてくることもあったし、それに対するこちらの反応を見て楽しむようなところもあった。まあ、それはいい。

 ただ、今日の男は少し緊張した面持ちで、どこか胸に一物を抱えているようにも見える。仕事の悩みか、そうでないなら——ふたりの将来について、だろうか。

 男も女もそろそろ30歳に近づいている。当然、将来を意識する年齢なのでそれとない空気はあるものの、互いに具体的な話は出ていなかった。


「コーヒー淹れるね」


 女が立ち上がろうとするのを、男は女の手を掴んで止めた。そして自分の胸へと引き寄せ、口づけた。雨に濡れたあとだからか、いつもより唇が冷たいように感じられた。


「……寝室、行こうか」


 女が誘い、男が頷く。

 しかし男はしずかに口を開いた。


「その前に、ひとつ白黒つけたいんだ」


「白黒?」


 その言葉に女の心は緊張する。やはり男の様子がいつもと違うのは、今後のふたりの関係を変えかねない何かを抱えているからなのだろう。


「白と黒、どちらかを選んで欲しいんだ」


 そう言って男は、包みをふたつ女に差し出した。


 

 包みの中から出てきたもの。

 まず片方は——白い洋服?

 いや違う。


 これは——ナース服だ。


 「どういうこと?」女は思わずそう言いかけてやめた。もう片方の中身を確認してからでも遅くはないはずだ。


 もう片方の包みを開く。

 黒い。光沢のある黒だ。

 この形状は——水着だろうか?

 いや違う。


 これは——バニーガールだ。


 女は一度天井を見上げ、あらためて男を見た。

 男はまっすぐな瞳で女の目を見つめ返してきた。


 ——なにその綺麗な目

 

「今日はこれ着てするの?」


 女の問いかけに男は深く頷く。

 ……はあ。

 バカだなあ。


「寝室いくよ。それ持ってきて」


「え、結局白黒どっちなの?」


「いいから両方持っといで!」


「うおお……結婚してくれ!」


「なんでやねん!」


 その女の笑顔に、男の中の闇が晴れ渡る。


(なんでやねん!)


 男の中の闇に棲まう「黒」が最後にそう言ったかどうかはわからない。

 ともかく、闇と一緒にどこかへ去ったのは間違いないようだ。


 いつの間にか、外の雨は上がり始めていた。




 


 

 

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黒と、白 志乃亜サク @gophe

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