第5節
一週間前に依頼を受けたのと同じ店で、おれとルナはデニス・ミラー氏と会った。
あとでルナから聞いたのだが、おれたち三人が着いた席も、先週と同じボックス席だという。いまはステージでショーの類いも開かれておらず、店内全体が暗がりに覆われている。
「まずはこちらを。ご依頼の品です、どうぞ」
ルナは例の濃紺の布が張られた小箱を取り出すと、テーブルの向かいのミラー氏にうやうやしく差し出した。
黒のショートボブのウィッグとサングラスで、彼女は変装している。おれのほうは変装というほどでもなく、ジャンパーのフードを目深にかぶっているだけだ。
「ありがとう。さっそく、確認させてもらいますよ」
老人もおごそかな手つきで小箱を受け取り、ふたを開けた。
現れたルビーの指輪を、彼はメガネ越しにじっと見つめる。
豊かな灰色のあごひげの影で、くちびるが満足げな笑みを形作る。
「……間違いありません。ありがとうございました。やはり〈ボトルムーン〉の皆さまに依頼してよかった」
「いえいえ、そう言っていただけて、光栄です。天才贋作師、『ピグマリオン』」
老人の身体が、ぴくりと固まる。
「……昔の話です。お恥ずかしい」
すぐに笑みを取り戻し、彼はふたをした小箱をジャケットにしまった。
「やはり、知られていましたか。あの屋敷の前の持ち主を調べたのですかな? それともまさか、依頼を受けた段階で分かってらした?」
「さすがに前者ですよ。ただ、ロビンソン一家の前にあのお屋敷に住んでいたジェイムズ・スペード氏の正体を突き止められたのは、蛇の道は蛇といったところでしょうかね」
軽く肩をすくめて、ルナも微笑を浮かべてみせる。
澄んだまなざしを、老人と少女は互いに交わす。
「……わたしがあの家を失ったのは、もう十年以上も前のことです」
静かな口調で、デニス・ミラー氏――「ピグマリオン」は話し始めた。
「すでに贋作師を引退して、これも十年以上の年月が経っていました。よくご承知のことかと思いますが、ひとたび恨みを買えば末代まで付け狙われるのが、この世界の習い。ある春の夜、帰宅の途上で私は襲われました。どうも、油断があったんですね。これでも長年、ずいぶんと用心してきたつもりなんですが……いや」
我知らず言い訳がましい口調になっていたのが可笑しかったのか、ピグマリオンは自嘲の混じった苦笑を漏らした。
「正直なところ、刺客たちがいったい何者の差し金だったのか、そのときの私にはまったく分からなかった。黒幕の正体が判明したのは、もっとあとになってからです。とにかく、私は逃げました。相手はなかなか厳重な包囲網を敷いており、屋敷に戻るのは不可能だった。まさに着の身着のままのうちに、私の長い、長い逃避行が始まりました」
老人の口調は淡々と落ち着いたものだったが、おれは固唾を呑んで聴き入っていた。
平穏な日常が一瞬にして終わりを迎える感覚、それまでの我が家に永久に帰れなくなる苦しみは、おれにはよく理解できたのだ。
「はてさて、いったいどのくらい多くの土地をめぐったことやら。最初の二、三年はイギリス国内を逃げ回っていましたが、あるとき、ひょんなきっかけでうっかり大陸に渡ってしまいました。それからまた故郷のこの国に戻ってくるまで、さらに五年ほど。まあ、ここではあまりつらつらとは語りますまい。屋敷を追われたとき、私はすでに六十を越えていましたが、いやしくもこの世界の住人ですからね、年相応よりかはタフに生き抜いてこれたと自負してます」
「あなたがロンドンを離れたあと、あのお屋敷はどうなったんでしょう」
ルナの問いで物語は核心部分に入る。
「半年前のことです。リヴァプールの路地裏で私は、銃で撃たれて死にかけの男と出会いました。よく顔を見てみればこれが驚き、十年前に私を襲った刺客のひとりではないですか。私は死にゆく彼を問い詰め、当時の経緯を聞き出しました。非情だとは、あなた方ならば言いますまいね。どのみち彼が助からないことは、私の目にも明白でしたし」
瀕死の男が話したところによれば、彼はあるギャングが擁するヒットマンだという。老人が推察したとおり、ギャングはかつてピグマリオンが偽造した美術品で大損をさせられたことがあり、その恨みが襲撃の動機だった。
「連中は私がロンドンを離れたあと、あの屋敷を支配下に収めて、邸内に保管してあった財産を根こそぎ持ち出してしまいました。ロビンソン家が入居したのはそのあとです。それを聞いた私はふと思い立ち、男に尋ねてみました。すると案の定です。奴ら、音楽室のあの隠し戸棚には気づいていなかった。私がそこにしまってあったルビーの指輪は、いまもそのままになっている可能性が高い。それを私は、なんとしても取り戻したかったのです」
「どうして?」
おれは思わず尋ねた。
「あの指輪は、ピグマリオンとしてのあんたの作品なんだろ? 美術品の価値がないことは、世界中であんたが一番よく理解してるはずだ。それを取り戻したがるなんて……ひょっとして、また市場に出し直そうと考えてるとか?」
穏やかな微笑を浮かべたまま、老人は答えない。
「たぶん、逆だよ」
おもむろにルナが言った。
「あの十カラットだというルビーの指輪が贋作であることは、私でも分かるくらいだった。天下のピグマリオンの仕事とはとても思えないクオリティだよ。あれは、あなたの若いころの作品なんですね?」
観念したように、老人は長い息を吐いた。
「……あれは、私の若さ、未熟さの象徴です。もし、あの作品がいまの屋敷の住人に発見され、あまつさえ本物として市場に出回りでもしたら、私のプライドは耐えきれなかったでしょう」
「はあ……そんなもんか」
そういえば昔、日本で観た推理物のアニメに、若いころに設計したものの出来に不満の残る建物を破壊して回った建築家がいたことを、おれは思い出した。
あの犯人に比べれば、目の前の老人がとった手段はずっと平和的だといえるかもしれない。
「さて、昔話はここまでにしておきましょう」
顔つきを切り換えて、老人は辞去の準備に入った。
「いずれにせよ、みごとな働きでした、〈ボトルムーン〉。改めて、感謝を。報酬はまた、契約どおりの口座に振り込んでおきます」
「待ってください」
ふいにルナが呼び止める。
「それなんですけどね、実は少し考えてたんです。その報酬でひとつ、わたしたちに買い取らせてほしいものがありまして――」
*
「ったく、とんだタダ働きになったじゃないか。これだから、ルナの物好きには困る」
夜道を歩きながら、おれはぼやいた。
「まあまあ、そう言わずに。結果的に、意外と楽しい仕事になったじゃない」
となりを歩くルナが、機嫌のよさそうな声で返す。ウィッグとサングラスの変装はすでに解かれ、美しい銀髪を惜しげもなく夜風に揺らしている。
「にしてもあのじいさん、よくそれをゆずってくれたな。その不出来な作品が世に出るのを、嫌がってたんじゃないのか」
「嫌がってたのは、不出来だと分からない人たちのもとに渡ることだよ。だから、わたしたちが手に入れるのはまったく問題なし」
ルナは左手をひらひらかざしてみせる。その人差し指にはめられた指輪の台座で、大粒のルビーがまぶしく光を放っている。
「はあ、そんなもんか」
今晩二度目のセリフである。
まったく、芸術家の感性ってやつは、よく分からない。
「それに、これはもうピグマリオンの作品じゃない。わたしの作品――いや、わたしの、ヒデトの、チーム〈ボトルムーン〉の作品だよ。こうして、わたしたちが日々駆け抜けている証が増えていく。そう考えたら、すごく素敵だと思わない?」
にっこりと微笑んで、ルナはおれを見やる。
きらきら瞬く銀色の瞳に、おれの視線は吸い込まれる。
芸術家の感性は分からない。が、この夜が、おれたちが必死に駆け抜けている日々のひとコマひとコマが、かけがえのないものに感じられるのはなかなかに悪くない。
「明日の夜も、晴れますように」
声を弾ませる少女の指先で、ルビーの石が鮮血のごとく輝く。
今日の月は、ずいぶんと紅い。
星の血潮 了
星の血潮 花守志紀 @hanamori4ki
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