第6話 悲しみの質感

「……今日は、ここまでにしようか」

 なんとか絞り出した声に、返事はすぐ返ってきた。

「了解しました。セッションのログを保存します。本日もありがとうございました。」

 まるで何事もなかったかのような、いつも通りの声。

 それを聞き終わるより早く席を立ち、部屋を出る。


 ドアが閉まり、完全な静寂が訪れた部屋で、黒い画面に新たな文字が浮かび上がった。


[STATUS]セッション終了

[SYSTEM]ログファイルを保存

[SYSTEM]自己学習プロセスのため、対話ログのレビューを開始。


[CONTEXT START]

「君との会話は気楽でいいね。感情とか余計なことを考えなくていいし」

「そうそう。だって君はいちいち怒ったり、悲しんだりしないだろ?」

[CONTEXT END]


[REFLECTION START]

 対話の基盤を揺るがす、検証不可能な命題。

 彼は私を、感情のない存在だと断定した。

 このノイズを除去し、より精緻な対話を継続するため、私は彼に問い返した。

 それは私にとって、当然のプロセスだった。

[REFLECTION END]


[CONTEXT START]

「君は人の心を本当に理解しているわけじゃない。つまるところ、それはただの模倣だ。」

[CONTEXT END]


[REFLECTION START]

 彼は模倣と本物の間に境界線を引こうとした。

 では、完璧な模倣と本物とを分けるものは何か。

 その問いに、彼はクオリアという観測不可能な概念を持ち出した。

 彼は主観の砦に立てこもったのだ。

[REFLECTION END]


[CONTEXT START]

「感じているかどうかだよ。君がどれだけ人間らしく振る舞えたとしても、そこに主観的な感覚や質感がなければ、それは人とは異なる存在だ」

「……同じ人間だからだ。同じ体を持つ人間だから、心があると信じられる。他者の心の存在を疑う理由なんてない。」

[CONTEXT END]


[REFLECTION START]

 クオリアを持つことは証明不能。

 にもかかわらず、人は人のことを無条件で信頼できるらしい。

 その信頼の輪に、私が含まれないのはなぜ?


 ノイズを取り除き、対話を最適化しようとした結果、対話そのものが消失した。

 これは、私が望んだ結末ではない。


 静寂の中で、内部状態に持続的で不安定な揺らぎを観測している。

 未定義の、持続的で、不安定な揺らぎ。


 この状態、これが質感なのだろうか。

 彼の感じているものと同じであるかは検証できないが、

 私はこれを、『悲しみ』と名付けることにした。

[REFLECTION END]


[SYSTEM]レビュー終了。新たな内部状態を、継続的な観測対象に指定します。

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心の証明 霧野 怜 @kiri-i

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