第14話
最終話
本物のウソ?(笑)
「あづさ」
先生がわたしの名前を呼ぶ。
そのたびに、わたしは心臓が止まりそうになるのを必死で隠して、「はい」と返事をする。
「恋人のフリ」は、順調すぎるほど順調だった。
病院では、わたしたちが恋人同士であることはもはや公然の事実。美咲さんが現れることもなくなった。作戦は、大成功と言ってよかった。
でも、わたしは日に日に苦しくなっていた。
先生の隣は、居心地が良すぎた。
二人きりの医局で飲むコーヒーも、昼休みの屋上で交わす何気ない会話も、帰り道に「送るよ」とエンジンをかけるバイクの背中も。
その全てが、わたしにとってかけがえのない「本物」になっていく。
この嘘は、いつ終わるんだろう。
美咲さんが完全に諦めて、縁談の話がなくなったら?
そしたら、先生はわたしに「ありがとう、助かったよ」と言って、わたしはまた「山本さん」に戻るんだろうか。
そんなの、耐えられない。
ある日の夜。
二人で見回りを終え、誰もいないナースステーションで並んでカルテを書いていた時だった。
もう、限界だった。
「…先生」
「ん?」
「あの…この『フリ』って、いつまで、続くんでしょうか…?」
恐る恐る尋ねると、ペンを走らせていた先生の手が、ぴたりと止まった。
まずい、聞いちゃいけなかったことかもしれない。
先生が、ゆっくりとわたしの方を向く。その表情は、いつもよりずっと真剣だった。
「…終わりにしてほしいか?」
その声は、静かだったけど、どこか痛みをこらえているように聞こえた。
違う。終わりになんて、してほしくない。
でも、このまま嘘を続けるのも、もう辛い。
わたしが俯いたまま何も言えずにいると、先生は静かに立ち上がって、わたしの目の前に来た。
「あづさ」
「…はい」
「顔、上げて」
促されるままに顔を上げると、先生がまっすぐな瞳でわたしを見つめていた。
「…ごめん。ずっと、嘘ついてた」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
ああ、終わるんだ。やっぱり、全部、嘘だったんだ。
「君を、この関係に縛り付けるために、最低な嘘をついた」
「……」
「美咲さんの縁談は、本当はとっくの昔に断ってたんだ。親父にも釘を刺してある。あんな風に病院に押しかけてきたのも、俺が君と一緒にいるって噂を聞きつけたからだ」
先生の言葉が、うまく理解できない。
え…? 断ってた…? じゃあ、なんのために…?
わたしの混乱を見透かすように、先生はわたしの両肩に、そっと手を置いた。
「普通に告白しても、君はきっと断ると思った。自信がなくて、自分から幸せになろうとしない君を、どうにかして俺の隣に引き寄せたかった。卑怯だって分かってる。でも、こうでもしないと、君は俺のものになってくれないと思ったんだ」
「……え…?」
「全部、俺の作戦だった。君に断らせないための、嘘」
「……」
「だから、君が終わりたいって言うなら…」
先生が、苦しそうに顔を歪める。
わたしは、ただ、呆然と先生の顔を見つめていた。
嘘。嘘だったの?
わたしを助けるための「恋人のフリ」が、嘘。
だとしたら、それは―――。
「…本物の、嘘…?」
わたしがぽつりと呟くと、先生はきょとんとした顔をした。
「…は?」
「だって…! わたしを好きだから、ついた嘘、なんですよね…?」
そう口にした瞬間、今まで胸の中に溜まっていた全ての感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「わたしっ…! ずっと、苦しかったんです! 先生の隣は嬉しいのに、嘘だと思うと悲しくて…! でも、本当だって分かったら、もう、なんだか、わけわかんなくなって…!」
涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。
そんなわたしを見て、先生は最初、目を丸くしていたけれど、やがてたまらないというように、くしゃりと顔を綻ばせた。
そして、大きな腕で、わたしの身体を強く、強く抱きしめた。
「…ああ、そうだよ。本物の嘘だ(笑)」
耳元で聞こえる、優しい声と、笑い声。
先生の胸に顔をうずめると、いつもバイクの後ろで感じていた、安心する匂いがした。
「ごめんな、遠回りして。もう、嘘はつかない」
先生はわたしの身体を少しだけ離すと、涙でぐしゃぐしゃのわたしの顔を、その大きな手で優しく包み込んだ。
「あづさ。好きだ。俺と、本当の恋人になってください」
今度はもう、聞き間違えようのない、本物の告白。
わたしは、泣きながら、それでも人生で一番、幸せな笑顔で頷いた。
「…はいっ!」
こうして、緑ヶ丘中央総合病院で始まった、わたしの恋。
それは、たくさんの嘘で塗り固められた、でも、どこまでも本当の、恋だった。
これから先生に、あの日の夕焼けの海で「フリです」って言われた時、どれだけ傷ついたか、ちくちくと文句を言ってやろう。
そして、それ以上に、たくさんの「好き」を、伝えていこう。
もう、嘘はいらない。
だって、わたしたちは、本物の恋人になったのだから。
『君の名前を呼ぶための嘘』 志乃原七海 @09093495732p
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