第13話「…あづさ」

第十三話


呼び捨てOK。


あの日、廊下に響いた「あづさ」という三文字。

それはまるで魔法の言葉みたいに、わたしの心にずっと居座っていた。

先生はあれ以来、またきっちり「山本さん」に戻ってしまったけれど、わたしはもうダメだった。一度知ってしまったその特別な響きを、耳が、心が、求めてしまう。


すれ違うたびに、先生は何か言いたげに口を開きかけては、結局「山本さん」と呼ぶ。そのたびに、胸の奥がきゅっと切なく痛んだ。

先生は、わたしが嫌がっていると思っているのかもしれない。あの時、わたしが固まってしまったから。

違うのに。そうじゃないのに。


このままじゃダメだ。わたしは先生の「共犯者」なんだから。中途半端な態度は、先生の作戦の邪魔になるだけだ。

そして、何より――わたしが、呼んでほしい。


その日の夕方。わたしは医局の前で、何度も深呼吸を繰り返していた。

業務報告の書類を渡す、という完璧な口実を手に、わたしは意を決してドアをノックした。


「失礼します」

中には、デスクでカルテを読んでいた先生が一人だけ。チャンスだった。

「ああ、山本さん。お疲れ」

「先生、お疲れ様です。今日の報告書、お持ちしました」

書類を受け取る先生の指先が、ほんの少しだけわたしの手に触れた。それだけで、心臓が跳ねる。


「…ありがとう。助かるよ」

先生は書類に目を通すと、すぐにわたしに背を向けた。まるで、会話を終わらせようとするみたいに。

今しかない。今、言わなきゃ。


「あ、あのっ、先生!」

呼び止められた先生が、少し驚いたように振り返る。


「この前の…その、呼び方のことですけど…」

切り出した途端、先生の表情が少しだけ曇った。

「ああ…。悪かった、いきなり。君が驚くのも無理ないよな。もうしないから」

「違います!」


思わず、大きな声が出た。

先生が、きょとんとした顔でわたしを見ている。


わたしはもう一度、今度は自分のために、深く息を吸った。


「そうじゃなくて…その…」

言える。言えるはずだ。これは作戦のため。全部、「フリ」のためなんだから。

「いいんです! そのまま…『あづさ』で、呼んでください!」


言えた。


「『フリ』なんですから、周りに人がいる時だけでも、その方が自然ですし…! ね!」

早口でまくし立てるわたしを、先生はただ黙って見ていた。

まずい、何か変なこと言った…?


沈黙が怖い。俯いて、ぎゅっと自分の白衣の裾を握りしめた、その時だった。

ふわり、と頭の上に温かい感触がした。

見上げると、先生の大きな手が、わたしの髪を優しく撫でていた。


「…君が、いいなら」


そう言って、先生は今まで見たことがないくらい、柔らかく微笑んだ。

その笑顔に、わたしの心臓はもう限界だった。


「じゃあ、遠慮なく」


先生は、わざと少し間を置いて、わたしの目をまっすぐに見て言った。


「…あづさ」


だめだ。

もう、だめ。


顔から火が出るって、きっとこういうことを言うんだ。

熱い。全身の血液が、全部顔に集まってきたみたいに。夕焼け空よりも、茹で上がったタコよりも、きっと今のわたしは赤い。


「……は、はいっ」

蚊の鳴くような声で返事をするのが精一杯だった。


そんな真っ赤すぎるわたしを見て、先生は最初、優しく微笑んでいたけれど、やがてこらえきれないというように、くつくつと喉を鳴らして笑い出した。


「な、なんであづさがそんなに赤くなるんだよ。言ったの、そっちだろ」


「だ、だって…!」


もう、先生の顔なんて見られない。

わたしは両手で顔を覆って、その場にうずくまりそうになった。

先生の楽しそうな笑い声が、静かな医局に響く。


「フリ」を続けるための提案だったはずなのに。

どうしよう。

先生がわたしの名前を呼ぶたびに、この嘘が、本当になればいいと願ってしまう。

そんなの、わたしだけなのかな。

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