猛暑 ー1分で読める創作小説2025参加作品ー
姑兎 -koto-
第1話 猛暑
「じゃあね」
彼の車から降りて、夕暮れに一人、駅に向かう人の流れに乗る。
無表情で流れ続ける人々に紛れ、私の表情も消えていく。
なんで、こんなに暑いんだろう。
楽しみにしていたレストランも、もう、どうでもいい。
こんな気分で何も食べたくないし、そんなことより、早く家に帰ってシャワーを浴びたい。
ビルの間から見える夕焼けが、徐々に夜に飲み込まれていく。
この時刻になっても、熱気は容赦なく体にまとわりつき、湿気を帯びた生ぬるい風は雨の匂いがしていた。
ああ、もう、何もかもがどうでもいい。
私は、脇に逸れて立ち止まり、彼に、メッセージを送る。
ただ一言『別れましょう』と。
『別れるってどういうこと』
彼史上最速の勢いで来た返信。
『どういうこと』って……。
恋人関係を解消するという以外、他にどんな意味があるのだろうと内心突っ込みながら、既読スルー。
風が変わり、ぽつぽつと雨が降り出した。
*-*
「こんなんじゃ、付き合ってる意味ないよね」そう言ったのは彼の方。
ついさっきの事なのに、喧嘩の原因が何だったのか思い出せないけれど。
「考えてみる。じゃあね」と言って帰る私を、彼は、引きとめようともしなかった。
彼も私もこのところの暑さのせいでイライラしていた。
それだけのことだったのかもしれないけれど。
彼と付き合って三年。
そう、魔の三年目。
そんな微妙な時期に、彼は、付き合ってる意味を問うてはいけなかった。
『こんなんじゃ、付き合ってる意味ないよね』
それは単なる売り言葉に買い言葉。
分かっている。
彼は、そんな意味を問うていたのではない。
涙が頬を伝う。
私は、悲しいのだろうか。
*ー*
雨が本降りになってきた。
今、走り出し、どこかで雨宿りすれば間に合うかもしれない。
でも、私の足は走り出すことなく、濡れるに任せることを選んだ。
雨が涙を洗い流し、体に溜まった熱が冷めていく。
清々しいほどに濡れそぼった自分の姿に笑いがこみあげてくる。
笑いと共に空腹感が戻って来た。
そういえば、先日、彼と一緒に見たTV番組で、猛暑は人をイライラさせると言っていた。
人は、気温が高すぎると、落ち着いて熟慮することができなくなり、短絡的で攻撃的な思考と行動に陥るものらしい。
彼の『付き合っている意味ない』も、私の『別れましょう』も、短絡的で攻撃的な思考の結果なのだろうか。
付き合ってる意味なんて言葉で説明できるものではないけれど。
考えてみれば、別れる理由も無いような気がする。
*-*
彼の声が私を呼ぶ。
振り返ると、路肩に車を止め、濡れることも厭わず駆け寄ってくる彼の姿。
そして、「ごめん」と言い、雨から私を庇うように優しく肩を抱いた。
「私こそ、ごめんね」
「今日、暑かったからね」
「うん。すべては暑さのせいだよね」
「猛暑、恐るべし!」
そう、すべては、猛暑のせい。
『雨降って地固まる』なのである。
ー完ー
猛暑 ー1分で読める創作小説2025参加作品ー 姑兎 -koto- @ko-todo
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