第18話「因縁の残香」

検非違使庁の地下深く。


 かつてない濃度の「黒玉丹」の毒煙が、薄暗い廊下を這うように埋め尽くしていた。


 「うおおおっ! どけぇ! 近寄るんじゃねえ!」


 廊下の中心で、坂上厳馬が大刀をがむしゃらに振り回していた。


 だが、その目は虚ろで、血走っている。


新羅の毒を執念で克服した彼だったが、唐の最高峰の毒煙は、彼の強靭な精神を内側から食い破り、かつての「戦場の幻覚」を見せていた。


周囲には、同士討ちで倒れた検非違使の兵たちが転がっている。


 「厳馬殿、正気に戻れ!」


 清重が鋭く踏み込み、厳馬の大刀を自らの刀の平で受け止めた。


 キィィンと激しい金属音が地下室に響き渡る。だが、幻覚に囚われた厳馬の怪力は凄まじく、清重の足元がじりじりと削られていく。


 「無駄だ。我が最高傑作『黒玉丹』の煙を浴びて、常人が理性を保てるはずもない」


 暗闇の奥、封印されていたはずの漆箱を手にした一人の男が歩み出てきた。


 豪華な唐の衣服をまとい、白髪交じりの髪を美しく結い上げた老人――彼こそが、十五年前に景光と綾子の父を破滅に追い込み、国を追われた天才調香師、李りだった。


 「……久しぶりだな、李」


 毒煙を割って、景光が静かに歩み出た。


 その隣には、恐怖に震えながらも、しっかりと前を見据える綾子の姿がある。


 「ほう?」


 李は景光の顔を見ると、その細い目をさらに細くして、酷薄な笑みを浮かべた。


 「その目、その佇まい……やはり物部や新羅を狂わせたのは、あの執念深い薬師の倅せがれであったか。そして隣にいるのは、香道の落ちこぼれの娘か」


 「あなたね……! 私たちの、お父様たちを…!」


 綾子が声を震わせる。李は嘲笑うように、手にした小さな香炉を軽く振った。


 「お前たちの父親は愚かだった。私の調香の才を認めず、国から追い出しおった。だが見よ、この十五年で私の毒は完成した。この黒玉丹の煙は、人間の脳を快楽で焼き尽くす。間もなく、この国の上層部はすべて私の『香り』の奴隷となるのだ」


 「それはどうかな」


 景光は懐から、調合したばかりの、あの丸薬を取り出した。


 白梅の香粉と、景光の選りすぐりの生薬を練り合わせた「反撃の核」だ。


 景光は丸薬を自分の口に含み、同時にいくつかの丸薬を清重と、暴れる厳馬の足元へ向かって力強く投げつけた。


 丸薬が床に激突して弾けた瞬間――地下室の重苦しい毒煙を切り裂くように、猛烈な「清涼感」と、どこまでも気高く、凛とした白梅の香りが爆発的に広がった。


 「……がはっ!?」


 白梅の香りを吸い込んだ厳馬が、大きくよろめき、その場に膝をついた。


 彼の目を覆っていた血走った光がみるみるうちに退き、荒い呼吸と共に正気が戻ってくる。


 「な、なんだ……? 頭の中の化け物が……消えやがった……?」


 「清重、厳馬、今のうちに李を包囲しろ!」

 景光が叫ぶ。


 李の顔から、初めて余裕の笑みが消えた。


 「馬鹿な……私の黒玉丹の比率を、完全に相殺しただと!? この短時間で、なぜそんな調合が不可能なはずだ!」


 「不可能ではない。お前が十五年前に父たちから盗んだ技術の『癖』を、私の鼻は覚えていた」

 景光は冷徹に一歩、前へ出た。


 「お前の調香は完璧に見えて、基礎の底に、綾子の家系が守ってきた『白梅の製法』の影が混ざっている。お前は父たちを憎みながらも、彼らの美意識に囚われ続けていたんだ。だから、綾子の白梅の香りを核にすれば、お前の毒は確実に瓦解する!」


 「おのれ……おのれぇぇ!」


 プライドを完璧に打ち砕かれた李は激昂し、懐から複数の毒薬の瓶を取り出し、床に叩きつけようとした。


 「させるかよ!」


 正気に戻った厳馬が地響きを立てて突進し、その巨体で李を壁ごと押し潰すように組み伏せた。


 李の細い腕から、毒薬の瓶が次々と滑り落ち、清重の鮮やかな足捌きによってすべて安全に蹴り遠ざけられる。


 「李。お前の負けだ。十五年前の因縁も、お前が持ち込んだ異国の闇も、すべてここで終わりだ」


 清重の太刀が、李の首元にピタリと突きつけられた。


 李はがっくりと首を垂らし、床に散らばった白梅の香粉を見つめながら、絶望の声を漏らした。


 「私は……私はまた、あの二人に負けたというのか……」


 翌朝。


 唐の天才調香師・李の逮捕により、十五年にわたる因縁の陰謀は完全に潰え、宮中は本当の平穏を取り戻した。


 典薬寮の庭。


 初秋の爽やかな風が吹き抜ける中、景光は静かに空を見上げていた。


 「景光、本当にお疲れ様」


 綾子が、少し誇らしげな表情で隣に立つ。彼女のまとう白梅の香りは、心なしか以前よりもずっと深く、気高く感じられた。


 「お前のおかげだ、綾子。父たちが遺してくれたものがなければ、今回は危なかった」


 景光が珍しく素直に口にすると、綾子は嬉しそうに目を細めた。


 廊下からは、「おい! 次は陰陽寮で、何やら怪しい呪術の匂いがする事件が起きたってよ!」と騒ぐ輪狗の声と、「今度こそ俺の拳の出番だな!」と息巻く厳馬の声、そしてそれを宥める清重の声が聞こえてくる。


 景光は小さくため息を吐き、新しい薬草を手に取った。


 宮中の陰謀を嗅ぎ暴く、神の鼻を持つ天才薬師。彼の周りには、もう孤独な闇はなく、共に戦う頼もしい仲間たちの、それぞれの香りが確かに息づいていた。



──

香薬奇譚Ⅱ「神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く」   完

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香薬奇譚Ⅱ〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜 優涼 @usa_jin

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