第17話「白梅の記憶」
唐の使節団が持ち込んだ究極の毒薬「黒玉丹(こくぎょくたん)」。
その脅威を水際で防いだものの、京に渦巻く緊張感はむしろ高まっていた。
検非違使庁の地下室に厳重に封印された漆箱からは、結界越しでさえ、景光の鼻を狂わせるほどの濃密な香気が放たれている。
「――景光。少し、休んだ方がいいわ」
典薬寮の調薬室。深夜になっても灯る蝋燭の光の中で、綾子がそっと景光の肩に手を置いた。
景光の目の下には、濃い隈が浮き出ている。
ここ数日、彼は寝食を忘れて黒玉丹の「解毒剤」の調合に没頭していた。
「いや、まだだ。この毒は、新羅の阿片とは比べ物にならない。一度でも宮中に流出すれば、防ぐ手立てがないんだ。一刻も早く、中和する薬の比率を導き出さねば……」
焦燥に駆られる景光の手元が、わずかに震える。
その時、すり鉢で薬草を微塵に挽いていた景光の手が、ぴたりと止まった。
「……この匂い」
景光は、調薬室の片隅に置かれた、綾子が持ち込んだ「白梅の香合(こうごう)」に目を向けた。
彼女がいつも身にまとっている、涼やかで優しい白梅の香り。
だが、その香りを構成するいくつかの成分を脳内で分解した瞬間、景光の脳裏に、激しい火花が散った。
「なぜだ……なぜ、綾子の香りと、あの黒玉丹の『底にある悪意』が……同じ、調香の技術(くせ)を持っている……?」
「それは、お前たちの『親』の因縁だからだよ」
調薬室の闇から、気配もなく現れたのは賀茂輪狗だった。
その手には、陰陽寮の奥深くに眠っていたと思われる、埃を被った古い巻物が握られている。
「輪狗……? どういう意味?」
綾子が不安げに尋ねる。輪狗は机の上に巻物を広げると、ため息混じりに語り始めた。
「今から十五年前。唐からこの国に渡ってきた、一人の天才調香師がいた。その名は『李(り)』。彼は当時、日本の宮廷で最高の薬師と謳われていた景光の父親と、香道の大家だった綾子の父親の二人と深く交友を結んでいたんだ」
景光の目が鋭く細まる。
幼い頃、突然病で亡くなったと聞かされていた父の記憶。
そして綾子の家が、かつて香道の名門でありながら、ある時期を境に没落した理由。
「李は、二人の技術を盗みに来たスパイだった。……いや、それ以上だ。李は日本の宮廷を裏から支配するため、ある『禁忌の香』を開発しようとした。それに気づいたお前たちの父親は、命を賭して李の陰謀を暴き、彼を国から追放したんだ。だが……」
輪狗は巻物の、ある頁を指差した。そこには、唐の宮廷お抱えの調香師として最高位に昇りつめた「李」の名と、彼が開発したとされる毒薬の記述があった。
「李は唐へ戻り、さらにその毒を洗練させた。それが……今回の『黒玉丹』だ。お前たちの父親は、十五年前にその毒の試作品を浴び、それが原因で亡くなったんだよ、景光」
「そんな……」
綾子が言葉を失い、よろめいた。
景光の脳裏に、幼い頃に見た父の最期の姿が蘇る。
確かにあの時、父の耳の裏は、かすかに黒く変色していた。航海中の狂死者たちと同じだったのだ。
「私の家が香合の技術を奪われ、没落したのも、その李という男の仕業なの……?」
「ああ。李はお前たちの父親への復讐と、この国を我が物にするため、十五年かけて計画を練り上げてきた。新羅の金氏を動かしたのも、すべては李の差し金だ。そして今、奴は自ら使節団の影に隠れて、この京に潜入している」
その時、調薬室の扉が激しく叩き開けられた。
息を切らせた源清重が、大刀を握りしめて飛び込んでくる。
「景光殿、綾子殿! 大変です! 検非違使庁の地下室が襲撃されました! 厳馬殿が防戦していますが、敵の放った『奇妙な煙』のせいで、兵たちが次々と正気を失い、同士討ちを始めています!」
「奴だ。李が、黒玉丹を回収しに来た」
景光の目が、かつてないほどの怒りと冷徹な光で満たされる。
彼は迷わず、綾子の白梅の香合を手に取った。
「景光?」
「綾子、お前の父親が遺したこの香りの調合……これこそが、李の毒を中和するための、最後の『鍵』だ。十五年前、二人の父親が遺してくれた絆が、俺たちの武器になる」
景光は白梅の香粉を、自分が調合していた数種類の薬草と凄まじい勢いで混ぜ合わせ、一粒の丸薬へと練り上げた。
そして、それをいくつも懐に押し込む。
「清重、輪狗、行くぞ。十五年前の因縁、俺たちの代で完全に断ち切る!」
神の鼻を持つ天才薬師が、己の過去と、大切な仲間の絆を背負い、京の闇へと駆け出した。
第17話「白梅の記憶」 了
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