第15章 続きはまた明日

 甘く纏わり付くような煙があたりに充満し、私の肺の中も満たされている。


 より鋭さを増した灰色の瞳が至近距離から私を観察している。ハサンの左目の周囲には、学生時代にはなかった傷があった。


 あたりは暗く、そばの窓からは寒々しい風が吹き込んできて、煙を薄めた。


 頭に張り巡らされている血管がざわざわする不快感とともに、現在の『私』の意識は覚醒してゆく。


 私は蝋燭と星明かりだけの闇の中、座り込んでいた。ここが鷲の巣(アラムート)のハサンの自室であると、遅れて気づく。


 しかし、私がつい先ほどまで体験した学院での生活は、あまりにも現実めいていた。

 先ほどまでの光景は幻か。本当にこちらが現実なのか。

 宙に浮いたまま定まらぬ思考で幾度も自問するが、未だ実感が湧かず、結論が出せない。なのでとりあえずは、こちらが現実であると仮定することにする。


「――思い出したよ、ハサン。昔からきみは謙虚の美徳を知らなかった」

 掠れた声で呟くと、ハサンは気が抜けたように、ふ、と息をついた。

「要求があるなら、はっきり告げることで道を切り開けるときもある」


 ハサンは手元の黒い蝋燭を吹き消し、真剣な面持ちで私の目蓋に触れた。指先が私の目蓋を捲り、眼球を露出させる――麻薬の効き具合を見ているようだ。


「きみは、いつもこうして信奉者を増やしているのか?」

「まさか。麻薬(これ)は個人的な瞑想に用いているだけだ。布教にこんなものを使う必要はないし、そうして増えた信者など砂粒ほども教義を理解できぬ愚か者だろうが」

 確かに、ハサンなら弁舌ひとつで何人もの信奉者を増やせるだろう。


「だが、なかなか面白い体験をしただろう? 現実ではわずかな時間しか経っておらずとも、体感時間を何倍にも引き伸ばすことができる」


 私は重い頭で頷いた。


 ここが現実であるならば、先ほどまでの学院の光景は私にとって二度目だったはず。

 だが徐々に記憶を手繰っていくと、細かな差異に気づいた。


「気づいたか」私の思考を見透かしたように、ハサンが言う。「あれはただの追憶ではない。あくまでおまえの記憶を頼りに構成された世界を、もう一度歩んだのだ。興味深かったのは、おまえのファリードに対する反応だな。実際はあれほどまでに怯えてはいなかった」

「うん……、うん、思い出してきた……」


 私がかつて初めてファリードに会ったとき、言い表せぬような違和感を覚えたり、部屋に来たがった彼を拒絶したのは確かだ。しかし、そこに恐怖は伴っていなかった。私に植え付けられた無意識下の恐怖心が噴出した結果なのかもしれない。


「――当時、私はファリードが犯人なのではと疑っていた」

「そうか」

「でも、ありえないんだよ。ファリードは、この一連の事件で殺される。彼は犯人じゃなかった……他の誰かが……、う……」


 再び頭に激痛が走り、体がさっと冷たくなる感覚とともに吐き気を催した。その場に蹲りそうになったところを、ハサンが支えてくれた。

「ああ、初めてでは疲れるだろう。さあ、来るんだ。おまえには特別な場所を用意している……」

 やたらと優しい声音で囁かれた。


 思わぬ厚遇に涙ぐみながら、ハサンに身を預け、素直に歩いていく。ハサンは松明を灯し、螺旋階段を降りていった。


 ひんやりとした暗闇の中を進む――途中で、「なんだか優しすぎるな?」と思わなかったわけではない。

 だがまさかこの流れで、かつては親友だった私を、窓すらない真っ暗な牢獄に放り込むとは流石に思わないだろう?


 ひょいと雑に体を投げられ、私は硬い石床に叩きつけられた。身を起こす間もなく、重い鉄格子がガシャンと無情に閉じられる。

「え、嘘だろ、特別な場所ってここか!?」

「そうとも、特別頑丈な牢だ。嬉しいだろう」

「すっかり騙された」

「まだ意識がはっきりしないようだな。この地において、おまえの身柄は保証されていないと忘れるな」

 ハサンは冷たく言い放って背を向けた。私は、打ち付けてじんじん痛む腰の恨みも込めて、爪を立てる猫のごとき目でハサンの背を睨む。

「記憶の修復を手伝ってくれるんじゃなかったのか?」

 鉄格子越しに、ハサンはわずかに振り返る。

「追憶は一気に行うと危険だ。……続きは、また明日に」


 千夜一夜物語よろしくそう言い残し、ハサンは今度こそ去っていった。彼が去るとともに光源は一切なくなり、宇宙よりも暗い闇に包まれる。


 鉄格子を掴んだまま、足音が完全に聞こえなくなるまで茫然としていると、背後から物音が聞こえた。


「……先生……?」

「っ、アルーズイ!?」


 微かな声だったが、弟子の声を聞き誤るわけがない。暗闇の中で湿った冷たい地面を這いずり、手探りで進むと、やがて引き締まった弾力のある弟子の腕を掴んだ。


「アルーズイ、無事だったか?」

 私が聞いても、呼吸音しか返ってこない。周囲の壁を触ってみるに、アルーズイは牢獄の隅に座り込んでいたようだ。

 いつもは騒がしくてたまらない弟子が異様に静かなので、ぞっと背筋が凍る。

「どうした、何かされたのか!?」

「……いいえ」アルーズイはやっと、干からびた声で呟く。「僕は、大丈夫です。それより先生は、親友さんとお話しできましたか?」

「誤魔化すなアルーズイ。何かあったんだな?」

「いいえ!! 本当に何も!!」

 アルーズイが張り裂けんばかりに叫ぶので、声圧で鼓膜が消し飛ぶかと思った。


 アルーズイは私の体が無事であることを確かめるように腕や肩を叩いてくる。

「質問に答えてください、先生。親友さんとは話せたんですか?」

「あ、ああ」

「何を」

「……過去の事件についてを……。もちろん、君の処遇についても交渉した。まず殺されるようなことはない。またハサンの機嫌が良い時にでも、君を解放するように頼んでみるつもりだ。あと少しだけ、辛抱してくれ」

 ハサンは無表情なようで機嫌がころころ変わるのであてにならないが。


 私はアルーズイを安心させようと思って事情を伝えたのだが、アルーズイはそれを聞いても「そんなことは、どうでもいいんです」と苛立ちに満ちた息を吐く。

 それきり黙りこくってしまったので、アルーズイが何を考えているのか読み取りづらくなった。暗闇のせいで表情が見えないのがもどかしい。


 私はアルーズイの隣にどっと腰をおろし、深く息を吐いた。私自身も未だ薬が抜けきっていないのか、酷い脱力感があり、あまり動けなかった。

「――アルーズイ。確かめたいことがある。君は私の著作を……」


 ふと、隣から聞こえる呼吸音が規則正しくゆっくりと紡がれていることに気づく。どうやら眠ってしまったようだ。

 私は諦めて壁に背を預けながら、「私は弟子の謎すら解き明かせないのだな」と自らに呆れた。



 アルーズイは約二年前、遠くサマルカンドから私を訪ねてきて「弟子にしてください」と頼み込んできた。


 私は今までにも幾人か弟子をとったことはあったが、みな長くは続かなかった。みな裏でこう言っていたのを知っている――『あの先生は自らの研究ばかりに夢中で、教え渋りをする』と。


 その通りだ。私はあまり弟子を構ってやらなかった。だからみな私の知識を切れ端ほども受け継いでいないというのに、私の元からすぐに離れて世間に出ては『あのハイヤームの元弟子である』と放言して要職に就き、威張り散らして憚(はばか)らない。


 私はそんな彼らにうんざりしていた。だから、アルーズイが訪ねてきたときにも言ったものだ。

『私を構成する知識のほとんどは、先人たちが本として書き残している。それを読めばいい。先人たちの知識について誤りだと考える部分に対しては、私の意見をまとめた著作がある。それを読めばいい』


 アルーズイは頷きはしたものの、引き下がらなかった。

『僕は、先生の弟子になりたいのです』


 あまりにしつこいので、私はさらに言った。

『本を読んで理解が難しい部分があれば、教えられる。だが……深く教えれば、必ず一般的に容認されている信念とは違う答え方をしてしまうだろう。だから私は、教え渋りするんだ』


 いわば私にとって、教え渋りは自衛のすべだった。私の信念を、真理への探究心ゆえの哲学を弟子にそのまま伝えてしまえば、この社会の中で破滅してしまう。


『それでもいいのです!』

 そこまで言ってもアルーズイは譲らなかった。

『僕は、大先生のおそばで研究を助けられればそれでいいのです。先生の考え方や生き方を見たいのです。勝手に学びますから、どうか、おそばにいさせてください!』



 ――不覚にもその熱意に胸をうたれてから、もう二年。アルーズイにはずいぶんと助けられてきた。私は大して教えられないというのに、彼は何かと身の回りの世話を焼いてくれ、気にかけてくれたのだ。


 そんな彼が現在何に苛ついているのか、ちっともわからない。まったく自分は、弟子の心の機微すら読み取れぬダメ師匠である。


 だが今は失望も反省もしている時ではない。まずは暗い牢獄にいる現状をなんとかせねば、何も始まらないのだから。


 何かがおかしい──これは理屈ではなく直観的なものだった。

 鷲の巣(アラムート)に来てからのアルーズイの態度だけではない。ハサンの部下たちや、鷲の巣(アラムート)城砦内の空気感から言いようのない不協和音めいたものを感じ取っていた。それを裏付けるように、私が見聞きした会話や物の中には、一部、無視できないものが混じっている――……。


 ハサンはおそらく――私の記憶の修復を手伝ってくれている裏で、私を利用して何かを企んでいる。それは鷲の巣(アラムート)内で起きている何かと関わりがあるはずだ。


 それが具体的に何であるのかを推理するには、まだ情報が足りない。


 そして――……最も気になるのは、ハサンから時折放たれる、私に対しての鋭い殺意。私を切り刻むような目線に潜む意味を、見つけられるだろうか。


「……ふう……」


 ――ハサンは明日も私に協力してくれるような口ぶりだった。私が内情を探る機会はその時しかない。


 今日の私に思考できる限界はここまでだ。あとは疲れた頭を休め、明日に備えよう。



 私は今度こそ自分の意思で、眠りへと落ちていった。

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アサシンは友を殺すか 万木きるしゅ @Kirsch_

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