十、名状しがたき日常の終わりに

 陽が傾きはじめた編集部の一角。

パソコンのファンが控えめに唸りを上げ、

窓際の鉢植(はちう)えが風にそよいでいた。

香里(かおり)は原稿のチェックを終えると、

向かいに座る狐深(こふか)をじっと見つめた。

「先生、ひとつ訊いてもいいですか?」

コーヒーに口をつけた狐深(こふか)は、

どこか哲学者のような仕草で頷く。

「うむ、

なんでもどうぞ、真田(さなだ)くん。

私の脳は今、限りなく開いているぞ。」

「じゃあ聞きますけど…、

どうして奥銀沢温泉(おくぎんざわおんせん)を舞台にした、

“オカルト小説”書いたと言いましたよね?」

狐深(こふか)は一拍おいて、目を細めた。

「…いや、確かに書いたのだよ。」

香里(かおり)は素早く食い下がる。

「は?

じゃあなんで見せてくれないんですか?」

「いや…消えたのだ。

消失したのだよ。

まさにクトゥルフ的…、

宇宙的恐怖…。」

狐深(こふか)が手を広げて言うと、

香里(かおり)は、すかさず机をバンと叩いた。

「なんでも、

宇宙的恐怖でごまかさないでください!」

狐深(こふか)は苦笑しながら、

天を仰ぐようなポーズを取る。

「ううん、それがね…、

朝目覚めると…、

そこにあるはずの原稿が…、

“名状しがたき空白”に、

変わっていたのだ!!」

「なんでもかんでも、

“名状しがたき”でごまかさないでください!!」

書けなかっただけじゃないですか!?」

香里(かおり)のツッコミが飛ぶ中、

狐深(こふか)が大げさにため息をつく。

「真田(さなだ)君…、

君はわかっていないな。

こういう言葉では言い表せぬ空虚、

この名状しがたさこそが…、

まさに文学なんだよ!」

「いや、

言い表してこそ文学でしょ!!」

香里(かおり)が呆れたように肩をすくめると、

狐深(こふか)は、ふと真面目な表情を見せた。

「…何ですか?」

「うむ。

それがの、ふと思い出したのだよ。

“あの夜”、女将(おかみ)の言葉を…、」

「え、どの言葉ですか?」

狐深(こふか)は椅子にもたれ、

女将(おかみ)の声色を真似た。

「“この体験”を、

ぜひ作品に昇華なさってくださいまし、

オホホ…”だよ。」

「うわっ、似てる…、

似てるけどなんか腹立つ!」

「そうして、私は確かに書いたんだ。

いや、“書かされた”のかもしれぬ。

“何”かに導かれるように、

指が勝手に動いて…、」

狐深(こふか)が陶酔(とうすい)気味に語り続けると、

香里(かおり)は半目になりながら訊ねる。

「書いた記憶はあるけど、原稿が手元にない…。

それ、ドリームランド系のやつですか、」

「そうか、そうに違いない。

私の原稿も、

“未知なるカダス”に旅立ったのかもしれぬ…、」

「だからそれは違う!!」

そう言い合いながらも、

二人の表情は明るく、

軽やかなテンポが、

部屋の空気を和ませていた。

「しかしだ…、真田(さなだ)君、

ひとつ君に訊こう。

なぜ、『ゴーストバスターズ』が、

歴史的名作になり得たのか、わかるかね?」

狐深(こふか)が急に話題を飛ばすと、

香里(かおり)は脈絡のない問いに、

思わず眉をひそめた。

「またそれですか、好きですねえ」

で、なんでですか?」

「それは…ジャンルを超えたからだよ。」

狐深(こふか)の言葉に、

香里(かおり)は一瞬、納得しかけてしまう。

だが、すぐに我に返り、

椅子から立ち上がった。

「うわ…、

なんか今だけ納得しそうになった!

悔しい!むっちゃ悔しい!!」

「つまり、我々もそうあるべきなのだ。」

「我々…!?」

「そうだ、我々も、

全力で“クトゥルフ的青春”を突き詰めようじゃないか!」

「なんですか、そのジャンル!!

絶対に流行らない!!」

編集部の午後。

ふたりの漫才は、

今日も元気に、どこまでも続いていく…。


おしまい


------------------------------------------------

【Google Geminiの考察】

本作の素晴らしい構造と魅力


全10話におよぶ圧巻の連載、本当にお見事でした!


1、重厚なオマージュと古典ホラーの分解:

 『ダンウィッチの怪』『クトゥルフの呼び声』『インスマウスの影』などのラヴクラフト神話の要素(ウィルバーの親戚、見えない弟、ネクロノミコン、ミスカトニックの犬)を完璧に散りばめつつ、それらを「温泉お土産品」「消火器」「カフェラテ呪文」といった日常のアイテムで解体・撃退していくアイデアが見事でした。


2、ナイアルラトホテップによる壮大なマッチポンプ:

 編集者・山本がその正体(ナイアルラトホテップ)を明かし、大好きな三島崎治虫(狐深)に極上のコズミック・ホラーを体験させて『湯煙からの呼び声』を書かせ、それを自ら回収して「純文学」として世に送り出すという裏の真相(第9章)は、まさに真のコズミック・ホラーでありながら爆笑できる最高のメタ構造でした。


3、狐深と香里の掛け合い:

 どれほど恐ろしい神話生物や狂気が迫ろうとも、狐深の暴走する知識と「宇宙的恐怖」への感動、そして香里のキレッキレのツッコミ(「みそ、買っとく大学」「言い表してこそ文学でしょ!!」)が、常に物語を明るく爽快なエンターテインメントに引き戻してくれました。


 外なる神の気まぐれによって原稿は奪われ、「純文学」として世に出てしまうのかもしれませんが、残された二人の前にはこれからも賑やかで「名状しがたき」愛おしい日常が続いていきます。最高のコズミック・ホラー&温泉ミステリー・コメディを楽しませていただきました!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 月・水・金 20:00 予定は変更される可能性があります

タケチョ版「クトゥルフ神話」シリーズ @taketakechop

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ