【小説】前より三十円高い朝

Aki Dortu

前より三十円高い朝

 富沢裕也とみざわ ゆうやは、会社の最寄り駅で電車を降りると、改札を抜けて会社とは反対の方へ歩いた。


 朝の人の流れは、ほとんどが同じ方向へ進んでいく。黒や紺の上着、革靴の音、片手に握られたスマートフォン。その流れに背を向けるようにして、裕也は大通り沿いのカフェに入った。


 自動ドアが開くと、焼けたパンとコーヒーの匂いがした。


 胸の奥に残っていた朝のこわばりが、その匂いで少しだけゆるむ。


 家を出た時点では、まだ仕事に行く気分にはなっていない。電車に乗っている間も、自分の意志で向かっているというより、会社の近くまで運ばれているだけだった。けれど、この店でモーニングを食べ、本を少し読み、トイレに寄ってから外へ出ると、ようやく足が会社の方を向く。


 それを、もう十数年続けている。


 裕也はカウンター前に立ち、メニューを開いた。見なくても頼むものは決まっている。それでも毎朝ちゃんと開くのは、注文を確認するためというより、いつもの朝を始めるための合図に近かった。


 指が、メニューの隅で止まった。


 モーニングセットの値段が、二十円上がっている。


 その下に、小さく書かれた文字も変わっていた。


 カフェラテ変更 プラス八十円。


 前は七十円だった。


 裕也は、そこをしばらく見た。


 前より三十円高い朝。


 三十円で暮らしが変わるわけではない。けれど、十数年も同じ朝を続けていると、その小さなずれが妙に目につく。


「ご注文はお決まりですか」


 店員の声に顔を上げる。


「モーニングセットで。飲み物はカフェラテでお願いします」


「カフェラテはプラス八十円になりますが、よろしいですか」


 言われなくても知っている。


 それでも、今朝はその一言が少し重かった。


「はい」


 裕也はうなずいた。


 会計を済ませ、カウンターの脇で待つ。ほどなくして、白い泡の乗ったカフェラテと、チーズトースト、ミニサラダの載ったトレーが出てきた。


 壁際の席に移動し、鞄を足元に置く。


 カフェラテは、裕也の腹にあまり優しくない。


 二十代の終わり頃からだった。朝、牛乳の入った飲み物や冷たいジュースを飲むと、しばらくして腹の奥が動くようになった。


 若い頃は何ともなかった。起きてすぐ冷蔵庫を開け、その日の気分で牛乳を飲むこともあれば、オレンジジュースを飲むこともあった。コーヒーを作る朝もあった。何を飲んでも、そのあと普通に電車に乗り、会社へ向かえていた。


 最初はたまたまだと思った。


 寝不足だったのかもしれない。冷えたのかもしれない。前の日に食べたものが悪かったのかもしれない。


 けれど、何度か繰り返して、ようやく分かった。


 体が変わったのだ。


 それから裕也は、家を出る前に牛乳の入った飲み物を飲むのをやめた。満員電車の中で腹が動き出した時の、あの逃げ場のなさは一度で十分だった。


 ただ、会社近くのカフェで飲むカフェラテだけは、やめなかった。


 この店でモーニングを食べてから会社へ行く朝は、体質が変わる前から続いている。先にカフェがあり、そこに体の変化が後から入り込んできただけだった。


 幸い、この店にはトイレがある。モーニングを食べ、本を少し読み、腹が動いたら済ませてから会社へ行けばいい。


 不便ではある。

 けれど、その不便さ込みで、裕也の朝はどうにか形を保っていた。


 一度だけ、普通のコーヒーにしたことがある。


 その日は腹が静かだった。モーニングを食べても、本を読んでも、いつもの合図は来なかった。体だけで言えば、それが正解だったのだと思う。


 けれど、店を出ても、朝がどこか終わりきっていなかった。


 会社には行ける。行けるのだが、いつもの自分に切り替わらない。腹は平和なのに、気分だけが寝起きの場所に残っていた。


 その翌日から、裕也はまたカフェラテに戻した。


 カップを両手で持ち上げ、一口飲む。エスプレッソの苦味が牛乳で少し丸くなる。その丸さが、朝の硬さをほどいていく。


 チーズトーストをかじると、熱の残ったパンの端が小さく音を立てた。ミニサラダのレタスは少し冷たく、口の中に残ったチーズの重さをさらっていく。


 窓の外では、人の流れがまだ会社の方へ向かっている。裕也はその流れを横目で見ながら、ゆっくり食べた。


 食べ終わると、鞄から本を出した。


 仕事に関係のない本だった。


 長く読めるわけではない。せいぜい数ページ。それでも、会社に入る前に仕事と関係のない文字を目で追っておくと、自分の輪郭が少し戻る。


 スマートフォンは見ない。


 見れば、もう会社に引っ張られる。メール、予定、ニュース、誰かの発言。まだ席にも着いていないのに、仕事の通路に足を入れた気分になる。


 本を開いている間だけ、裕也はまだ会社の人間ではなかった。


 数ページ進んだところで、腹の奥が小さく動いた。


 裕也はしおりを挟み、本を閉じる。


 いつもの合図だった。


 カップの底に残ったカフェラテを飲み干し、トイレに入って鍵をかける。


 今日は、少し長かった。


 牛乳のせいだけではない気がした。たぶん、三十円のせいだった。


 体に合わないものを、前より高く買っている。考えてみれば馬鹿馬鹿しい。けれど、馬鹿馬鹿しいことほど、妙に体に残る。


 値上げは財布で受け止めるものだと思っていた。けれど今朝は、腹でも受け止めている。


 裕也は小さく息を吐いた。


 腹の中で、カフェラテと値上げと出勤前の気分が、まとめて片づけられていく。


 トイレを出て、手を洗い、鏡を見る。

 カフェに入った時より、顔が少し仕事用になっていた。


 席に戻り、本を鞄にしまう。レシートを手に取ると、前より三十円高くなった朝の値段が印字されていた。


 やっぱり高い。そう思いながらも、もう腹は軽かった。


 店を出ると、外の空気はさっきより乾いていた。会社のビルが、いつもの場所に立っている。


 標準料金のコーヒーにすれば、腹は静かで、三十円も余計にかからない。それは分かっている。でも、それだけでは越えられない朝がある。


 白い泡を飲み、本を閉じ、トイレを出る。少し高くなったいつもの手順は、今日も最後まで終わった。


 裕也は鞄を持ち直した。


 さて、仕事に行くか。


 裕也は会社の方へ歩き出した。

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