【閲覧注意】壁の染みを見ていたら、自分の顔の戻し方がわからなくなった話

黒猫キートン

壁の顔

 引っ越してきた部屋の壁に、染みがあった。


 大家は「前の住人も同じようなことを言っていたが、ただの湿気ですよ」と言った。確かに、ただの水染みだ。しかし夕暮時、窓からの光が斜めに当たると、それは人の横顔に見えた。くちびるがわずかに開き、まぶたが伏せられている。悲しんでいるようにも、何かをささやいているようにも見える。


 面白いものだと思った。パレイドリア現象――ただの偶然を意味のあるパターンとして知覚する心理作用。そう自分に言い聞かせて、毎晩その顔を観察するのが習慣になった。


 染みは日に日に、はっきりとした輪郭を持つようになった気がした。


 見間違いだろう。そう思うたび、あえて細部に意識を向けた。ここはただの変色、これは壁紙の継ぎ目……部分を追うほどに、かえって「顔」としてのまとまりを失っていく。ゲシュタルト崩壊だ。


 その夜、私は初めて成功した。染みは染みに過ぎず、そこに悲しむ女の顔などどこにもない。ほっと息をついて、視線を染みから外した――はずだった。


 染みが、動いた。


 いや違う。私の視界が動いたのではない。壁の染みが、ゆっくりと私の方を向いたのだ。それまで伏せられていたまぶたが上がり、確かに私を捉めた。


 しばらく固まってから、私は再び細部を見ようとした。色の濃淡、繊維の凹凸……しかしゲシュタルト崩壊は二度と起こらなかった。いや、崩壊したまま戻らなくなったのだ。顔のパーツはバラバラのまま、それでいて確かにそこに「何か」がいる。口だけがにやりと歪んだ。


 それから三日後、私はアパートを引き払った。新しい部屋に染みはない。


 ただひとつ問題がある。昨夜、鏡を見たとき、自分の顔がゲシュタルト崩壊を起こしたのだ。鏡の中のそれは、目と鼻と口がめちゃくちゃに散らばった肉の集まりにしか見えなかった。


 そしてその崩壊した顔の真ん中で、くちびるだけが、開いた。


「あなたも、そうなるよ」


 そう言ったのかどうかは、わからない。


 今もこの文章を打ちながら、私は自分の手を見下ろしている。五本の指があるはずなのに、なぜかそれが「手」に見えない。何かがおかしい。この丸いものは何だ。この細長いものは。


 そろそろ、あなたも鏡を見る時間かもしれない。


 あなたの顔は、まだ「あなたの顔」のままですか?

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