羊はその名で鳴いた
香月 陽香
羊はその名で鳴いた
「イリシュ」
振り返ると、土手道に男が立っていた。
書記の円筒印章が、風に揺れていた。
「エティル、久しぶり」
黒い羊が一頭、小さく鳴いた。
「本当に羊飼いに戻ったんだな」
「見ての通り」
エティルは、笑わなかった。
「飲みに来た」
二人は、土手下の酒場へ入った。
炉では羊肉が焼かれ、脂が炭に落ちて、白い煙を上げていた。
イリシュは、その煙から少し離れて座った。
「今も肉を食わないのか」
「羊飼いだからこそ」
「街にいたときからそうだっただろう」
「街では羊を数字でしか見ない」
「数字で見なければ冬を越せない」
エティルは麦酒の壺に葦を差し、もう一本をイリシュの方へ向けた。
濁った麦色の泡が、壺の口で盛り上がっていた。
「羊は自分で誇った。毛も乳も脂も革も肉も、人を養うためにあると」
「それは神話だ。犠牲に引かれる羊は、そんなふうには鳴かない」
炉の火が爆ぜた。
神殿倉の塩を振った羊肉の匂いが、麦酒に混じった。
「
エティルが言った。
「王の囲いで、羊は数えられる」
「お前は昔から、数えられるものの側ばかり読む」
「お前は数える者の側しか読まない」
エティルは笑おうとして、口の端だけでやめた。
イリシュは、それを見なかったことにした。
「
今度は、イリシュが始めた。
「
「いや。だが、
イリシュの指が、壺に差された葦をなぞった。
以前、その指は葦筆を持っていた。油灯の下で、乾く前の粘土板に楔を刻んでいた。
イリシュが羊の項で筆を止めると、エティルだけが気づいた。
「俺は、お前を取り戻しにきた」
あまりに真っ直ぐで、イリシュは黙った。
昔から、エティルは肝心なところだけ比喩を使わなかった。
「お前なら
「
エティルの顔から、少しだけ血の気が引いた。
その顔を見て、イリシュは言い過ぎたと知った。
それでも、取り消さなかった。
「僕は台帳で見た。子どもの頃に名をつけた羊の印を。白。額に泥斑。犠牲祭第二日。厨房へ」
酒場の奥から、肉を裂く音だけが響いていた。
「だから、戻ったのか」
「そうだ」
二人は、そこで黙った。
黙り方まで、昔のままだった。
「それでも、俺の粘土板には、まだお前の名が刻まれている」
イリシュは、自分の方へ向けられた葦を見た。
エティルが差したものだった。
だから、口をつけなかった。
イリシュはその葦を手に取り、立ち上がった。
「戻る気はないんだな」
「ああ」
エティルは追わなかった。
ただ、葦がその口元で止まっていた。
夜が降りていた。
運河の水は黒く、風は塩を含み、葦を鳴らした。
星は焼く前の粘土に押された楔の跡のように並んでいた。
足元に、柔らかな鼻先が触れた。
黒い羊が一頭、静かに寄り添っていた。
イリシュが手に残った葦を差し出すと、黒い羊は、ただそれを喰んだ。
失うものに名をつけるなと教わったのに。
「ありがとう、エティル」
羊は、小さく鳴いた。
羊はその名で鳴いた 香月 陽香 @442fa91f6987
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