第二十三話 ◆ 元の世界での日々

第一章 ◆ 状況の確認

 情報源からの返信が来たのは、帰還した翌日だった。

 待ち合わせは、王都から遠く離れた場所ではなく、元の世界の、小さな喫茶店だった。

 冬夜は時間通りに行った。

 相手はすでにいた。

 三十代の男。小柄で、目が鋭い。組織の末端で、情報の整理をしていた人間だ。名前は田中という、この世界では珍しくない名前だ。

 冬夜が座ると、田中は少し驚いた顔をした。

「本当に生きていた」

「はい」

「どこにいたんですか」

「答えられない場所です」

「そうですか」田中は少し考えて、納得した顔をした。「まあ、あなたがそう言うなら、そうなんでしょう」

「状況を教えてください。浅川蓮司のことと、組織のことを」

 田中はコーヒーを一口飲んだ。

「浅川は、組織を抜けました。本人が望んだわけじゃないですが、偽情報を掴まされ続けた件で、信用を失って。今は普通の会社で働いているらしいです」

「組織は、彼を処理しなかったんですか」

「しなかった。というより、できなかった」田中は少し苦い顔をした。「浅川が組織を抜けた後、組織自体が揺れたんです。上層部の内紛があって、いくつかの案件が中断された。浅川の件も、その一つです」

「内紛の原因は」

「あなたが持ち出したとされた情報のせいです」田中は冬夜を見た。「あなたが消えて、組織が調べたら、浅川を通じて流れた情報の多くが偽物だった。誰がどこまで知っていて、誰が裏切ったか、疑心暗鬼になった。それで内紛が起きた」

「今の組織の状況は」

「縮小しています。以前の半分以下の規模。まだ存在はしていますが、以前のような動きはできない」

 冬夜は情報を整理した。

 浅川蓮司は生きていて、普通の生活をしている。組織を抜けた。

 組織は縮小していて、動きが鈍い。

「浅川への処理は、もう組織から命令が来ることはありますか」

「おそらく、ないです。組織にとって、今は浅川より大きな問題がある。浅川に構っている余裕がない」

「分かりました」冬夜は言った。「私への命令は」

「あなたは、死亡扱いになっています。案件はクローズ。組織から何かが来ることは、今後ないと思います」

 冬夜はしばらく考えた。

 やり残したことが、形を変えた。

 浅川蓮司を処理する必要が、なくなった。

 組織が処理しなかったわけではなく、状況が変わって、処理の必要がなくなった。

 自分が異世界に消えた結果、組織が内紛を起こし、縮小した。

 意図していたことではない。

 でも、結果として、状況は動いた。

「田中さん」と冬夜は言った。

「はい」

「これを最後に、私は組織と関係を持ちません。あなたも、私のことを知らなかったことにしてください」

「分かりました」田中は少し安堵した顔をした。「俺も、組織を抜けることを考えています。縮小した今が、タイミングかと」

「そうですね」冬夜は言った。「安全に抜けられることを、願っています」

「ありがとうございます」

 田中がコーヒーを飲み干した。

「一つだけ聞いていいですか」田中は言った。「どこにいたんですか、本当に。一ヶ月以上、どこにも痕跡がなかった」

「答えられない場所です」冬夜は繰り返した。「ただし、良い場所でした」

「良い場所」田中は少し不思議そうな顔をした。「あなたが良い場所と言うのは、珍しいですね」

「そうですか」

「ええ。以前のあなたは、場所の評価をしなかった。良いも悪いも言わなかった」

 冬夜は少し考えた。

「……変わりました」

「そうみたいですね」田中は言った。「目が違う」

「目が」

「以前より、温かい目をしています。良い変化だと思います」

 冬夜はその言葉を、少し大切に受け取った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 二人で喫茶店を出た。

 別れ際に、田中が言った。

「元気で」

「あなたも」と冬夜は言った。「安全でいてください」

「はい」

 田中が歩き去った。

 冬夜は少し立ったまま、考えた。

 やり残したことが、終わった。

 浅川蓮司への処理は、不要になった。

 組織との関係は、断った。

 元の世界でやることは、あと一つだ。

 戻る方法を探すこと。

 冬夜は歩き始めた。

 元の世界の街が、周囲に広がっていた。

 車が走り、人が歩き、店が開いている。

 普通の朝だ。

 だが、冬夜には、この世界の普通が、少し遠く感じた。

 慣れていた場所のはずなのに。

 それは、別の世界での普通を、知ってしまったからだ。

 冬夜はその感覚を、確認した。

 帰る場所が、二つある。

 今は、もう一つの帰る場所に向かうための準備をする。

 それが、今日から始めることだ。

第二章 ◆ エルミアへの連絡

 翌日、冬夜は手紙を書いた。

 この世界の手紙ではなく、あちらの世界への手紙だ。

 召喚術には、物を送る方法があるかどうか、知らなかった。

 だが、試す価値はある。

 神殿に行った。

 王都の神殿ではなく、この世界の神社だ。古い、静かな場所。

 神社の宮司に話を聞いた。

 異世界との通信、という話は、当然、笑われるかと思った。

 だが、宮司は少し考えてから、「古い記録があります」と言った。

 冬夜は少し驚いた。

「この神社に、そのような記録が?」

「はい。数百年前のものですが、異なる世界との繋がりについて書かれた巻物があります。代々、意味が分からないまま保管してきましたが」

「見せていただけますか」

 宮司が持ってきた巻物は、古く、文字が薄れていた。

 だが、冬夜はゆっくりと読んだ。

 内容は、断片的だった。

 召喚の術式に近い概念が、この世界の古い言語で書かれていた。

 そして、一節だけ、はっきりと読める部分があった。

 世界と世界の間には、縁という名の糸がある。糸は、切れることがない。糸を辿れば、どこへでも行ける。糸を感じるものは、少ない。しかし、感じた者は、必ず辿り着く。

 冬夜はその一節を、何度か読んだ。

 縁という名の糸。

 カイが言っていた。星が繋がっている。二つの流れが、一度離れて、また繋がっている。

 エルミアが言っていた。この世界での縁を果たすことが、帰還の条件の一つだ。

 縁。

 それが、鍵だ。

「この巻物を、写させてもらえますか」

「どうぞ」宮司は言った。「ただし、一つだけ教えていただきたいことがあります」

「なんですか」

「あなたは、本当に別の世界から来たんですか」

 冬夜は少し考えた。

「行ったことがあります。来たというより」

「そうですか」宮司は静かに頷いた。「なんとなく、そういう人だと思いました。目が違う」

「目が違う、とよく言われます」

「この世界だけを見てきた人の目じゃない。別の景色を、知っている人の目をしています」

 冬夜はその言葉を、少し考えた。

「……別の景色を、知っています」

「それは、良いことだと思いますよ」宮司は言った。「一つの世界だけを知っている人間より、豊かです」

「豊か、というのは」

「見える範囲が広いということです。比べられるから、それぞれの価値が分かる」

 冬夜はその言葉を、少し大切に聞いた。

 比べられるから、価値が分かる。

 この世界の空の青みが薄いことに気づいたのは、あちらの世界の深い青を知ったからだ。

 あちらの世界の温かさが特別だと感じたのは、こちらの世界での自分の孤独を知っていたからだ。

「ありがとうございます」と冬夜は言った。

「どういたしまして」宮司は笑った。「巻物、ゆっくり写していってください。急かしません」

 冬夜は写した。

 一字一句、丁寧に。

 これが、戻るための手がかりになるかもしれない。

 写し終えて、神社を出た。

 空を見た。

 今日は曇っていた。

 青みの薄い空が、さらに薄く見えた。

 冬夜は少し思った。

 早く、あちらの空を見たい。

 深い青の空を。

 その気持ちが、自然に来た。

 論理より先に。

 それが、戻りたいということだ。

 冬夜は歩き始めた。

 次にやることがある。

 エルミアに、この巻物の内容を届ける方法を探すこと。

 そして、それができるまでの間、この世界でできることをする。

 調べる。探す。試す。

 感情を持ちながら、論理で動く。

 それが、今の自分のやり方だ。

 街を歩きながら、冬夜は少し思った。

 元の世界は、変わっていない。

 でも、見え方が変わった。

 以前は、この街が全てだった。今は、この街は、二つある場所の一つだ。

 それが、今の自分の景色だ。

 悪くない景色だ、と冬夜は思った。

 感情的な意味で。

 それで、今日は十分だった。

第三章 ◆ 小さな日常

 元の世界に戻ってから、十日が経った。

 冬夜は毎日、調べた。

 巻物の内容を元に、召喚術に近い概念を持つ文献を探した。図書館を回り、古書店を訪ねた。

 手がかりは少しずつ集まっていた。

 少しずつだが、確実に。

 その間、冬夜は生活をした。

 食事を作った。

 最初は、何を作るか分からなかった。

 元の世界の食べ物は知っている。でも、作る習慣がなかった。

 スーパーマーケットに入って、食材を見た。

 豆があった。

 豆のスープを作った。

 月桂樹の葉を入れた。

 食べたとき、少し止まった。

 味が違う。

 材料が違うから、当然だ。

 でも、月桂樹の葉の香りは、似ていた。

 その香りを嗅いだとき、冬夜は思った。

 エルが作るスープが、飲みたい。

 その気持ちが、自然に来た。

 感情だ。

 論理より先に来た感情だ。

 冬夜はその感情を、排除しなかった。

 ただ、抱えたまま、スープを飲んだ。

 美味しかった。

 自分で作ったものが、美味しいと思えた。

 それは、この世界で得た、新しい感覚だ。

 美味しいと思える、ということ。

 以前は、食事は必要だから食べるものだった。

 今は、美味しいと思えるものを、食べたいと思う。

 それが、変化だ。

 十二日目に、驚くことが起きた。

 神社の宮司から連絡が来た。

「あの巻物を調べていたら、別の記録が見つかりました。もっと詳しい内容が書かれたものです。よかったら、来てください」

 冬夜は翌日、神社に行った。

 宮司が持ってきたのは、箱の中に保管されていた、小さな冊子だった。

「倉庫の奥に、ずっとありました。整理していたら出てきて」

 冬夜は冊子を開いた。

 前の巻物より、内容が詳しかった。

 召喚術の逆用について、具体的な方法が書かれていた。

 ただし、条件がある。

 縁の糸を感じる者のみが、糸を辿ることができる。糸を辿るには、感じた縁を、言葉で確認することが必要だ。声に出して、縁の名前を言う。それが、扉を開く鍵になる。

 縁の名前。

 冬夜はその言葉を、繰り返した。

 縁の名前。

 縁とは、関係だ。人との繋がりだ。

 その名前を、声に出す。

 冬夜は少し考えた。

 縁の名前とは、人の名前か。あるいは、関係を表す言葉か。

 どちらかは、まだ分からない。

 だが、手がかりが増えた。

「この冊子、写させていただけますか」

「どうぞ。この際、差し上げますよ」宮司は言った。「どうせ、私には読み解けないので。役立ててください」

「ありがとうございます」

「また来てください。あなたが来ると、倉庫を整理したくなります」

「整理するきっかけになっているんですか」

「ええ」宮司は笑った。「不思議と、あなたが来るとき、何か見つかる気がして」

 冬夜は少し考えた。

「縁かもしれませんね」

「そうですね」宮司は笑った。「縁だと思います」

 神社を出た。

 空が少し晴れていた。

 冬夜は空を見た。

 薄い青だ。

 でも、今日は、悪くないと思えた。

 この世界の空も、この世界の空だ。

 どちらが良いではなく、どちらも本物だ。

 それが、今日気づいたことだ。

 十五日目。

 冬夜は、自分に気づいた変化を、ノートに書いた。

 この世界に帰ってきてからの変化を、整理するためだ。

 書きながら、少し驚いた。

 変化が多い。

 感情が、先に来るようになった。

 美味しいと思えるようになった。

 寂しいと感じるようになった。

 帰りたいと思う場所が、二つになった。

 笑えるようになった。

 好きという感情を、持てるようになった。

 それらが全部、この一ヶ月少しの間に起きたことだ。

 冬夜はノートを閉じた。

 ずいぶん変わった。

 それは、良いことだ。

 ゼファーが言っていた。感情を持つことを、許可されなかった人間だった。

 今は、許可している。自分で、自分に。

 その変化を、今日は特に大切に思えた。

 理由は、分からない。

 でも、今日は、そう感じた。

 それで十分だ。

 窓から外を見た。

 夕方だった。

 空が橙色になっていた。

 元の世界の夕日も、きれいだ。

 あちらの世界の夕日と、色が少し違う。

 でも、どちらもきれいだ。

 比べるものではなく、どちらも本物だ。

 冬夜はそれを、今日は素直に思えた。

 夕日が沈んでいく。

 明日も、やることがある。

 調べて、探して、試す。

 戻るために。

 その目的が、今の冬夜の中心にある。

 感情として。

 論理としても。

 両方として。

 それが、今の自分だ。

 夕日が、完全に沈んだ。

 空が、濃い青になった。

 この世界の夜空が始まった。

 冬夜は星を探した。

 見つかった。

 この世界の星座は、あちらとは違う。

 でも、同じ星が、上にある。

 遠い空から、同じ光が降りてくる。

 カイが言っていた。

 星は繋がっている。

 冬夜はその言葉を、今夜は特に、信じた。

 繋がっている。

 離れていても、繋がっている。

 それで、今夜は十分だった。

幕間 ―― 日本、某所 二十三

 浅川蓮司は、その夜、久しぶりに神崎冬夜の夢を見た。

 夢の中で、冬夜は笑っていた。

 冷たい目ではなかった。

 少し柔らかい目で、どこか遠くを見ながら、笑っていた。

 夢の中で、蓮司は冬夜に声をかけようとした。

 でも、声が出なかった。

 冬夜は蓮司に気づかずに、歩いていった。

 どこかへ、向かっていた。

 蓮司は追いかけようとして、追いかけられなかった。

 目が覚めた。

 夜中だった。

 蓮司は天井を見た。

 夢の中の冬夜の顔が、まだ目の前にある気がした。

 笑っていた。

 初めて見た、冬夜の笑顔だった。

 夢の中でだけど。

 蓮司は少し考えた。

 あの女は、笑えるようになっているかもしれない。

 どこかで。

 誰かと一緒に。

 それが、今夜の夢が見せてくれたものかもしれない。

 蓮司は目を閉じた。

 また眠れるか分からなかったが、目を閉じた。

 夢の中の冬夜の顔を、もう一度思い出した。

 笑っていた。

 それで良かった、と蓮司は思った。

 あの女が笑っているなら、それで良かった。

 自分がどこにいるかは、関係ない。

 あの女が笑っているなら。

 蓮司はその気持ちを、静かに確認した。

 後悔ではない。

 未練でもない。

 ただの、静かな安堵だ。

 あの女が、笑えているなら。

 そうであってほしいという、静かな願いが、かなえられた気がした。

 夢の中だけど。

 それで十分だ、と蓮司は思った。

 窓の外で、夜が続いていた。

 蓮司は静かに、眠りに落ちた。

 今夜は、穏やかな眠りだった。

〔第二十三話 完〕​​​​​​​​​​​​​​​​

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『死神は微笑まない――冷徹な暗殺者は異世界でも最強でした』 @yamago84

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