第27話「完全な自白」

村瀬のアパートは、古い木造の二階建ての一室だった。


瀬尾が階段を上がると、ドアの前で立ち止まった。呼び鈴を押す前に、中から声が聞こえた。低い声と、もう少し高い声。会話の内容は聞き取れなかったが、途切れながら続いていた。


呼び鈴を押すと、声が止まった。ドアを開けたのは千鶴だった。暗い色のカーディガンを着ていた。瀬尾を見て、少しだけ表情が動いた。


「先生。どうぞ」


六畳の部屋に小さなテーブルがあり、村瀬が座布団の上に座っていた。紺のジャケットは脱いで壁のハンガーにかけてあった。白いシャツの襟元が少し開いている。痩せた首が目についた。湯呑みが二つ、テーブルの上にあった。片方はまだ湯気が立っていた。


「瀬尾先生」


村瀬が腰を浮かせかけた。瀬尾は手で制して、千鶴が出してくれた座布団に座った。


しばらく、事務的な話をした。釈放後の手続き、今後の裁判への証人としての関わり方。村瀬は一つずつうなずいた。千鶴は台所でお茶を入れていた。三つ目の湯呑みが瀬尾の前に置かれた。ほうじ茶の匂いがした。


手続きの説明が終わり、話が途切れた。テーブルの上の湯呑みから、細い湯気が上がっていた。


「村瀬さん」


瀬尾は湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。


「橋本恵美さんから、伝言を預かっています」


村瀬の目が瀬尾を見た。千鶴の手が止まった。台所から戻る途中だった。


「ありがとうございました、と」


瀬尾の声が自分の耳に届いた。あのとき恵美が言った声が、瀬尾の声の下に重なっているような気がした。


「申し訳ありませんでした、と」


村瀬は動かなかった。湯呑みを持つ手が膝の上に降りた。右手が少し震えた。千鶴が立ったまま、父を見ていた。


長い沈黙だった。窓の外で鳥が鳴いた。どこかの部屋でテレビの音がしていた。


「……あの人も」


村瀬の声が低かった。


「守ろうとしていたんですな」


瀬尾は何も言わなかった。村瀬は窓の方を見ていた。ガラス越しに隣の建物の壁が見えた。


千鶴が歩いた。二歩。父の隣に座った。村瀬の右手は膝の上にあった。千鶴の右手が伸びた。左腕を掴む代わりに、父の右手の上に、手を置いた。


村瀬が千鶴の手を見た。千鶴は前を向いていた。目が赤かった。泣いてはいなかった。


瀬尾は湯呑みを手に取った。ほうじ茶は少しぬるくなっていた。


恵美の初公判は、桜が散り始めた週だった。


傍聴席は半分ほど埋まっていた。記者が何人かいた。一般の傍聴人もいた。瀬尾は後ろの方の席に座った。鞄を膝の上に置いた。


恵美が入廷した。


グレーのスーツを着ていた。髪はきちんとまとめられていた。背筋が伸びていた。逮捕されたときと同じ姿勢だった。橋本邸の応接間で紅茶を出していたときと同じ姿勢だった。手錠はすでに外されていた。被告人席に着くとき、恵美の目が一瞬だけ傍聴席を見た。瀬尾のことを見つけたかどうかはわからなかった。


裁判官が入廷し、開廷が宣告された。検察官が起訴状を読み上げた。被告人、橋本恵美。殺人の罪により起訴。犯行日時、昨年十一月、午後十一時頃。犯行場所、東京都——。


瀬尾は起訴状の言葉を聞きながら、この事件を最初から辿り直していた。


割当通知の封筒。コーヒーの染みがついた書類の山。あのとき瀬尾が受け取ったのは、村瀬健一の事件だった。完璧な自白。指紋。動機。犯行時刻。すべてが揃っていて、弁護の余地はないと思った。


ブロンズ像の位置が調書と現場写真で食い違っていた。それだけだった。七十センチの差。小山内は記憶の混同だと言った。村瀬は「すべて自白の通り」と繰り返した。


自白は完璧だった。嘘は一つだけだった。殺していない。


村瀬は千鶴を守ろうとしていた。千鶴は父とすれ違った夜の記憶を抱えたまま黙っていた。恵美は何年も「関わらないことにしていた」蓋が開いた夜に、壊れる代わりに殺した。橋本は最後の夜に手紙を書いていた——変わろうとしていた。


全員が何かを守ろうとしていた。


完全な自白。瀬尾はその言葉を頭の中で転がした。村瀬の自白は精密だった。時刻も場所も手順もすべて辻褄が合っていた——一つの嘘を除いて。でも「完全」だったのは、自白の精密さではなかった。全員が抱えていた「守りたい」という感情だった。誰一人、その感情について嘘をついていなかった。


起訴状の朗読が終わった。裁判官が被告人に黙秘権を告知した。恵美が「はい」と答えた。一語。声は静かだった。


法廷を出たのは、昼前だった。


裁判所の廊下は人が少なかった。瀬尾は壁際を歩いた。靴音がリノリウムの床に反射した。窓から入る光が廊下の半分を照らしていた。


弁護人席に座っていた国選弁護人が、書類を抱えて出てきた。瀬尾とすれ違うとき、軽く会釈をした。瀬尾も頭を下げた。


裁判所の正面玄関を出た。四月の風が頬に当たった。桜の花びらが階段の隅に溜まっていた。


鞄を持ち直した。まだ重かった。レコーダーはもうない。ノートとペンと、少しの書類。それだけのはずだった。でも恵美の「そうですか」が鞄の底にまだ残っている気がした。あの言葉は——受け入れるのでも、距離を置くのでもなかった。待っている声だった。


瀬尾は階段を降りた。大通りに出ると、左に事務所へ向かう道があり、右に裁判所の別棟がある。別棟の一階に接見室の予約窓口がある。


鞄の中の恵美の声は消えなかった。消す必要がなかった。村瀬の事件は国選弁護の割当通知から始まった。封筒を開けたのは、コーヒーの染みがついた書類の山の中だった。あのときは割り当てられた仕事だった。


瀬尾は右に曲がった。


別棟の入り口が見えた。自動ドアのガラスに、自分の姿が映った。スーツの袖が少し余っている。鞄を右手に持っている。


自動ドアが開いた。瀬尾は中に入った。受付の窓口に歩いて行き、鞄の留め具を開けた。

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完全な自白 神田要 @indigonightism

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