第26話「正義の形」
鞄の留め具を開けたのは、小山内の机の前だった。
警察署の廊下を歩いてくるあいだ、瀬尾はずっと鞄の革の感触を右手に感じていた。中身は変わっていない。ノート、ペン、書類の束、ICレコーダー。三日前に橋本邸を出たときと同じ重さのはずだった。
小山内は机の上の書類から顔を上げなかった。「アポなしか」と言っただけだった。
「聞いていただきたいものがあります」
瀬尾はICレコーダーをポケットから出し、机の端に置いた。小山内がそれを見た。安物のレコーダーだった。百円玉二枚分くらいの厚さで、表面に細かい傷がついていた。
「弁護士の領分を超えてるぞ」
「承知しています」
小山内がこめかみを指で押さえた。瀬尾を見て、レコーダーを見て、もう一度瀬尾を見た。それから手を伸ばして再生ボタンを押した。
恵美の声が流れた。
デスクの向こう側で、若い刑事が書類を持って通りかかり、小山内の方を見た。小山内が手で追い払った。若い刑事は何も言わずに去った。
小山内は最初、椅子の背にもたれていた。腕を組んで、どこか義務的に聞いている姿勢だった。恵美が睡眠薬を飲んだが眠れなかったと語るあたりで、腕が解けた。背中が椅子から離れた。千鶴の写真が机の上にあったという箇所で、小山内の右手が机の縁を掴んだ。
瀬尾は黙って座っていた。恵美の声を聞くのは二度目だった。最初は橋本邸の応接間で。今は警察署の狭い机の前で。同じ声のはずだった。録音された声は少し硬く、少し遠かった。あの部屋にあった空気——窓の光や時計の音や、恵美の指先の白さは、この小さな機械の中には入っていなかった。
恵美がカーテンについて語った。「報道で見ました」と言い、それが嘘だったと認めた。小山内の顎が動いた。あの夜、カーテンの状態を「住人の証言」として調書に記録したのは小山内自身だった。報道に出ていないことを、恵美が知っていた。小山内はそれを聞き逃していた。
録音が終わった。小山内はレコーダーの停止ボタンを押さなかった。恵美の声が途切れたあと、数秒間の無音が流れ、自動で止まった。
小山内が椅子から立ち上がらないまま、天井を見た。蛍光灯の白い光が顔を照らしていた。頬の筋肉が動いた。何かを噛み締めているようだった。
「セキュリティのログは」
「保全命令が出ています。住人用暗証番号での停止操作が記録されています」
「足跡は」
「二十四センチ。橋本恵美さんの靴のサイズと一致しています」
小山内がこめかみから手を離した。机の上のレコーダーを見た。
「最初に来たときから——ブロンズ像の位置がどうとか言ってたな」
「はい」
「あのとき俺は何と言った」
「記憶の混同だろう、と」
小山内が鼻から息を吐いた。笑ったのではなかった。
「村瀬の自白は完璧だった。指紋も動機も時刻も全部揃ってた。俺はそれで十分だと思った」
瀬尾は何も言わなかった。
「定年まで三年だ。今さらこんなもの聞かされてどうしろってんだ」
小山内の声が低かった。怒りではなかった。小山内の目が、机の上の何もないところを見ていた。自分の捜査が——自分が「十分だ」と判断したものが、十分ではなかったことを、この男は今飲み込もうとしている。瀬尾にはそう見えた。
瀬尾は待った。
小山内が立ち上がった。椅子が後ろに下がり、脚がリノリウムの床を擦った。
「レコーダーは預かる」
「お願いします」
小山内がジャケットを椅子の背から取った。袖に腕を通しながら、瀬尾を見た。
「俺の仕事だ」
それだけだった。小山内は机の引き出しからバッジケースを取り出し、胸ポケットに入れた。レコーダーを上着の内ポケットにしまった。廊下に出て行く背中は少し猫背だったが、歩幅は広かった。
橋本邸の門の前に、パトカーが二台停まっていた。
瀬尾はそこにいなかった。小山内が「来るな」と言ったからだ。「あんたは弁護士だ。ここから先は警察の仕事だ」。瀬尾はうなずいた。
だから瀬尾が知っているのは、あとから小山内が短く伝えた内容だけだった。
恵美は玄関のドアを自分で開けた。小山内と、もう一人の刑事が立っていた。恵美は二人の顔を見て、少し間を置いてから「どうぞ」と言った。
応接間に通した。テーブルの上に白い便箋が置かれていた。青いインク。折り目のない一枚。前回瀬尾が訪れたときと同じ場所に、同じ向きで。恵美はそれを片付けなかった。
小山内が逮捕状を読み上げた。恵美は立ったまま聞いていた。背筋は伸びていた。
「上着を取ってきてもよろしいですか」
小山内がうなずいた。恵美は廊下に消え、一分もしないうちに戻ってきた。ベージュのコートを腕にかけていた。足元は室内履きからローファーに替わっていた。
恵美が玄関を出た。門までの短い道を歩いた。門の手前で足が止まった。振り返った。家を見た。家族写真のない廊下がある家。紅茶を出さなくなった応接間がある家。書斎には入らなかった家。
何秒かして、恵美は前を向いた。パトカーの後部座席に乗り込んだ。小山内が助手席に座った。ドアが閉まった。
瀬尾がその話を聞いたのは、翌日の電話だった。小山内の声はいつもと同じぶっきらぼうだった。「淡々としてたよ」と小山内は言った。「泣かなかった。暴れなかった。上着を取りに行ったのと、一回だけ家を振り返ったのと。それだけだ」
瀬尾は受話器を握ったまま、恵美が最後に振り返った場面を想像した。あの背筋の伸びた姿勢で、あの家を見た。何を思ったかは、誰にもわからない。
「便箋は」
瀬尾の口から出た言葉に、自分で驚いた。
「テーブルの上にあった。証拠品として回収した」
小山内が電話を切った。瀬尾はしばらく受話器を耳に当てたままだった。ツーツーという音が、恵美の応接間の時計の音に似ていた。
村瀬の釈放手続きが終わったのは、三日後の午後だった。
瀬尾は拘置所の受付で待っていた。プラスチックの椅子に座って、膝の上に鞄を置いていた。鞄は軽かった。レコーダーは小山内に渡した。ノートとペンと、書類が少し。それだけだった。
外の廊下に足音がした。瀬尾が顔を上げると、千鶴が立っていた。暗い色のコートを着ていた。化粧は薄く、年齢より幼く見えた。右手で左腕を掴んでいた。
「瀬尾先生」
「来ていたんですね」
千鶴がうなずいた。それだけだった。二人とも座らなかった。受付の時計が午後二時を指していた。
手続きには時間がかかった。瀬尾は壁に貼られた注意書きを読んだ。面会時間、差し入れの規定、持ち込み禁止物のリスト。何度も読んだことのある文面だった。千鶴は窓の外を見ていた。冬の日差しが廊下の半分を白く照らしていた。どこかで鉄の扉が閉まる音がした。
奥のドアが開いた。
村瀬が出てきた。紺のジャケットに灰色のズボン。拘置所に入ったときの服だった。ジャケットの肩が少し落ちていた。痩せたのだ。白髪交じりの短髪は少し伸びていた。目の下の隈が深くなっていた。
村瀬は二歩進んで、止まった。
千鶴が立っていた。三メートルほど先に。村瀬の目が千鶴を見つけた。
千鶴の唇が震えた。何か言おうとしていた。声にならなかった。
村瀬はそこに立っていた。動けなかった。拘置所の廊下は静かだった。蛍光灯が鳴っていた。受付の職員がファイルをめくる音がしていた。
千鶴の目から涙がこぼれた。一筋、頬を伝って顎の先から落ちた。千鶴はそれを拭わなかった。
村瀬が歩いた。三メートルの距離を、ゆっくり歩いた。千鶴の前に立った。千鶴より頭一つ高かった。村瀬の右手が上がった。千鶴の頭に、手を置いた。
何も言わなかった。
千鶴が声を殺して泣いていた。肩が揺れていた。右手で左腕を掴んだまま——自分を守る姿勢のまま、泣いていた。村瀬の手は千鶴の頭の上にあった。動かなかった。
瀬尾は少し離れた場所に立っていた。鞄を持っていた。
恵美の言葉が浮かんだ。村瀬さんに伝えてください。ありがとうございました、と。申し訳ありませんでした、と。
今ではなかった。この二人の前で、あの言葉を出すことはできなかった。恵美の伝言は瀬尾の中にまだあった。レコーダーは渡した。証拠は渡した。でもあの言葉は、まだ瀬尾の中にあった。
村瀬が千鶴の頭から手を離さなかった。千鶴が泣いていた。拘置所の廊下に、冬の日差しが差し込んでいた。
瀬尾は鞄を持ち直した。軽くなったはずだった。レコーダーを渡して、村瀬の釈放手続きが終わって、事件は動いた。正義は——瀬尾が選んだ形の正義は、実行された。
鞄は軽くならなかった。恵美の声がまだ中にある気がした。「ありがとうございました」と「申し訳ありませんでした」が、レコーダーのない鞄の底に沈んでいた。
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