ひたすら遠い場所
緋雪
検査に行っただけなのに
「膀胱炎ですね。お薬出しておきましょう」
近所の病院でそう言われたが、一向に治る感じがしない。
「もっと信用できる病院の方がいいんじゃない?」
夫にそう勧められ、隣町の総合病院に行くことにした。ちょっと混んでるかもしれないけど、と夫に言われていたが、ちょっとやそっとの混みようではない。
それでも受付を済ませ、20分ほどで呼ばれる。
名前と生年月日を確認され、
「では、先に、採尿をお願いします。検査のトイレは2階にありまして、そちらから検査室までお持ちいただくことになります」
「え? 持っていく……?」
トイレの中の扉の前に置いておくと回収してくれるスタイルではないのね。
「採尿の方、こちらにお願いしますね。二階、そちら奥の階段からどうぞ」
手渡されたのはボウル。ステンレスの、両手で包み込めるサイズの、ボウル。名前と受付番号のシールが張り付けられている。
「は? これに?」
「お願いしますね。…………受付番号207番の患者様〜〜」
私の疑問など総スルーで、彼女は次の患者さんを呼んだ。
仕方がないので階段を探す。
「あった」
あった……が、これは……。
工場の壁にくっついている階段のように、片方には壁があるが、片方は手摺りのみの、なんともオープンな階段だ。二人やっと行き交えるほどの幅。下を見ると受付と待合室が広がる。
「いやいや、こんなところにトイレあるの?」
しかし、階段の先、左側にドアがあり、更に先にはもう一つドアがあるようだ。もしかして、手前がトイレ? そして奥が検査室?
さっき看護師さんが言ったよな。
こちらに採尿をして、それを検査室に持って行って下さい……と。これ(ボウル)に、この階段の先のトイレで採尿して、このオープンな階段の先の検査室(らしきところ)まで持っていく?
途中でふらついたり、躓いたりしたら……一階は大惨事にならないだろうか……。ゴクリと唾を飲み込む。しかし段々と尿意は強くなる。行くしかあるまい。
私は二階のドアまで駆け上がり、ドアを開けた。
「わ、わわわわわ!!」
ドアの向こうは外だった。
こんなところに、まさかのトマソン*?!
違う。絶対この階段じゃない。
私は急いで階段を降り、一階の更に奥へと進む。
「あっ」
普通の階段を見つけたその時だった。
物凄い人の流れに押されて、私は違う方向へと連れて行かれてしまう。
「なんで?!」
まさかの通勤ラッシュのような人混みをかきわけ、階段へと進もうとするが進めない。
「嘘でしょ? こんなに混んでるの?」
と思っているうちに、向こうからの流れに逆らえなくなって、病院の外へと追いやられてしまった。
病院の南口にあるタクシー乗り場だった。押し込まれた感じでタクシーに乗る。
「どちらまで?」
「あっ、あの、この病院の表玄関まで……」
何故普通に答える、私?
「あ〜、ラッシュ時間と重なりましたねえ」
当たり前のように笑う運転手。ラッシュ時間?? と思っている私を乗せ、タクシーは発車した。ふと握りしめた左手を見る。先には、ピカピカに光るステンレスのボウル。
「……」
「あ〜、混んでるなぁ。お客さん、ここからなら歩いたほうが早いよ」
タクシーの運転手がそう言うので、数百メートルの、距離を歩いて、病院へ戻った。
今度こそ。今度こそである。
あの階段を目指せ。
後ろからも前からも、人が来ていないことを確かめると、階段を駆け上がった。
トイレはすぐに見つかった。
「よかった……」
個室に入り座りながら、このステンレスのボウルにどうやって……と悩んでいると、
ドンドンドンドン!!
「∅∂∈∥∑⊕θλεζ∞!!!」
「え?」
「∆⊗≯∂√∣∷⊄⊇∧∂∆⊕∃×∞!!!!」
「は?」
ドンドンドンドン!!
「いや、待って、まだです! ……って、何語?!」
英語通じるか?
「ま、まだなの、え〜と、not yet!ノットイェット!!」
「∂∑≯∅⊕εθζ∆√θλ∆⊕∞∃∑!!!!」
ドンドンドンドン!!!!
そんなに叩いたら、壊れ……た……。
綺羅びやかな衣装を着た少女が、狭いトイレに入ってくる。そして、私は、その後ろにいた女の人に引っ張り出された。
「ヒメ ガ サキ ニッポンジン シツレイ」
その、銀髪に近い髪を引っ詰めて後ろでまとめ、銀縁の眼鏡をかけ、ダークグレーのスーツに身をまとったヒステリックな細身の女は、わたしの手を掴んで、トイレの外へと引っ張り出した。
外には、スキンヘッドにサングラスをかけ、全身黒のスーツを着た、身長2メートルはあるかと思われる屈強な男。
私がその男に片手で捕らえられている間に、「ヒメ」は、愛おしいものでも持っているように、例のボウルを両手でそっと掴んで出てきて、さっきの女に渡す。「ヒメ」と女が出てしまえば、トイレは空のはず。ちょっと扉が壊れているだろうが、そんなことは言っていられない。
私は、ハイヒールの踵で、男の足を思いっ切り踏んだ。思わず手を離した男の後頭部を、手に持っている丈夫なステンレスボウルで力いっぱい殴る。
その騒ぎに、「ヒメ」と女が急いで振り返った。
振り返った拍子に「ヒメ」の採尿ボウルが傾き、中身が半分以上溢れてしまった。
「∅⊄ζε∞⊕∧!!!!」
「⊗⊇∆θε×∂∑⊕!!!!」
「ヒメ」と女の悲鳴。
気がつくと、私は、男に捕まり、拳銃をつきつけられていた。
バタバタと「検査室」と書かれた部屋から白衣の男女が出てくる。
「コイツ ヤッタ ヤバイネ」
女が白衣の女性を睨みつけて言う。
「は、早く通訳を!!」
通訳が来て、事の顛末を話したようだった。時々困ったような顔をして、私の方を見る。
もういい、なんでもいいから、とにかく先にトイレに行かせろ!! 話はそれからだ!!
半分ヤケになりながら、
「もう、ここでやってもいいんだな? 検査できないけどいいんだな?!」
と悪態をつく。
「あのう……ですね」
やがて、通訳が、私のもとにやってきた。
「非常にヤバイ事態になっておりまして……」
「なんですか、ヤバイ事態って」
「あの方、『λ⊕∆∑∂国』のお姫様なのですが、たまたま日本の上空に来られたタイミングで、どうやら『膀胱炎』になられ、こちらの病院に駆け込みで来られまして……。」
「なんでここなわけ?」
「えーと、空港が近かったから、ですかね?」
「……」
「それで、今回の騒動で、大変ご立腹の様子でして、まず、あなたを捕らえた後、日本の首相に謝罪を命じると……。そしてその後、その……あなたが排出しましたものを、1ヶ月間、上空から撒き散らす、と……仰っておりますが……」
そ、それは恥ずかしいにもほどがある。
「ただ、場所は、本人に決めさせてやる、と」
「場所……」
そう言って、通訳はタブレットを見せた。
日本が、縦横12分割されていた。
「もう、嫌ぁああああ!!!」
そう叫んだら、目が覚めた。
夢だったのか……。
夫が隣で話しかけてくる。
「起きた? めちゃめちゃうなされてたよ?」
「酷い夢見た」
「『もう、ここでやってもいいんだな?』って寝言いってて、『何を?!』って思ってちょっと怖かった」
「あはは、しなくてよかった……っていうか、トイレ!!」
こうして、私は、無事、自宅のトイレに行けたのだった。
窓際に置いてあったステンレスのボウルについては、何も触れないでおこうと思う。
〈了〉
*トマソン : 無用階段、無用窓など、どこにもつながっていない階段や、壁に埋め込まれた窓、外に出ることができないドアなどの、一見役に立たない建造物。増設や改築などで使われなくなったものが多いが、芸術を超えた「超芸術」と捉えられることもある。
ひたすら遠い場所 緋雪 @hiyuki0714
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます