第39話 御殿山焼き討ち

 ところがおれは、周りの喧騒の中で、ふっと頭が静まった。作りかけの公使館とはいえ、番士くらいは張り付けているだろう。柵なんかも巡らされているに違いない。正面突破なんぞ無理筋で、警戒を破って入る手立てが要るに違いない。

 おれは宴会をそっと抜けて、往来に出た。品川の夜見世をふらついていると、目についたのは一張りの鋸。使わないかもしれないが、あっても損にはならないだろう。二朱だというから「これくれ」と買って帰った。


 そんなこんなで宵の九つ過ぎになった。今日はなぜだかあまり飲めなかったおれは、寝ている仲間を起こして回った。皆は水をがぶ飲みしたり、顔を洗ったり、それぞれ酔いを醒まして身なりを整えた。いよいよ討ち入り。皆の顔が、冷静さと高揚をないまぜとしたものに変わった。

「今日は十二日。赤穂浪士を見習うには二日ほど早いが――それでは一同、御殿山へ」

 高杉さんの掛け声で、三々五々、前後付かず離れず御殿山に向かった。


 向かうといっても、土蔵相模から御殿山は目と鼻の先、街道の脇を抜けた坂の上だ。坂下から見上げると、月明かりで照らされた公使館の威容が浮かび上がっている。さほど大きくないが、洋館特有の高さが目を引いた。

 おれと志道さんは、寒風にさらされながら坂を上った。前には高杉さんと久坂さんの姿がうっすらと見える。やがて二人は脇に逸れ、木々をかき分けて公使館の方に近づいた。

 おれたちはそこで立ち止まった。手前に人の背丈ほどの空堀があった。その先には先端を尖らせた丸太の柵が立て連ねてある。

「柵くらい、あるのはわかろうに……」

 久坂さんが小さな声で嘆いた。どうやら、おれの取越苦労は実ったようだ。

「久坂さん、これ」

 おれは、腰に付けた鋸を取り出した。月夜に鋸の刃がきらりと光った。その輝きが、みんなの無言の歓声を呼んだ。久坂さんなんかは、おれの肩を激しく叩いて喜んだ。おれはなんて気が利く奴なのだろう。


 おれたちは空堀に飛び込んだ。空堀の下で、山尾さんと堀さんが四つん這いになり、その上に久坂さんが乗って高杉さんを肩車で担ぎ上げた。高杉さんは、丸太に鋸を届かせ根元をぎこぎこと挽いた。半刻ほど、交代しながら鋸を挽き続けた。そうしてようやく丸太二本を切って、敷地に入る抜け穴ができた。

 中に入ったおれたちは、抜き足差し足、一番大きな建物に近づいた。そこには、玄関前に篝火が焚かれており、番人が二人立っていた。

 さてどうしよう?

 そう考えたのは無駄だった。高杉さんが物陰を飛び出し、番人の方に大股で歩いていったのだ。

「何者だ」

 番人が訝しむように声をかけてきた。

「我々は天下の志士だ。御国のために妖気を払わんがためにきた。邪魔する奴は斬る」

 高杉さんは低い声でいうと、腰の刀を抜いた。番人たちは、夜中に突然現れた男に刀を突きつけられて、逆に怯んでしまった。棒を構えた姿はへっぴり腰だ。それをみても高杉さんは変わらず、悠然と番人に近づいた。下段に構えた刀は、今にも抜き撃ちたれそうだ。

「やめろ、斬るな」

 すっかり怖気づいた番人たちは、棒を放り出して逃げ去ってしまった。

「こういう時は気合だ」

 高杉さんはおれたちの方を振り向いた。まったくもって大胆な人だ。


 おれたちは、玄関に大和さん、長嶺さんを見張りに残し、入口の篝火を拝借して公使館の中に入った。建物の中はなかなかの広さだ。

「ここでいいだろう。花火を打ち上げよう」

 高杉さんの声を合図に、おれたちはおがくずやら戸障子やら、そこらにある燃えそうなものを手当たり次第に積み重ねていった。

「志道さん、火薬団子」

 おれは志道さんに囁きかけた。志道さんはよし、といって袖口に手を突っ込んだ、ところで手が止まった。首を傾げて懐を探った。袖口、懐、腹、と繰り返しまさぐった。

「……しまった。空堀に落としてきた」

 志道さんの目は泳いでいた。

 おれは思ったね。この人、お里の部屋に忘れてきたに違いない。

「忘れたものは仕方がありません。篝火と火口箱で火を付けましょう」

 おれは火口箱で火を起こした。志道さんは、「落としたんだ」とブツブツいっていたが、ここは無視だ。火薬団子に比べるとまったく面倒だが、何とか焚き火ほどの火種ができた。あとは方々に置いて回るだけ。

「頃合いだ、逃げるぞ」

 高杉さんは出口に駆け出した。おれたちも一斉に後に続いた。来た道を戻って丸太の抜け穴をくぐると、後はてんでバラバラになった。

 おれは一人、高輪から麻布の方へ――夜の風を切って走った。

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2026年6月9日 07:00
2026年6月10日 07:00

伊藤俊輔記 ― 長州藩士の幕末日記 花山 春輔 @harusuke_hanayama

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