Hey 尻

元気モリ子

Hey 尻

物心がついた時から、ズボンよりもスカート派だった。


訳は、その方がカワイイだとか生半可なものではなく、ただ「尻がふたつに割れていることがバレたくない」という確固たる意志によるものであった。


皆、尻はふたつに割れている。

もちろんその方がうんこに便利なことも分かるし、座るためには非常に重要な割れ目だということも理解している。

あの大谷翔平だって、尻がふたつに割れているのだと思えば、まだまだ頑張れる夜だってある。


それでも私は、いまだに尻がふたつに割れているという事実を半ば受け入れられずにおり、できることならひた隠しにして生きていきたいと思っている。

だって恥ずかしい。


ズボン、今ではパンツと呼ばれる召物は、「ここにお尻がありますよ!」「ここでお尻がふたつに割れていますよ!」と、全世界に知らしめて歩いているようなものである。

その点スカートは、そういったディテールをなんとかフワフワっとぼかしつつ、あたかも尻など持ち得ないかのように身を包んでくれる。

子どもの頃は、「あぁ女の子でよかった!」と本気でそう思っていた。

それが今や、男の子でもスカートを履いていい時代が到来し、心の底から良かったと思っている。



駅なんかの階段で、知らない人のお尻が目の前にずんと迫ってくることがある。

おそらく尻追い人なら歓喜するであろう状況だが、私は恥ずかしくて居ても立っても居られなくなる。

心の中で「うわ〜お尻だ〜泣」と思っている。

時折り、お尻が歩いているのかと思うほどお尻で歩いている人を見かけるが、そんな時も専らこちらが恥ずかしくなり、特段見たくもない景色に視線を追いやったりするものだ。

極力、人のお尻も見たくない。


どんなにカッコいい人だって、「でもこの人も尻は割れてるんだよなぁ…」とふいに思い立ち、これまでもデート中に一気に冷めるなどしてきた。

私に背中を見せるのが悪い。

相手に対して「お尻が割れてると思ったら急に冷めちゃって…」などとはもちろん言わないが、今思えば「アイドルのうんこはピンクのマシュマロに違いない!」といった幻想に近いもので、「この人にお尻なんてあるはずがない!」と思っていたのかもしれない。


尻が割れている事実ですら認められる、そんな相手こそ真に愛する者であり、自分のそれを未だに受け入れ難いということは、まだまだ自分のことを愛し切れてはいないのかもしれない。

近年「自己肯定感」という言葉がやたらと出回るようになったが、皆は須く自分の尻をも肯定できているのだろうか。

尻はわざわざ私たちが肯定してやらずとも、各々尻として上手くやっていくのだろう。


世の中は尻で溢れている。

人の数だけ尻があり、猫にも犬にも尻がある。

そんな事実から目を背けながらも、落ち込んだ際には思い浮かべると何だか元気が湧いてくる。

どんなに偉い人だって尻は割れている。

何も怖がることはない。


9月に入ったというのに、午前中から平気で暑い。

とはいえ、朝っぱらからクーラーを付けることに一応の抵抗はあり、貧乏性の私はいつもギリギリまで粘ってしまう。

家事を一つこなす毎に汗だくになり、それは旦那も同じようで、着替える回数が増える分、夏場は洗濯物も増える。


「尻の分だけパンツがある…」


そんなことを呟きながら、今日も風呂敷と見紛うほどデカい旦那のパンツを、ベランダへと並べてゆく。

干したパンツは、万国旗のようだった。


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