インターホン
【相談者:横浜市〇〇区在中 二十五歳女性】
これは五年前の九月。
大学二年生のころに体験した話です。
その日は、一日雨模様だったのを今でも覚えています。
大学のサークルで、二次会終わりに私の家へ彼氏が来ていたことは、アルコールでぼやけた記憶の中でも嫌に鮮明でした。
二人で近くのコンビニで軽いおつまみ、あとは家に置いていたウィスキーを割るための炭酸水を二本ほど、買い物かごに入れていたところで彼氏が、
「やっぱ腹減ったわ。シメはパスタっしょ」
と言って、買い物かごに入れてきた冷凍のパスタを持ち上げながら「本当に食べられるの?」なんて言い合っていました。
会計を済ませて外に出るとまた雨が降っていて、酔いで火照った体にはとても気持ちがいいなんて言いながら二人で家に着くころにはずぶ濡れになっていました。
風邪を引かない様に二人でシャワーを浴びて、そのまま下着に近い姿でお酒を飲み始めたところでした。
ピンポーン。
インターホンが鳴って、私と彼は目を見合わせました。
「誰だ、こんな時間に」
「お隣さんかな……」
壁掛けの時計に視線を向けると、深夜二時を回っているところでした。
もしかしたら、私達の声がうるさかったのかな――なんて思いながら、私は急いで寝巻きで準備していたスウェットを履いて、玄関の方へ向かいました。
その時住んでいたアパートのインターホンには、綺麗な内装の割にモニターが付いていない物件だったため、来客があった時はドアスコープで確認しなきゃいけない作りでした。
ただそれでも一応鉄筋コンクリートの物件で、隣の生活音などは聞こえないような作りになっているはずでしたが、もしかしたら声がうるさいことへの苦情かもしれない……怒られることを覚悟して、恐る恐るドアスコープへ目を近づけました。
「……あれ?」
誰もいない。
ドアスコープの先にあるのは真っ暗な共用廊下だけで、インターホンを押したはずの人物は誰もいませんでした。
おかしいな、と思って彼氏の方に振り返ろうとして――
——バン!
「ぁっ!」
ドアが思い切り何かで叩かれ、私は驚きのあまり尻もちをついてしまいました。
鈍い痛みがお尻の辺りに熱を持っていたのが、動転した意識の中でもはっきりと分かります。
「どうした⁉」
「あ、いや……急にドアが叩かれて」
異常を察した彼氏が、急いで私の元へ駆けつけてくれました。
なんとか平心を取り戻した私は、震える指でドアの方を指さしました。
「急にってなんで……? なんか怒らせるようなことしちゃったかな?」
「わ、わかんない……でも、ドアの向こう側に誰もいなかったから悪戯かなって思ったんだけど」
と、私が必死に説明をしていると再び――
——ピンポーン。
気の抜けたインターホンの音が鳴りました。
先程と違い何も出来ずに、二人で固まっていると――
——バン!
また、先ほどと同じ破裂音が響きました。
音的には手のひらで叩いているような感じで、鈍く乾いた金属音は私の平常心を奪うには充分でした。
「な、何なの⁉」
「い、悪戯にしちゃ質が悪すぎるだろ……っ」
気が動転して叫ぶ私を、彼氏が抱きしめてくれます。
酔いがさめて、氷のように冷たくなる私の指先でしたが、彼の温もりのお陰でいくらか熱を取り戻します。
と、そんな温もりが離れていくのを感じて、私は彼氏の顔を覗き込みました。
「俺が確認してみるよ……このままじゃ埒が明かないし」
「ちょ――ちょっと、それ本気⁉」
「お前は部屋の奥で待ってて大丈夫だから……あっ、あとこれ借りるわ」
そう言って彼氏は私を部屋の奥へ追いやると、掃除のときに使っているコロコロを手に持って玄関の方に向かって行きました。
その間もインターホンの音と、ドアを平手で叩くような音は続いています。
インターホンが鳴るのとドアが叩かれるのは間隔としては十秒おきくらいでしょうか。
断続的に続くそれは、人間がやっているというよりも工場のライン作業の様に機械的なものの様に感じました。
そんな状況に臆した様子もなく、彼氏によってガチャッとドアを開く音と、ドアチェーンが引っ張られる鈍い金属音が響きました。
「——なぁ、ちょっと来てくれ!」
「な、何かあったの?」
「いいから来て!」
少し焦ったような声色で呼ばれて、私は重たい腰を何とか持ち上げて玄関の方へ向かいます。
ワンルームなので玄関までの距離は一瞬のはずでしたが、その時の私はその一瞬が永遠の様に感じるくらい恐怖と焦りで埋め尽くされていました。
ドアチェーンを外して、もう外に出ている彼氏。
私はその背中を追いかけるように外に出ました。
外に出ると、雨はもう上がっていました。
湿気が混じった夜風が、恐怖で体温を失いかけた体には少し心地いいくらいでした。
外に出て、私は思わず顔を顰めます。
「……なにこれ?」
「血、なのか、これ? マジで趣味悪すぎるだろ……」
あまり光量の強くない廊下の照明に照らされるドア。
そこには先程まで扉を叩いていた『なにもの』かによって付けられた真っ赤な手形がありました。
ただの手形ではなく、肘から先を乱雑に打ち付けたような跡と、そこから飛び散った血しぶきが共用廊下にもびっしりとこびり付いていました。
同時に鼻孔をくすぐるのは生臭い匂い。
雨上がり、秋前のねっとりとした湿度によって不快感の増した匂いに私は思わず顔をしかめます。
——ピンポーン。
「「っ!」」
私と彼は同時に視線を、入り口横にあるインターホンのスイッチの方へ送りました。
視線の先に広がってるのは、誰もいない深夜の共用廊下。
あとは、ドアと同様に真っ赤な指紋が付いたインターホンのボタンだけです。
「な、何で誰もいないのにインターホンが鳴るの⁉」
「俺に聞かれても分かんねぇって!」
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
気の抜けたインターホンの音が、より私の恐怖を煽りました。
全身からは血の気が引いていき、奥歯が震える体に連動したようにガタガタと震えます。
両足に力が入らなくなって、私はその場にしゃがみこんでしまいました。
その時でした。
それまでずっと鳴っていたインターホンの音がピタッと止みました。
「どっか行った……のか?」
私の肩に手を置く彼氏がボソッと呟きますが、私は恐怖で言葉が出ず首を横に振ることしかできませんでした。
肩に手を置く彼氏の手を握り返そうとして、
ぬめ。
っとした感覚が手のひらを包み込みました。
汗をかいてるのかと思って彼の方を見上げたら――
「——え?」
彼は左手を開いたドアを抑え、右手には部屋を出る時に持っていたコロコロを持っていました。
じゃあ、この手の感触は……そう思った瞬間に、全身に鳥肌が立ちました。
ばっと、強張った体のまま背後を振り返ると――
『——ァ、アァ』
今思い返すと、老婆の様な顔立ちだったように思います。
ボサボサに伸びた白髪に、強い力で殴らせたように顔の左半分はひしゃげていました。
服は和装だった気がしますが、至近距離にあった顔の方に意識が向いてしまってあまり思い出せないです。
私が握っていたのは彼女の手のようで、その手は真っ赤に濡れていました。
『——コ、カァ……ドゴ』
「っ――」
そんな感じの事を呟かれた気がしますが、私の意識があったのはそこまででした。
目が覚めると私は病院のベッドにいて、両親が目覚めた私に安堵の表情を浮かべていました。
後日彼氏もお見舞いに来てくれたのですが、彼の視点では急に私が倒れてしまったようで、そのまま救急車を呼んだそうです。
救急隊が到着した時には血の様なものも消えていたようで、本当にあれが何だったのか今でもわかっていません。
お医者さんからは、連日の疲れとアルコールの影響で倒れてしまっただけ、過度な飲酒は控えるようにと言われただけでした。
ただ、後から聞いた話で、アパートが出来る前の長屋には老婆が一人暮らしていたようです。
ずっと一人で暮らしていたようで、痴呆症になって徘徊するようになり――その後はあまり口にできないような悲惨な末路を辿ったようでした。
あれがその老婆なのか分かりませんが……ただ、今でも思ってしまうんです。
彼女はまだ一人、あの部屋にいる『誰か』を待っているんじゃないかって――
——相談者の調書より、一部抜粋。
夜丹 胡樽 短編集 夜丹 胡樽 @malboro777
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