あの日の約束は遠い記憶の虹のように
雨がビニール傘をかたかたと叩く。
灰色の曇り空から落ちてくる雨は透明で、綺麗だけど残酷だ。
今日の午後からの降水確率は八十パーセントで、残りの二十パーセントに賭けてお気に入りの傘は玄関前の傘立てに置いて行った。
だから急な雨に降られて、慌ててコンビニでビニール傘を買ったが、ヒールを履いた足先は冬前ということもあって足先の感覚を忘れてしまうくらいに凍り付く。
ビニール傘の越しのぼやけた視界の先には、気怠げなネオン街が広がっていた。
午後休を使って早く帰ることを決意したが、運悪く雨の日になってしまった自分の運の悪さに憤りを感じる。
コンクリートジャングルと形容した人は天才だと思ったし、そんな中で私のすさんだ心を癒してくれるのは雨の中で必死にティッシュ配りをする男の人からもらったポケットティッシュだけだった。
最後にちゃんと笑ったのはいつだろう。
「……」
会社と自室を往復するだけの日々。
最初はやりがいがあると思っていたデザインの仕事も、気が付けば自分のやりたい事を封じ込めてクライアントの要望通りのものを作るだけの機械に成り下がっていた。
それが社会から求められていることで、上司から「お前の代わりなんていくらでもいる」と言われた時には、曖昧に笑う事しかできなくなっていた。
自分自身の価値が分からなくなる。
私が求められなくなると、今度は私が何をしたいのかが分からなくなった。
だから、会社から言われたことだけを淡々とこなして、偽りの笑顔という鎧を纏いながら自我を殺していった。
それは昔読んだ小説の中に出てきた鎧だけの魔物のようであり、堅牢な鎧の下に空洞が広がっているのに似ている。
あの頃は亡霊は悲しいものだと同情をしていたが、今の自分をあの頃の自分が見たら同じように同情してくれるだろうか。
信号で立ち止まり、何気なく空を見上げる。
雨は先程よりも弱くなっているように思えた。
歩いていた時の速度がなくなって、弱くなっているだけの様にも思えた。
「……虹」
ぽつりと呟いてみる。
それは学生時代の、ささやかな約束だった。
あの日はまだ梅雨で、同じような雨も冷たさよりも温もりを持っていた。
彼は元気にしているのだろうか。
いつか虹を見ようと約束した部室はもう思い出の中に沈んでいて、遠い国のニュースを見ている時と同じように思えてしまう。
彼は、元気にしているのだろうか。
もう抽象的な言葉を使う事も少なくなってしまって、いやらしい横文字の業界用語と数字ばかりを口にしてしまっている。
そんな自分を見て、彼は何と言うだろうか。
記憶の中の彼の笑顔は輪郭がぼやけていて、でも不器用に笑ってくれることだけは確かだった。
今日の雨は、今の私の心を表しているように冷たい。
それは季節が過ぎたからか、それ以上の何かなのかは分からなかった。
でも、大人になるとはきっとこういうことなんだろう。
今日も屋上の扉は固く閉ざされたままだった。
「……っ」
私はタッと踵を返した。
急に振り返ったことで、私の背後に幽霊のように立っていた男性が驚きの表情と共に生気を取り戻すのが、少しだけおかしかった。
私は小さく「ごめんなさい」とつぶやきながら、急いで歩いてきた道を戻っていく。
それは小さな革命のようであり、反逆でもあった。
鯉が滝を登るのはきっとこんな感覚なのだろう――あぁ、小説を久しぶりに読みたくなる。
会社までの道から外れて、今まで歩いたことのない道を歩く。
こんな場所に植木鉢があったんだとか、煙草の煙を吐き出す老人の様な室外機を見つけて笑みを浮かべたりだとか、そんなくだらないことが面白く感じてしまう。
「……あ」
立ち止まった私の視線の先には、古ぼけた時代錯誤とも言える雑居ビルがあった。
外壁はレンガ仕立てだったようだが、経年劣化した影響下は分からないが黒と赤の班目模様の様になっている。
そんな雑居ビルの勝手口の扉が開いているのを見て、なんだか昔を思い出した。
私は恐る恐るその扉の方に近づいて、中には行ってみることにした。
息を出来るだけ殺し、ビニール傘を勝手口の前に残すように置いて敷居を跨ぐ。
中は光が弱くなった蛍光灯が弱弱しく廊下を照らしていた。
奥にはエレベーターがあるようだが、まるで何かを封印でもするかのように『点検中のため使用禁止』という張り紙がしてある。
仕方なく私は右手側の階段を上っていくことにした。
外観的に六階までしかなさそうだし、運動不足を解消するにはちょうどいいくらいの高低差だろう。
ビルの中は静かだった。
一階ずつフロアを上がっていくと別世界が広がっているんじゃないかと淡い期待をしたが、会談の先に広がっているのは無機質な廊下と、中に人がいるのか分からない錆びだらけの扉だけだった。
十分もかからず、階段が終わりを告げる。
すり硝子が付いた扉の先には重い灰色の空が見えた。
恐る恐るノブに手を伸ばすと、施錠はされていないようで軽い力で扉を開くことができた。
年老いた猫の鳴き声みたいな音を立てながら扉が開く。
雨の匂いと一緒に、冷たい風が頬を通り抜けた。
雨はまだ降っているようで、長年雨風に晒された影響で屋上にはところどころに水溜りが溜まっている。
虹は、出ていないようだった。
雨が降っているなら当然とも言えるし、太陽は厚い雲に隠れて顔は見えない。
「……はぁ」
息をそっと吐き出す。
それは期待していたものが得られなかったからか、それとも自分自身への落胆か。
ただ、頬を撫でる生暖かい吐息の感触が嫌に鮮明だった。
息を吸ってただ履くだけの事を意識したのは、もう随分昔のことのように思えた。
雨は止まない。
ただ、それでも彼女はそれがとても神秘的な事のように思えた。
それは幸せの前兆だかか、はたまたいつか交わした約束を装丁して記憶という本棚にしまう事への寂しいきらめきにも似た何かだからか。
彼女には分からない。
でも、それが神秘的なことだけは確かだった。
「……えっと、大丈夫ですか?」
「え――」
唐突に声をかけられて慌てて振り返る。
それは予期せぬ出来事への驚きと、悪い事をしてしまったという事への一種の罪悪感。
彼女の思考が一瞬で動転していく。
振り返った先にはスーツ姿の男性が、彼女を不思議な表情をして見つめていた。
彼女を見上げるような形になっているのは、彼がまだ階段を全て登り切っていなかったからだ。
「あれ……君は?」
「もしかして――」
それが奇跡の再会だとすれば、虹はきっと幸せの前触れだったのだろう。
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