序戦 (4)
盤上に走る赤光が、いよいよ濃度を増していく。
駒のひとつひとつが操る者の意志を吸い込み、脈動し、大気中の魔力を濁らせていた。
ノックスの双眸は、依然として凍てついたままだ。
体内の魔力が底を突きかけている自覚はあったが、彼は指先ひとつ、眉ひとつ動かさず、完璧な支配者を演じ続ける。
対照的に、クロードの顔色は目に見えて土色に変わっていた。
彼の陣形は一見攻勢だが、ノックスの障壁と罠によって急所を封じられ、身動きが取れなくなっている。
(……焦燥が、駒に伝わっているな)
クロードの主攻を担う駒は、度重なる突撃で魔力を使い果たし、その動きは既に精彩を欠いていた。
「……いつまで逃げ回るつもりだ、この混じり物がッ!」
クロードが苛立ちを爆発させ、怒声を浴びせる。
「叩き潰せ! 全出力でその障壁を粉砕しろ!!」
攻撃型の巨駒が石腕を振り下ろす。
──ゴォォォンッ……!
重い衝撃が響き渡り、障壁を覆う符紋が悲鳴を上げるように光を弱めた。
だが。
ノックスは盤を凝視したまま、わずかに口角を吊り上げた。
「いいぞ……。全部、使い切れ」
低く、冷徹な声が空気を震わせる。
その一言に、クロードは一瞬、怯んだ。
不安が顔をかすめるが、それをかき消すように声を荒げる。
「……ハッ、見え透いたブラフを!」
ノックスは指先を動かし、罠型の駒を優雅に滑らせた。
「……
命に応じ、駒が影のように回り込み、クロードの攻撃型駒の背後を断つ。
紅の符紋が瞬時に爆ぜ、魔力の渦が吹き荒れた。
クロードの駒はその中心に釘付けにされ、一歩たりとも動くことを許されない。
「……攻撃に傾倒しすぎたな」
ノックスが顔を上げ、静かに告げる。
その聲音には、明確な揶揄と底冷えするような冷酷さが混じっていた。
クロードの眼差しが鋭く尖る. 怒りと、それを上回る絶望が滲んでいた。
彼の駒は盤上に散り散りとなり、連携は完全に断裂している。
「……まだだ、まだ終わってなどいないッ!」
彼は支援型の駒を指差し、断末魔のような叫びを上げた。
「前進しろ!
その渦を内側から食い破れ!」
支援型が動き、罠型の渦へと肉薄する。
しかしその刹那、盤の縁に沿って符紋が奔り、障壁型の駒が音速で滑り込んだ。 そのまま渦の前へと立ちはだかり、進路を完全に断絶する。
ノックスの声が、確信に満ちて響いた。 「……手遅れだ」
クロードの呼吸が乱れ、指先が激しく震える。
彼は初めて、自分が盤という名の檻の中に閉じ込められている事実に気づいた。
その時、ノックスがふと呟く。
「……そんなに壁を壊したいなら、消してやるよ」
「……あ?」
困惑するクロードの眼前で、ノックスの障壁型が自ら後退し、渦の圧力が一時的に開放される。
盤の符紋が淡くなり、渦が一瞬、凪いだ。
「なっ……!? 自ら守りを捨てたか!?」
その隙を突き、ノックスの別の罠型駒が別ルートから展開を開始する。
盤面を斜めに切り裂くように滑走し、クロードの支援型と攻撃型の繋がりを完全に絶ち切った。
「誘導だよ。必死に渦を突破しようとするお前に、背後を見せたら……終わりだ」
ノックスが冷ややかに微笑む。
盤上の光が激しく拍動し、クロードの陣形は一瞬にして瓦解した。
攻撃型は孤立無援となり、支援型は罠に挟まれ、進退を失って沈黙する。
「う、嘘だ……こんなことが……!」
クロードが拳を握りしめ、黒曜石の盤を殴りつけた。
「この俺が……こんな、ハーフ如きに……ッ!」
ノックスは微動だにせず、死刑宣告を突きつける。
「──決着だ」
その言葉とともに、盤面の魔力が急速に収束していく。
崩れ落ちる巨駒の轟音が、石造りの空間に空虚に響いた。
深淵の霧が立ち上り、敗者の駒を次々と飲み込んでいく。
光を失った盤上には、何も残されなかった。
クロードは膝をつき、蒼白な顔で崩れ落ちる。
盤の縁を掴んでいた指先も、今は力なく投げ出されていた。
ノックスは静かに背を向け、乱れたロングコートの裾を無造作に整える。
「……ルールに従ってさえいれば、もう少しマシな負け方ができたんじゃないか?」
吐き捨てるようにそう言い残し、彼は盤を後にした。
沈黙と闇が支配する闘技場の中で、唯一背筋を伸ばして歩く彼の背中は、闇を切り裂く刃のように鋭利だった。
足音が消えるとともに、盤の光も完全に潰える。
再び、深淵の霧がすべてを塗りつぶしていく。
ノックスは闘技場の中央で一度足を止め、空を見上げた。
「試練、終了」
天から降り注いだ試練官の声は、氷のように無機質だった。
しかし、その声は勝者の名を呼ばなかった。
ノックスの眉が、わずかに動く。
(……なぜ、勝敗を宣しない?)
盤上の戦況は、間違いなく彼の完勝だった。
だが、試練官の沈黙が、奇妙な違和感となって胸に沈殿する。
そして、彼は理解した。
(──そうか。これは「勝負」などではないのだ)
口元に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「試されていたのは……盤上の技量ではなく、己の『意志』と在り方、か」
盤など、ただの舞台に過ぎない。
真に審査されていたのは、魔界の過酷な論理に耐えうる「王の資質」があるかどうか。
ノックスはそれ以上思索を巡らせるのをやめ、静かに重心を落とした。
腰の後ろ――背骨の低い位置から、軋むような音を立てて紅黒の異形なる翼が展開される。
(……この翼も、母さんの血の証か)
(代理などという名目で参加させられたこの選挙、結局誰のためのものだ)
闇を切り裂くように広がったその双翼。
噴き上がる魔力の気流がロングコートを激しく煽り、ノックスは不快そうに眉をひそめた。
(……やはり、この服では飛びにくいな。タロスに新調させるか)
心中でぼやきながら、ノックスは天を睨みつけ、力強く翼を振り抜いた。
──ドンッ!!
地を揺らす魔力の衝撃波を残し、彼の身体は夜空へと吸い込まれていく。
霧を切り裂き、闘技場を瞬く間に置き去りにして。
振り返ることすらしない。
まるで──この結末を、最初から予見していたかのように。
試練官はその背が消えゆくのを、ただ黙然と見送っていた。
そして、無言で膝をつくクロードへと冷酷な視線を向け、冷たく告げる。
「次の試煉──準備。」
再び深淵の霧が這い寄り、闘技場は闇に沈む。
すべてが、静寂の彼方へと帰していった。
――序戦・完――
悪魔伝承 —— 魔王選挙とか、俺たちに向いてない気がする 雪沢 凛 @Yukisawa
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