第4話【灰の中から立ち上がるもの】



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### **番外編 『氷の人形、花の芸』**


**【灰の中から立ち上がるもの】**


十七の春、望まぬ妊娠と心を殺す中絶を強いられた菜々美は、抜け殻になった。置屋の誰もが「あの子はもう、潰れてしもた」と囁き、女将の花江でさえ、壊れた商品として帳簿からその名を消しかけていた。


しかし、蝉の声が狂おしく降り注ぐ、ある夏の終わり。

気怠い空気が澱む稽古場で、菜々美はすっ、と立ち上がった。まるでプログラムを再起動した機械のように、一切の迷いなく三味線を手に取る。

ベン、と撥が糸を打った。

その場にいた誰もが、はっと顔を上げた。それはガラスを爪で引っ掻くような硬質で無機質な音。以前の彼女が奏でた音とは、全く異質の響きだった。

そこにいたのは、もはや菜々美ではなかった。

喜びも、悲しみも、お座敷への不安も、その表情からは一切読み取れない。ただ、底なしの昏い瞳で、黙々と三味線を爪弾き、舞の型を繰り返す。

その姿は、人間というより、精巧に作られたからくり人形そのものだった。


**【感情を捨てて得た「完璧」】**


心を捨てたことで、菜々美の芸は皮肉にも、人間離れした精度と凄みを帯び始めた。


* **三味線:** 彼女の撥さばきは、機械のように正確無比だった。音色は氷のように冷たいが、どんな難解な曲も一音の揺らぎもなく奏でる。それは感情に任せて弾く他の芸妓たちの音とは次元が違う、絶対的な技巧の結晶だった。


* **踊り:** 彼女の舞から、かつての儚げな情感は消え失せた。代わりに現れたのは、寸分の狂いもない、完璧な「型」の連続。指の先から爪先まで、計算され尽くした動きは、まるで水面に映った影が舞っているかのようだった。その命の匂いがしない究極の様式美は、かえって見る者を畏怖させ、一種の神々しささえ感じさせた。


* **着付けと所作:** お座敷への準備は、戦場へ向かう兵士の武装作業に似ていた。感情の迷いがないため、誰よりも速く、寸分の乱れもなく衣をまとう。その圧倒的な速さと美しさに、長年の経験を誇る先輩芸者たちも、ただ呆然と見送るしかない。気がつけば、菜々美はあらゆる面で、桔梗屋の誰をも「出し抜いて」いた。


**【畏怖と嫉妬の眼差し】**


置屋の仲間たちの反応は、同情から畏怖、そして嫉妬へと変わっていった。

「菜々美はんの芸、綺麗すぎて怖い…」

「あの子、心をどこかに置いてきたんやろか」

彼女たちは、菜々美の完璧さに賞賛を送りながらも、その人間味のない姿に言い知れぬ恐怖を感じ、次第に距離を置くようになった。


姉さん芸者の菊乃だけが、その変貌の理由を知るがゆえに、痛ましげに見守っていた。

「佐知子…あんた、そんな無理せんでも…」

声をかけても、菜々美は人形のような無表情で静かに首を振るだけだった。

「姉さん、なんのことどすか? わては、桔梗屋の芸妓として、仕事をしとるだけです」


その夜、一人になった部屋で、菜々美は誰にも見られずに、そっと自分のお腹のあたりを撫でた。それは、失われた命を悼む行為であり、心を殺す前の「佐知子」という少女を思い出す、唯一の儀式だった。


**【新たな商品価値】**


そして、女将の花江は、この予想外の変化に舌を巻いていた。

壊れたと思っていた商品が、自ら心を捨て去ることで、人間では到達し得ない「最高級の芸術品」へと変貌を遂げた。花江は、菜々美の完璧な芸を見ながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。自分の理解を超えた「怪物」を生み出してしまったことへの恐怖。しかし同時に、その「作品」が自分の置屋から生まれたことに対する、倒錯した恍惚と支配欲が湧き上がってくる。

「わてが、あの子をここまでの芸妓にしたんや」

彼女の目には、菜々美の苦悩ではなく、その完璧な芸が生み出す金の音だけが、キラキラと映っていた。


こうして、芸妓「菜々美」の名は、祇園に轟くこととなる。

その完璧な芸は、彼女の魂の墓標そのものだった。

誰も知らない。その氷の仮面の下で、彼女がただ「温かい布団とご飯」を夢見た、十六の少女の亡霊を、今も抱きしめ続けていることを。


この冷たく凍てついた心が、数年後、高橋佑樹という男の、不用器で真っ直ぐな眼差しによって、少しずつ溶かされていく運命にあることを、まだ誰も知らなかった。

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『紅が散る夜、獣の宴』 志乃原七海 @09093495732p

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