第3話『宿りし絶望、散りゆく命』
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### **番外編 『宿りし絶望、散りゆく命』**
**【続く地獄、体の異変】**
十六の冬、無理やり紅を散らされてから、菜々美の世界から色は消えた。不動産屋の社長・轟の「おもちゃ」として、ただ息をするだけの美しい人形となり、屈辱の日々を耐え忍んでいた。
そんなある春の初め、菜々美の体は、彼女の意志を裏切り始めた。
舞の稽古中、いつもなら決してぶれることのない軸が、ふらりと傾ぐ。客に注ごうとした酒の匂いに、思わず口元を押さえて化粧室へ駆け込む。仲間たちはただの疲れだろうと心配したが、古株の芸者や女将の花江の目は、その兆候が何を意味するのかを瞬時に見抜いていた。その視線は、値踏みするような冷たさを帯びていた。
**【妊娠という名の〝商品価値の毀損〟】**
花江は、菜々美を能面のような無表情で医者へ連れて行った。
そして置屋に戻るなり、有無を言わさず彼女の腕を掴んで自室に引きずり込み、診察結果が書かれた一枚の紙を、テーブルの上にすっ、と滑らせた。まるで帳簿の数字を突きつけるかのように。
「あんた、身ぃごもったわ。あの社長の子や」
その声には、母親としての気遣いも、女性としての同情も、ひとかけらも無かった。ただ、最高級の商品に瑕疵が見つかったことへの、底知れない怒りと苛立ちだけが静かに渦巻いていた。
**「妊娠」**――。
その言葉の意味を、まだ十七になったばかりの菜々美の頭脳は、すぐには像を結べなかった。
自分の体の中で、別の命が育っている。あの忌まわしい夜の記憶から生まれた、望まぬ命が。
その恐ろしい事実に、菜々美の思考は真っ白に塗りつぶされた。彼女は、ただ呆然と立ち尽くす。
そんな菜々美の様子に、花江はさらに苛立ちを募らせた。
このまま腹が大きくなれば、お座敷には出せない。商品価値はゼロだ。轟に知られれば、厄介極まりない。全ては損失でしかない。
花江は、鬼の形相で菜々美に掴みかかった。
**「はよ、堕ろしぃな!」**
その言葉の意味すら、菜々美にはすぐにはわからなかった。
花江は、獣のような低い声で続けた。
**「腹の子のことや! さっさと始末つけな、商売上がったりやないか!」**
血も涙もない、あまりにも非情な宣告。
ようやくその言葉の意味を理解した菜々美は、声にならない悲鳴を上げた。
自分の体の中に宿った、罪のない命。それを、「始末しろ」と。
恐怖と嫌悪の嵐の中で、しかし、彼女は反射的に自分のお腹をかばうように両手でそっと押さえていた。
「いや…いやどす…」
それは、水揚げの夜の絶叫とは質の違う、か弱くも聖なる響きを帯びた抵抗だった。その無意識の母性の萌芽に、花江は容赦なく鉄槌を下した。
「あんたに、決める権利なんかないんや!」
**【仲間たちの沈黙】**
そのやり取りは、薄い襖を通して、息を殺す置屋の仲間たちの耳にも届いていた。
菊乃は襖に手をかけ、指が白くなるほど力を込める。だが、震える指先は、どうしてもその襖を開くことができない。「見ておれや」と誓った自分の無力さが、喉を締め付けた。
古株の一人は、そっとその場を離れ、誰にも見られぬ縁側で煙管を燻らせた。吐き出された紫煙の向こうに、かつて自分も同じようにして散らした、小さな命の幻を見た。
襖一枚隔てた先で、菜々美はあの夜と同じように、またしてもたった一人で地獄に突き落とされた。
十六の冬に心を殺され、十七の春に、己が母となるはずだった命さえも、奪われようとしていた。
この日、菜々美は悟った。
この世界では、自分の体も、心も、そして自分の中から生まれようとする命さえも、決して自分のものではないのだと。
彼女の魂は、この日、音もなく二度目の死を迎えた。
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