雲間
君の勘の良さには、いつも舌を巻いていた。
悪意を持った人間は元より、わずかな悪意によって当人さえも自覚のないままに変調しつつある人間についても、当人よりも先にその危険性を察知するといったことがしばしばあった。
「ねえ、何かおかしいのよ」
そんな感じだ。それは勘が良すぎるために論理的な説明のいくつかを軽やかにスキップすることがあったから、私は特に君との歳月の最初のころなんかは実に面くらってしまった。そんなに疑いを持つべき人間なのかと考え込んだことだってあった。
「あなたはそういうところが鈍いのよ」
いや、本当にそうだよなあ。反省しきりだ。
もちろん君のそれが、他人に対する単なる鋭すぎる好悪や批判精神の表れであったならば、私は君の存在を尊重しつつも、ある程度はやんわりとそれをたしなめていったことだと思う。でもそうではなかった。君は勘が良すぎるくせに、我慢強かった。人の感知は素早いにせよ、結論を出すまでの留保には時間をかけた。それは、私は君の言う通り鈍いところのある人間だけれども、それでも、感知の鋭さを留保の間じゅう抱え持って、その鋭さが絶え間なく自分を傷つけてくる、それをじっと我慢するということくらいは私にだって想像ができた。
君は痛みに鈍い人ではなかった。他人に傷つけられても、他人を傷つけても、そのことに繊細な人だった。だからこそ、他人への留保なんてものは普通の何倍も辛かったはずだ。私は君との歳月のどこかで、そんな君を不思議なくらいに理解してしまっていた。それが波止場で、そうあることができたというのならば、本懐だとつくづく思う。
「あのね、のろけはありがたいのだけれども、でも何かがおかしいの。そう感じちゃうのよね。わたしでなくあなたが、うん、何か探られていた感じ」
私が? うん、まあ、確かに、あの黒ひげのやつには慢性的にマークされているからねえ。
「そうじゃないのよ。何か変な感じ。これまでと違う何か」
君の声にそこまで言われて、鈍い私もようやくチャンネルが入った。そうか。いや、全く自覚はないけれど、そうか。
「鈍いわねえ」
全くだ。そこは君が頼りだ。
君がいなくなって、暗闇を一人でとぼとぼと歩いていたとき、君がいてくれたらどんなに心強かったかと心底思った。そしてそのとぼとぼと歩む道が無限に続くことに泣いた。でも歩かなきゃならない。無限の彼方に、もしかしたら君が待っていてくれるのかもしれないのだしね。
君は感覚を跳躍させられる人だった。私はその力はないけれど、論理を飛躍させることは、もしかしたらちょっとくらいはできるかもしれない。
「いざとなるまでは時間がかかるけど、いざとなったらあなたは結構やるものね」
ありがとうよ。やってみるさ。
「心配はしていないよ。あなたはきっとやれる。それがあなたらしくて、あなたにとてもしっくりくるもの」
私は君に向かってうなずき、君の中の私の姿を承服した。私は特異点にいる。君は見えない。君が今どこにいてどうしているのか、私にはわからない。時間が異なり、空間が異なり、お互いにとんでもない重力下で身動きが取れない環境にあるのかもしれない。だけれども私と君は不思議な対になっている。だからこそこんなふうにしてお互いの言葉が行き来する。
君は言葉を届けてくれた。何かがおかしいと。
私はそれを受け取った。何かがおかしい。そうだね、十中十五くらいの確率でそれは黒ひげだ。人のかたちをした悪意は無数に存在しても、それは単に人の格好をしているというだけで、悪意そのものはDNA複製みたいなものでしかない。人間として、私を脅かしてくるやつというのは、黒ひげたった一人だ。
ほとんど全ての、人のかたちをしてはいるけれど、たただた単に人のかたちの入れものに伝染型の悪意が詰められているやつは、重力みたいなもので、ただただ重くて
君が困ったような笑みを浮かべているのを感じる。
「大丈夫なの? すべてのログは保存されているのでしょ」
とっくの昔にこういう人間だというのは露見しているさ。だからこそ黒ひげは私をマークしている。そしてここは終着地だからね。これ以上先もない。だから後は飽和させるんだわ。
もちろん、それで黒ひげの余裕の牙城を崩すことはできないだろう。だけれどもいくらかの危惧、黒ひげの首に首輪をはめている図体のでかいがらんどうが黒ひげ以上にわずかな可能性に抱く危惧、それが、ただでさえでかくてがらんどうの図体を更に肥大させるだろう。そうなればなるほど、その
「嫌がらせだね」
似合うでしょ。
「ホントにね。でも気をつけてね」
ありがとう。ここの先にあるものはない。ここにさえ私を押し込めておけないとなれば、私を本当に消し去るほかなくなる。
「わたしに逢うために?」
そうだ。
「天文学的な楽天っぷりよ。心の底から呆れ果てるわ」
でも、星の生命よりも永い永劫を費やすのならば、君を追い求めるためにそうするのがいい。でももちろん、そんな永劫よりはこの特異点から抜け出す方が手っ取り早いことはよくわきまえている。君に会うのならば、そりゃあ早い方がいい。その速さ自体が天文学的なスケールであったとしてもね。さあ、また今度は、君とのやり取りをヒンジにして、別の何をつなげてみようか。その確かさから不確かさへの危うさをつなぐことこそが、もしかしたら黒ひげの悪意の一番嫌がることなのかもしれないものね。さあ、また今度は、さあ、またどんな。
バスは揺れた。周期的な振動ではなくて、唐突で不安定にガクガクと。雪道の中のわだちをたどるのはそんなものだった。久しく雪のない都会で生きてきて、生まれた雪のある世界に戻ってきた私は、いくらかの陰鬱さでその振動をこらえていた。
車内は暖房をこれでもかと焚いている。眼球ごと
懐かしさという心への甘さは、ないというわけでもない。子供のころにこの路線に何度も何度も乗った。田舎暮らしの、他愛もない子供が、これでもかというほどに憧憬を抱えて、散々に親にせがんでバスに乗る。春も、夏も、秋も、今日のような冬も、バスは夢の国に接続していた。夢の国といってもあんなところなんかでなくて、ただの地方都市の多少の繁華街だ。百貨店を名乗るにしては地方らしいおさまりの、東京などの目まぐるしさからすればずっとずっと周回遅れの、最上階に陳腐すぎるレストランの入った、そんなデパートがひとつだけある、そんな繁華街が、地方一円にとっては誇りの証であり、子供は他愛なくそんなものに引っ張られた。バスはそこにつながっていた。閉じ込められているような生まれた田舎の集落から、バスは夢へと運んでくれた。そして、散々にはしゃいで遊んでくたくたになると、バスはその不器用な振動で夢の終わりを告げながら帰路へと向かった。はじまりとおわり、その短い儀式にバスがあった。子供のころの他愛もない話だ。今、子供を連れてそのバスに乗り、自分の実家に本当に久々に帰省する。複雑な心境で、億劫さとばつの悪さ、自分が負けてうらぶれて戻ってきたという外側からの視線を思い浮かべて、やるせない心地にならないわけでもない。いいわけと一蹴される伝わらない言い分も、きっと呑み込むしかないだろう。その心地の中で、かつて何度も見つめてきた車窓の風景が、路傍の変貌と変わらない河川敷のありさまとが不確かに入れ替わり、また入れ替わって、子供という証がなければ私は、自分の輪郭をつい失念してしまいそうになっていた。
「おとうさん、いま何時?」
子供が甲高い声で聞いてきた。ようやく小学校に上がったばかりだけれど、こんな親だからかひどくききわけがいいし、ききわけが良すぎることに心がチクチクとしないでもない。子供は、人は、別にそんなに誰かにとって都合よくなくともいいのだ。外界がそれを許さないのならば、せめて家族という輪の中ばかりは、都合のよくない自分自身を都合よく包んであげるような場でないとならないと、私は願ってきた。
麟、子供の名前だ、私は麟が時間を尋ねてきた気持ちを想像してみた。そうだ。空が暗い。単なる曇り空というのでなく、太陽の在処がわからない。だから或いは、不安になったのかもしれない。
麟はこの時期に私の実家に来たことがない。加奈子がそもそも私の実家、というよりも、田舎そのものを
加奈子は去った。別の人生を始めることにした。麟は私が育てることに二人で決めた。加奈子がこれから新しく築いていく家庭に麟が連れていかれて上手くいくかどうかの予測は、私にも彼女にもうまく立てることができなかった。加奈子は、幼い麟にどちらについていくかを尋ねた。むごいことだと私は思い、親として無様で情けないことではあったが麟に頭を下げて謝った。麟は私たち夫婦の顔色を見つめる物静かな子だった。おとうさんと答えた。ぼくはおとこのこだからおとうさんと答えた。加奈子はそれでふんぎりがつき、吹っ切れたようだった。私はそれを見て、麟には生涯詫びなければならないにせよ、このかたちは正解なのだと思わずにはいられなかった。
私は麟に自分の腕時計を見せてやった。クラシックな造作ではあるけれど、中古ショップに持っていったところで小遣いにもなりやしない程度の品でしかないが、私にとって居心地のいい文字板の具合と、
「よるになりかけかとおもった。おなかへってないけどへんだとおもってた」
「お父さんの生まれたところはね、冬になるとこんな日がよくあるんだよ。雲がお日さまを隠してしまうくらいに分厚いんだ」
それを嫌って都会に行った、とまでは、まだまだ幼い麟に伝えるべきではないと私は思った。
到着した。停留場はそのままだった。土手の上の道路に沿う待合所の掘っ立て小屋感は、一向に改まっていない。私はそれに多少苦笑しつつ、麟の手を握ってバスを降りた。
「おもちみたいだ」
麟は面白がった。確かに停留場の粗末な屋根を隠すように雪が積もっている。バラックとしか言いようのない待合所の屋根のひさしから、牙をむくようなつららが垂れていた。
「すごいすごい」
私は子供のために、つらら一本を失敬した。子供のころによくやった。つららをもぎ取って、手袋越しなのをいいことにチャンバラをして、それでも指先が痛くなるほどに冷えてきたら、最後には河原に向かってつららを投げた。そんなことで十分に楽しかった。
「つめたい。つめたいよ」
細いつららを渡してやると麟は喜びながら悲鳴を上げている。麟も私も、手袋は用意してこなかった。二人の顔ばかりでなく、麟の小さな手もあっという間に真っ赤になる。麟ははちきれんばかりの笑顔だ。ある程度のところで、私は麟の手からつららを離してやって、道端の積み上げられた雪のかたまりのそばにそっと置いた。
「面白いかい」
「おもしろーい」
私は、小さかった頃の自分の手を引く気分になった。時間なんてそんなものかもしれない。雪は切なく苦しいが、都合の悪さを覆い隠しもする。変わってしまったもの、失ってしまったものも、一面の雪景色に収めてしまう。そしてその上に、太陽を覚えない暗がりのヴェールをかけてしまう。そうやって、時間というものも、生というものも、何か抽象的でかえってシンプルなものに改めてしまう。
私は麟の手を取って、土手を降りる斜路をゆっくりと歩んだ。案の定、雪道に馴れない麟は数歩進んでは足元をおぼつかなくさせ、私が危ないと目星をつけた場所ではものの見事に尻もちをついた。雪国で生まれるとそういうことはわかる。麟にはわからない世界だ。この子の面立ちは確かに幼いころの私に似ているが、当然ではあるけれど、この子は私ではなかった。或いは私の中の別の可能性であったひとつなのかもしれないと錯覚することもあるが、子供は私ではないのだ。加奈子ほど、頭ごなしの否定感は持たなかったにせよ、私も私で麟には私の実家には何らの束縛なく生きてほしいという願いがある。そのくせ、ふるさととして戻るべき場所がないということがどんな意味や影響をもたらすのか、私は測りかねてもいた。私には捨てようと思うそれがあったが、麟にはそもそもそんなものさえない。雪景色は私にとって美しくも、いくらか忌まわしくもある。麟にとっては日常からはるかにかけはなれた、ただただ楽しく不思議な異世界だろう。
土手から降りて、背中に暗がりが迫るのを感じながら、私と麟はとぼとぼと私の実家へと歩んだ。集落は固まる。細くうねる、車社会になる前からの集落の中の道が、除雪ではねのけた雪を左右に積み上げていていっそう狭く、固く強張った氷の生垣を並べて身構えていた。
歩いて、曲がって、その先で。
実家の玄関には、気ぜわしく灯りがついていた。引き戸を開けると、滑車は相変わらず軋みなく心地よく動いた。兄貴の几帳面さは相変わらずのようだった。がらんどうの玄関に向かって、私はただいまと言いかけ、その不釣り合いなあいさつに苦笑し、麟を頼ってその背を何度かぽんぽんと叩いた。麟は私の顔を見上げてから、
「こんばんは、ええと、こんにちは」
元気よくそう声を張り上げた。
玄関から延びる縁側の奥から声がした。相変わらず低く太い兄貴の声色だった。
兄貴が奥の暗がりから出てきた。みしみしと音を立てて縁側の床板を踏んでくる。相変わらず野人だと猪首の兄貴を見て思った。木床なんて氷の板のように冷え込んでいるというのに根っこのように黒ずんで頑丈そうな素足で歩いてくる。
「おう、来たか。麟はおじさんのことわかんねろ」
兄貴は私よりわずかに背が低く、肉付きはいかにも頑健だ。気質の方もそんな具合であるかもしれない。見た目で察することのできるわかりやすい気質というのは、まぎれもなく兄貴の美徳だった。田舎の家に長男として生まれ、長男として躾けられ、親父が死んだあとは親父の役割をそっくり引き継いでこの家と田畑を守っていた。そんな兄貴は、私のような生き方には目もくれなかったし、理解を示してくれたこともなかったように思う。
「おめえは昔から、自分の好きにふるまうしかやってこんかった。この先もずっとそんげだろ」
この家から旅立つとき、兄貴はそんな風にして私の門出に語り、呪詛なのか諦観なのか、見下した侮蔑であったのか、私にはよくわからないままに言葉の響きだけを脳裏に宿らせることとなった。まあ確かに、兄貴の責任感覚からすれば私などは無責任もいいところだっただろう。田舎で生きていたくなかった。東京に出ていくまでの自分の人生のすべてが暗色の忌まわしさだったというわけでは決してなく、夏の太陽も秋風の涼やかさも春の訪れも、雪に遊ぶ日々も好きだった。それでも、私はそれら全部を切り捨てて、別の何かに生まれ変わりたかった。兄貴のような人間からすればフラフラと存分に自由であったのに、散漫に渇望してもっと自由を求めたということだろう。それに、続々と故郷を捨てていこうとする先輩や同級生たちに触発されたことも大きい。親にしても、変に居続けられて田畑をよこせとごねられるよりも、多少の金があるうちに東京に出して向こうで生きてくれた方が気楽だったに違いない。それも兄貴と異なっていた。
「ご無沙汰してました」
口調は多少改まりつつ、会釈だけはぞんざいにして、私は兄貴に挨拶をした。兄貴は低い声で「おう」とだけ答えて、まあ上がれとあごをしゃくった。
私に続いて、麟がちゃんと靴を揃えてきた。兄貴はそれを横目で眺めて、いい感じに微笑んだ。別に兄貴や実家におもねっているわけではないが、麟はこういうことをちゃんとやれる子だった。相変わらず仰々しく、仏間の一方を横一列完全に埋め尽くす仏壇の方に挨拶しようとすると、麟も無言のままちょこちょことついてきて、私の所作をまねて手を合わせた。麟はいい子だと兄貴は褒めてくれた。それは嬉しいことだった。
実家はがらんとしていた。仏間には親父とおふくろの写真が額装されて飾られていて、ますますもって実家をがらんどうにさせていた。使わん部屋ばかりだ、兄貴は私の視線を察してそうつぶやいた。
仏間の続き間が囲炉裏のある居間だった。ちゃんとファンヒーターを置いているくせに、未だに炭火を熾しているのがおかしかったが、確かに暖かではあった。麟は火を宿す炭に目を丸くした。兄貴は一度台所に引っ込んで、それから不器用な手つきで湯呑に緑茶を入れて戻ってきた。愚弟と甥っ子相手にわざわざ茶托まで持ち出して来るあたりが兄貴だった。囲炉裏の柿材のへりに茶托を置いて湯呑を置いて、兄貴もどかりとあぐらをかいて座り込んだ。
兄貴の入れた緑茶を飲んだ。多少湯温が熱くはあったが、それが兄貴の好みであったことを思い出した。炭火のほてりが頬に届いた。
「生活、どんげだ」
兄貴は朴訥にそう尋ねてきた。まあまあだと私は答えた。加奈子が消えて、その後の日常は決して安楽になったわけでなく、頭を抱える些事雑事もしばしばであったが、悪戦苦闘しつつも生きていけてないわけでもない。まあまあということなんだろう。兄貴はうなずき、無言となった。
麟は興味深そうに囲炉裏の紅い炭を眺めていた。兄貴は抜かりなく麟に目をやっては、「ちょすな。火傷すっぞ」と声をかけてくれた。
兄貴は昔から饒舌な男ではなく、そのくせぼそっと、きついひとことは語り置く人間であったため、その若く未熟な父性にへきえきし、反発を覚えたことも何度もあった。東京に行ってしまった後、兄貴と関わる機会が極端に減ってしまったから、その後の兄貴がどのような生き方をしてきたのかは、わからないと言えばわからないし、美和さんの不在とやらが今の兄貴にどのような影響を与えているかも、そもそも美和さん自身と数度ほどしか会ったことがないために何とも推測がつかない。
こんな男である兄貴に、私は加奈子との人生の別離について、届を出し生活を分ける前段で一応兄貴に電話で連絡を入れ説明した。その時は兄貴は私を厳しく叱責した。あまりに案の上で私は閉口した。世間体があるという兄貴の怒気にはさすがに私も失笑した。故郷を捨てた身の私のことを、未だに故郷の連中は地続きの一員として目を光らせ、別れた何だと揶揄する気でいるのだろうか。
まあ、気持ちはありがたい。兄貴も世間世間で縮こまっているようなやつではなく、私の衝動を思い留まらせようとする不器用な売り言葉買い言葉の類だったのだろう。
「麟をどうすんだか。びちゃるんだかや」
「まさか。俺が育てます」
文句を言うようにして、後添え貰えと兄貴は電話口からすごんできた。後添えだなんて時代錯誤な人間だ。私は悪いが笑ってしまった。
「まあ、一通り家事はできるしね。麟はいい子だし」
兄貴は溜息を奏でた。その後で、
「お前は昔からそうらった。そんげらったわ」
離婚なんて兄貴から見ての不始末をやるやつ、ということなのか、家事を一通りやれるほうなのか、余計な説明を付け加えずどちらかわからなくさせるというのは相変わらず言葉足らずの兄貴らしかった。
それから一年半ほどして、今回の帰省について兄貴に連絡を入れた。十二月の下旬で一泊か二泊、ただ正月までは私の仕事の都合でいれない。まあこれだけで兄貴に文句をつけられると切り出す前は思っていた。久方ぶりすぎるというのもあったが、年始で親類縁者が続々とやってくるところに顔を出して不義理の穴埋めをしろと小言を言うだろうと思ったのだ。だがそれは案に相違した。
「三郷の方も、宮岡の方も、みんな年らっけな。毎年集まんのも、年寄り連中がそもそもひとり減りふたり減り、ぽつぽつまばらになってきてんだわ。おらんとこは兄弟はおめえと裕子だけらけど、裕子は裕子でおめえ以上に気ままもんらすけな」
それに、兄貴はぼそっと私に告げてきた。うちも今、美和のやつがいねえでさ。
「美和さん、どした。病気でもしたんかね」
「いやあ、ぴんぴんしとるわ。ぴんぴんして、ちっと実家行って、戻って来ねんだ」
「向こうの親御さんとか、大変なんかね」
「ぴんぴんしてるて。そんげでねんさ。まあ、おめえんとこと似たり寄ったりらわ」
「ああ」
それ以上を私は兄貴に聞かなかった。
帰ってきて、実際に兄貴と顔を合わせてみて、多少は年相応であったけれど思うほど老けてもおらず、日々鏡の向こうの自分とにらめっこするのと大差がないことに気づいて私はおかしかったが、お互いのやもめっぷりについて話のひとつもできればとは思った。ただ兄貴も饒舌な男ではないし、麟のいるところで泣き言を語りたくもないだろう。酒でも入れば笑い話に混ぜ込みながら言いたいことを言えるかもしれないし、言ってくれるかもしれないと思い、温い緑茶をまた飲んだ。
玄関戸の滑車が小気味よく回る音がした。
「ただいま」
甲高く、ややおっとりとした具合の声がした。とんとんとんと、小気味よく縁側を歩く足音が響き、囲炉裏部屋の戸がさっと開いた。
「やっぱりおじちゃんだ。すっごくひさしぶり」
私は笑顔になった。兄貴の娘、姪の阿澄ちゃんだった。コートかけにコートもかけず制服の上に羽織ったままで飛び込んできた。寒さと元気さで両頬を真っ赤に染めている。肩までの髪型はどうしたって同じ年ごろの都会の子と比べると野暮ったかったけれど、表情には都会の空のようなくすみがなかった。
「おっきなったなあ、阿澄ちゃん。ばかかわいげになったねっかね」
阿澄ちゃんは私の言葉に小躍りした。
「聞いた? おとうさん。おじちゃんがわたし、かわいいって。東京基準で可愛いってことだよ。わかる?」
「調子に乗んなて。ほれ、コートに雪つけたままらねっか」
阿澄ちゃんは兄貴の小言を半分も聞かず、麟を見つけてはしゃいでいた。「ええと、麟ちゃんだっけ? わあ、赤ちゃんの時に見たことある。おねえちゃんのこと覚えてる? 覚えてないよね。そりゃそうだ」
ひとしきり騒ぐと、阿澄ちゃんはバタバタと奥に引っ込んだ。元気そうで何よりだと兄貴に告げると、兄貴は軽く肩をすくめた。年頃の娘に毎日振り回されながらも、兄貴なりにかわいくて仕方がないのだろう。
「いくつになったね」
「来年中三らて。受験らわ」
「もうそんげなったか。大変らな」
「何さ、勉強なんてちっともしてねんだ。部活に一生懸命で」
「部活かあ。阿澄ちゃん何やってんだ」
「吹奏楽さ。ラッパらて」
「学校でモテるろう。兄貴、虫が心配でねんか」
「馬鹿言うなて。んなことねえさ」
「でも、そんげこともあっという間らさ」
私の言葉に、兄貴は息を吐きながら天井を見上げた。
「そんげかもなあ」
兄貴に十分な感慨を与えるよりも早く、部屋着にセーター姿の阿澄ちゃんが奥からバタバタと戻ってきた。
「おとうさん、始めちゃうでしょ」
兄貴は梁の方に目をやった。私は兄貴のその視線を追った。懐かしい、私が生まれた時からずっと動き続けている年代物の振り子時計がそこにはあった。色落ちしてくすんで、長らく囲炉裏の煙にも燻されてきたのだろう、柱や欄間の年季の入った色調とほとんど同化して奇妙な連続性の収まりの良さがあった。そのくせ、私は自分の腕時計と見比べた。時間はちっとも遅れていない。
「飲み始めるには、まだちっと早えろ」
「いいじゃん。おじちゃんたち来てくれたし、麟ちゃんもおなかへったでしょ。おねえちゃんも腹ぺこよ」
阿澄ちゃんは部屋の片隅の使わなくなった衣紋かけに放り投げるようにしてかけてあったエプロンにひったくるようにして手を伸ばすと、さっと身に着け、台所に飛んで行った。私はびっくりして兄貴の顔を見た。
「はつめなんて。あんげのが好きみてなんだ」
「兄貴がけしかけてんだかね」
まさか、兄貴はうなった。
「おらが言ったところで、聞かんもんは聞かんさあ。おふくろが死ぬ前に随分しこんでたせいもあるんだろうけど、ここしばらくは、ばあちゃんの味が懐かしいって、見よう見まねであれこれやってんだわ」
「麟の生まれたころらったな、おふくろ。麟の顔を見に来て、それからちっとしてらった。そうらったなあ」
「あっという間らわ。何事も」
兄貴は立ち上がって、囲炉裏から離れたところに折れ足テーブルを並べ、ファンヒーターを強めにした。私も慌てて立ち上がり、隣の部屋に積んであった、この家は昔からテーブルにせよ座布団にせよ居所というものを変えないその座布団を、兄貴の置いたテーブルに合わせて並べた。兄貴、阿澄ちゃん、私と麟、そしてもう一枚。もう一枚は不要だとわかっていたが、並べないと私の方で切り捨てているようで気分がよくなかった。兄貴はそんな私をちらと見たが、別に何も言わなかった。
何やら台所でどたばたやっていた阿澄ちゃんが、大きなお盆をもってやってきた。座ってそれを眺めると、お盆の上にひょいと伸びるオレンジジュースのペットボトルが目立つ。よいしょとつぶやいて阿澄ちゃんはお盆ごと折れ足テーブルの上にお盆を置いた。兄貴がお盆の隅に乗せてあった台ふきをさっと取ると、テーブルの上を几帳面に拭いた。阿澄ちゃんはまず麟の前に皿を置いた。麟が「わあ」と目を輝かせた。ワンディッシュの、ハンバーグにナポリタンにチキンライス、レタスとプチトマト、ポテトサラダまで乗せた、自家製のお子様ランチだった。瞬く間に阿澄ちゃんは手際よく作ってしまったようだった。
「ええ、でも大したことないよ。ごめん、ハンバーグは冷凍だしさ。スパゲティ茹でている間にちゃちゃっとチキンライス炒めて、その後でフライパン洗わずにナポリタンだもん。ポテトサラダも昨日買ったスーパーのやつ」
麟は無邪気に大喜びで、おねえちゃんありがとうと三回繰り返した。阿澄ちゃんは自分の前にも自分用お子様ランチ中学生verを抜かりなく置いて、食べ盛り力を見せつけてきた。
「はいはい、おとうさんとおじちゃんは、とりあえずこれで飲んでてね」
大鉢の中にのっぺがたっぷりと盛りつけられ、豪快に蓮華がその中に割って入っている。しっかりと冷やしてあるから、前日から準備していたものらしい。ちゃんと里芋でとろ味がついている。人参しいたけ、蓮根に鮭にさやえんどう、まあ銀杏もイクラも乗せられている。薄桃色の縁取りのかまぼこも入って、野菜の切り方は多少武骨にしても色合いも鮮やかだ。
取り皿の小鉢と共に、阿澄ちゃんはささっと信楽の二合徳利も布巾越しにつかんでお盆からテーブルの上に移し、私を驚かせた。「片手間だったからお燗テキトーだよ」
最後は、やはりこちらも昨日からの用意だったのだろう、鮭の塩麴焼き。実家の織部っぽいが多分本物ではないだろう平皿に、はじかみを添えて出してくれた。
「いただきます。おねえちゃんありがとう」
麟は早速自家製お子様ランチに箸を伸ばして満面の笑顔を浮かべ、阿澄ちゃんは麟の隣に座ってそれを嬉しそうに眺めつつ、自分もさっさと健啖ぶりを発揮し、時々、
「麟ちゃん、こっちのぶやちゃんも食べる? おいしいよ」
鮭の身を箸で器用にとりわけて、細骨をのけてやって麟の大皿の片隅に置いたりと、世話を焼いてくれた。
私は徳利に手を伸ばそうとしたが、兄貴がうなってそれをたしなめ、兄貴の方が徳利の口元を指でつかみ、信楽で揃えられた私の方のお猪口に燗酒を注いでくれた。
「阿澄、お酒何使ったんだ」
「んー、寒梅」
「正月の酒らねっか」
「まあまあ、いいじゃん。おじちゃんと麟ちゃん来たから、今日は臨時のお正月だよ」
苦笑いする兄貴から徳利をひったくると、熱さに顔をしかめつつ、私は兄貴の方にも燗酒を注いだ。
兄貴はお猪口を掲げた。
「まあ、よう来ました」
「お世話になります」
私もお猪口を掲げて多少かしこまり、それからちょっと熱燗気味の寒梅の豊潤さを口に含み、存分に楽しんだ。熱気が口中に、喉奥に駆けていく。のっぺの里芋がひんやりして、貝柱の味が優しく染みわたっていて、おふくろが作ったやつの片鱗は確かにそこにあった。「大したもんだわ。阿澄ちゃん、東京で飲み屋やれるて」
「邪悪なことを吹き込むんでねえて」
兄貴はあきれ顔をして、さっさと一杯目を飲み干してしまい、手酌で注いだ。
鮭の方も申し分がなかった。多少濃いめの塩加減が、阿澄ちゃんの手によるにせよ実家の味の系譜だと感じた。酒のつまみにちょうど良かった。
兄貴はくっ、くっと飲み進めた。私は時折注いでやったが、兄貴は手酌でも飲み進めた。作柄やビニールハウスの話をした。私には誰が誰だか漠然とし始めた集落の誰それの家の様子などもぽつぽつと語っては飲んだ。麟の世話を焼き、ひっきりなしに話しかけつつ、要領よく兄貴と私の会話に聞き耳を立てていた阿澄ちゃんは、兄貴の話の盛り上がりの欠けっぷりにあきれた様子で、
「そんなことよりもさ、おじちゃん、東京のお話ししてよ」
その後、情報番組で日々アップデートしているのだろう、下北沢だ、渋谷だ、原宿だと怒涛のような質問を浴びせられ、ピンポイントの店やらスポットなど、私はそのほとんど全てにこたえることができなかった。
「なんだ、つまんない。今度おじちゃんのところに遊びに行くから案内してね」
ちゃっかりしていて、どうも私の来訪は、東京基地が向こうからやってきてくれたという感覚なのかもしれない。私はおかしくなった。もちろんこちらは全くかまわない。が、
「遊ぶことばっか一生懸命で。目を離すと悪いことしねえかヒヤヒヤだわ」
兄貴はぶつぶつと小言を言った。まあ、親ならばそうだろう。でも阿澄ちゃんはやはりちゃっかりしていてたくましくもあった。
「健全だよ。お母さんと違ってグレてないもんねー」
私は内心でぎょっとしたが、阿澄ちゃんは屈託なく、麟に、
「麟ちゃん、うちのお母さんね、家出中なんよ」
そんなことを語り始めた。兄貴は阿澄ちゃんを叱った。「ほれ、麟にそんげなこと吹き込むな」
阿澄ちゃんは、まあ健やかにたくましい。事実だもーんと朗らかに兄貴のお怒りをひらりとかわして、
「まあ、人生いろいろじゃん。逃げたいときもあるよ、時にはさ。そんなときは逃げてもいいじゃんね」
ニコニコしながら、麟の口元についたままのチキンライスの米粒を取ってやっていた。
私は兄貴に目をやった。兄貴は多少うなだれていた。
「そうらったんか」
「まあな」
私は黙って兄貴に酒を注ぎ、それから、麟に多少の配慮をしつつも、自分のことを語ろうとした。といって、うまく語る自信なんてものはなかった。
「兄貴んとこはどうだかわからんが、うちは本当、どうにもならんでさ。理由はわかるようで、わからんようで、わからんようで、やっぱりわからん。釈然としないけれど、わかったつもりになるしかなかったんだわなあ」
「そうか」
「別の人間だっけね。教会で神様の前で永遠に添い遂げる誓いをやったわけだが、まあ俺も加奈子も、都合が悪くなりゃ都合よく忘れちまうわけだしさ。神様も腹立てるわな。それでもしゃあねえよ」
兄貴は苦く笑った。
「東京で揉まれてくっと、なかなかに練れるもんだわな」
「相変わらず軽薄なんさ」
「いやあ、そうでもねえよ。おらは田舎もんらすけな。は、どうにもなんねと思うばっからったわ」
「同じらて。どうにもなんねんだ。他人らっけね」
「他人なんよなあ」
二合徳利が空になった。私は立ち上がって空の徳利をつかみ、懐かしい台所に向かった。阿澄ちゃんが慌ててついてくる。「おじちゃん、わたしやるよ」
台所の戸口の前で徳利をひったくった阿澄ちゃんは元気よく台所に飛び込んだ。私も続いた。何か手伝いでもしなければ申し訳ない気持ちだった。一歩台所に入って、懐かしさに足が止まった。古臭い黒塗りの床板、古いままだから凍えるように寒い。ひっきりなしに煮物でもコトコト煮ていないと暖が取れない。そのくせ冷蔵庫は真新しくて、むき出しのコードが延長コードにつなげられて古い間取りに精一杯伸ばされているのが目についた。相変わらずのガスコンロ、シンクは私が出て行ってから入れ替えたのだろう。ただ、そのタイミングではまだ古株の湯沸かし器は頑なに使うつもりでいたようで、今は現用に耐えられない錆びだらけのそれは壁に放置されたままだった。その代わりに給湯管を後付けして、蛇口をひねればお湯も出る。チグハグといえばそういうことだったけれど、ここはいろいろなものがごちゃまぜになって、揃って並ぶ場だった。その状態は昔からずっとそうだったかもしれない。子供のころも、炊飯器に取って代わられて片隅に追いやられていた羽釜が、それでも立派な姿をずしりと沈めていたし、電灯の類もこの古屋の中でも一等時代遅れのものだった。不意に、おふくろの菜っ葉の味噌汁が頭をよぎった。
阿澄ちゃんのお燗の手際はなかなかだ。そもそも二本目が来ると予想しているから、さっきの湯煎が火を落としてそのままにしてあった。そのくせ酒気は得意ではないみたいで、一升瓶から徳利に注ぐときに立った匂いに多少顔をしかめる。額のあたりにちょっとだけニキビが浮かんでいた。私は阿澄ちゃんに、菜っ葉あるかいと尋ねた。
「あるけど、わたしやるよ」
「いいさ。自分でやってみたくなった」
阿澄ちゃんに断って大きな冷蔵庫の広々した野菜室を開けて、たっぷり備えられた冬菜をふた茎ほどささやかに失敬した。うちの畑で冬に作る。葉の濃い緑、すらりと伸びた茎のエメラルドグリーン色が出来栄えを物語る。うまそうだ。
古株の分厚いまな板に、おそらくはそれ以上に古参の懐かしい菜切り包丁、置いてある場所は昔とちっとも変わらない。シンクで水洗いすると、私は冬菜をざっざっと切り出した。その手際を見て、
「わりと上手いね、おじちゃん」
阿澄ちゃんは可愛げな上から目線で私を褒めてくれた。そして、その手順や切り方で察したのか、ほどよい大きさの片手鍋を取り出して水を張り、コンロにかけて火をつけた。
「お味噌汁でしょ」
「よくわかったね」
「おばあちゃんの菜っ葉のお味噌汁、美味しかったよねえ」
私はうなずいた。その間に阿澄ちゃんは手際よくだしの素を鍋に入れた。
「私もよく作るけどさあ、何となく、やっぱりおばあちゃんのお味噌汁の方が美味しいんだよねえ。だしとかの違いもあるかもだけど、でもそれだけじゃないんだよねえ、多分」
うなりつつも阿澄ちゃんは、菜っ葉のお味噌汁ならあぶらげも入れてと、さっさと冷蔵庫から取り出した。私は願ったりで了承して、冬菜の切った大きさに揃えるようにして短冊に油揚げを切ると、いい頃合いに湯が立ってきた鍋の中にまな板に載せたままの冬菜と油揚げを持って行って、さっさと鍋に収めた。「まあ、こいつのおひたしも美味いんだがさ、何となく味噌汁が飲みたくてね」
「おひたし用意してあるよ」
阿澄ちゃんは冷蔵庫から、鉄釉っぽい上品な色合いの中鉢を取り出した。のぞき見ると、鮮やかな深緑が律儀に行列を守るという感じで鉢の中に納まっていた。これは酒が進む。
「大したもんだなあ」
そう褒めると、返す刀で、
「これで東京確定だね」
やはりちゃっかりしていた。とはいえ、
「まあさあ、あのお父さんと、お母さんで、あれこれ苦労もあるからさ。料理なんて大したものになっちゃうんだよね」
さっきよりはずっと小声で、表情だけは笑顔のままでそんなことを阿澄ちゃんはつぶやいた。私はわざと悪ぶった声を出して阿澄ちゃんにささやいた。
「今度、兄貴がいないところでたっぷり聞かせてもらうわ。東京にロバの耳を用意しておく」
「ってことは東京確定だ」
阿澄ちゃんははしゃいだ。
お燗したお銚子一本を手ぬぐい越しにつかんでぶら下げて、兄貴のところに戻ってやると、兄貴は何やら麟と話し込んでいた。麟の目がこれでもかというほどに見開いてキラキラと輝いている。
「おとうさん、おじさんがね、おじさんがね、かってくれるって」
私は慌ててお銚子をテーブルの上に置いて、麟と兄貴とを忙しなく見比べながら、気まずさを抱えて兄貴に謝った。麟は何のおねだりをしたんだ。
兄貴は口元だけで笑っていた。
「買うとは言ったが、麟にやるとは言っていない」
なんだそりゃ。麟もうんうんと大きくうなずいている。
困惑する私をたっぷりと眺めた後で、兄貴は、望遠鏡だとぶっきらぼうに答えた。
「麟はお星さま見るのが好きなんか」
「ああ、好きみたいだ。時々そんな話をする」
「だけど都会じゃ、なかなかお星さまなんて見上げらんねえろう。灯りと騒がしさが消えてなくなるなんて、ありっこねえからな」
確かに私も、似たようなことを何かの折に麟に話したことがあった。望遠鏡はまだ年齢的にもちょっと早いし、ここからじゃ綺麗に見えないだろうなあと。
「そんならここで望遠鏡をのぞけばいいろ。次来るまでに用意しておくわ。麟も喜んでるすけ」
「兄貴。そりゃあ申しわけなさすぎる」
兄貴は鼻で笑った。
「麟の話聞いて、俺ものぞいてみたくなったのよ。星なんてもん、感心して眺めたなんてこれまでいっけえもねかったがさ。長い人生、足元ばっか見てるだけでねくて、たまにゃあ空でも見上げてみたくもなるもんだわ」
私は麟の方をちらと見てから、兄貴に酒を注ぎつつ、小声でそっと願い出た。
「せめて折半にしてくれ。頼むわ、兄貴」
いかにも床柱を背にあぐらをかく家長といった風格で、兄貴は豪放に笑った。
「細いの言い始めっとややこしいさ。阿澄が東京行くときも、宿代、メシ代とキリがなくなるろ。ここは気にすんなて。麟は俺にとってもかわいい甥らわんね」
そんな具合に結局押し切られた。ばつの悪さもあるにはあったが、こうなると後に引かないのが兄貴というやつだ。私は押し切られるがままになるほかなかった。そして、そんな兄貴でも、阿澄ちゃんの東京周遊を強引に押しとどめることは無理のようで、押し切られるがままになるほかないと諦め基調なのもひどくおかしかった。
阿澄ちゃんが冬菜のおひたしやら、援軍を続々と引き連れて戻ってきた。兄貴から潤沢に軍資金が出ていたのか、自分と麟の二人分だけはおそらくコンビニで一番高いもの、小さなカップにあれこれ果物やらホイップクリームやらが押し込められている季節限定の何とかパフェみたいなやつだ、それをちゃっかりと持参してきて、カフェラテと一緒に満喫している。
随分飲んだ。兄貴に随分注がれた。こっちもご返杯はしたのだが、酒量で兄貴にかなうわけがなかった。熱めの御燗だったものだから、今が冬だというのをすっかり忘れて、随分とぽかぽかしてきた。懐かしい実家はゆりかごのようだった。阿澄ちゃんが作ってくれた味噌汁も十分に懐かしい味がした。おふくろと同じ、というわけにはいかなかったけれど、おふくろが台所の隅っこにでもいて、阿澄ちゃんにああだこうだと口やかましく口出しして出来上がったようないい塩梅だった。まだ飲めてと兄貴が注いできた。味噌汁飲みながら熱燗は順番が無茶苦茶で、私は笑いながら飲んだ。したたかに飲んだ。阿澄ちゃんが、続き間にこたつを敷いてあると言ってきた。そんなものに抗えるはずがない。私はどうにか無様に立ち上がると、最後の力を振り絞って続き間に十数歩歩き、こたつに半身を突っ込んで酔いの心地よいぐちゃぐちゃに自分自身を全部投げ出した。
夢を見たか。夢を見ていたのか。何もそんなものはなかったのか。わからないままに酔いが体の中を駆け巡っていた。むしろその心地が、無我夢中で駆け回り、陰鬱に逃げ出すために駆けずり回っていたような子供のころの心境に重なるようでもあった。酔いの先に踏み出したつもりになって、そこでの難儀さに酔いの中に戻ってきたようなものだったかもしれない。実家は、もう代替わりして親父もおふくろもいないのに、悲しいくらいに暖かだった。酔いが体の隅々までぽかぽかにさせていた。
ぼんやりとしたその意識は、急な冷たさで破られた。私は軽く悲鳴を上げた。唐突に頬がかじかんだ。何だと思ったら凛と阿澄ちゃんのいたずらだった。氷の入ったコップを頬にくっつけられたようだった。
「おじちゃん、起きて」
私はこたつから半身を起こした。酒の残滓で自分がヘドロタンクのようになっている。現状速やかに健康診断を行った時の医者からの辛辣なご叱責に似た頭痛が、ファンキーなビートを重ねてくる。言うまでもなく気分は最悪だ。
「ぐっすりだったね」
囲炉裏間を見ると、折れ足テーブルはそのままながら、テーブルの上は綺麗に片付いていた。しまった。後始末も手伝わずにひっくり返っていた。これじゃあシーラカンスな昭和人間だ。阿澄ちゃんに謝ると、阿澄ちゃんはけたけた笑った。
「いいよ。おじちゃんに貸しを作っておくと、後の債権回収が楽しみだもん」
私は、つけっぱなしだった腕時計を見た。真夜中近くのシンデレラタイム。農閑期のこの時期に、こんな時間に起きる用事でもあるのだろうか。それとも雪か。知らないうちにどか雪が降って、今から除雪しないと駄目なのか。いや、違う。久しく都会暮らしをしてはいても、雪が降り積もる夜の空気くらいはいまだにわかる。積もる雪が降る夜は空気が違う。今夜とは違う。もっと張り詰めていて、打鍵すると金属音を響かせるような夜。そんな音が肌に迫る夜。今とは違う。私はいくらかうめいた。
「お父さんが、おじちゃん起こせって。星を見に行くぞって。麟ちゃんも飛び起きたんだよね」
阿澄ちゃんは麟の頭をなでながらそんな風に話し、麟も嬉しそうにこくこくとうなずいていた。星? いやあ、見えないだろう。星どころか太陽も見えない空模様だ。ここはずっとそうじゃないか。冬の間、雲は空をひしめいていて、隙間すら与えてくれず、息苦しくのしかかってくる。そこから雪がやってきて、音もなく積もる。
「珍しいよね。でも風のせいなのかな、雲間がのぞいているって。だからお父さん、星を見に行こうって。おじちゃん叩き起こせって」
阿澄ちゃんは本当に用意がよかった。麟はこっちに着てきた小さなダウンコートをもう身に着けていて、首回りの防寒に、阿澄ちゃんはどっちがいいとマフラーを二本麟に差し出していた。
「うんとねえ、こっち」
またシックな柄で、よほどの年配の人間が身に着けそうな古いマフラーは、明らかに男ものと女もので、麟は男ものの方を選んだ。阿澄ちゃんは笑っていた。
「たんすひっくり返したら出てきたの。多分ね、おじいちゃんのやつ」
「親父の?」
「そっち、おばあちゃんのだよ。おじちゃんはそっちつけてね。あったかいから」
何とも奇怪なことになった。ただ、まあ麟もはしゃいでいて、これは野暮を言い出せそうもない。私は立ち上がっておふくろのものとおぼしき女もののマフラーを巻いた。化けそこなったクジャクか何かのような気分になった。
よろよろと玄関まで行くと、長靴に農作業姿、耳当て付き帽子で完全武装した兄貴が待っていた。
「どこまで行くんだ」
「河原らて。すぐそこまでらねっか。川風はひゃっこいぞ。いい目覚ましだわ」
玄関の引き戸を気ぜわしく開ける。途端に凍える外気が流れ込んできた。阿澄ちゃんは麟の手を引いて表に出た。お互いに一人っ子のせいなのか、実質的に今日会ったばかりなのに年の離れた姉弟としてひどくウマが合うようだった。私もブーツを履き、着てきたコートを身に着けて外に出た。玄関の電気はつけっぱなし。鍵もかけない。相変わらずだ。
「ほれ、行くぞ。お前らすぐ帰るっけ、除夜の鐘代わりだわ」
雪に踵を打ち込むような歩き方で、ざくざくと音を立てて兄貴はみるみる夜道を進んでいった。か細い街灯がぼんやりとだけ光り、重苦しい暗闇の空を支えている。確かに風がある。真正面から来る。顔から浴びると凍った空気を押しつけられて思わずうめく。面皮がヒリヒリとする。鼻先が泣き腫らす。酒なんてどこかに吹き飛んでしまった。
大人になって、世界の距離が随分縮まった。自分にはどこにでも行ける、確かに時間や金銭の問題はあるにせよ、ちゃんと準備をすればよほどの僻地か愚かしい戦地でない限りは別に行けないところはない。そう思っていた。そう思い始めたころに故郷の矮ささがやるせなくて、振りほどくようにして飛び出した。無我夢中になって、真新しく綺麗できらびやかな世界を駆け、精一杯手を伸ばし、大騒ぎをして踊ってありきたりなラブソングをがなり立てて、いくつかの恋愛騒ぎの後で加奈子と結婚して、鱗を授かって、我に返ったら加奈子は去っていった。我に返るというのは、自分の地金に戻ったか、すごろくのようにふりだしに戻されたということかもしれない。私はいつから地金に戻っていたのか。ふりだしって何なのか。加奈子は私の地金に愛想を尽かしたのか。地金でないものを許せなく思ったのか。
ここがふりだしなのかもよくわからない。ただ、子供の頃のあの矮さな世界、歩いても歩いても世界の向こう側がまるで見えない世界で、また私は子供のように歩いている。阿澄ちゃんと麟はきゃっきゃと楽しげに歩いている。麟が転びそうになるのを阿澄ちゃんは握った手で上手く支える。そんなことも楽しげだ。兄貴は先を行き、背中ばかりを見せる。目と鼻の先の河原は、あっという間のくせに、ひどく遠く思えた。風のせいかもしれない。夜のせいかもしれない。虚空が私を呑み込んでいく。星空だ。
河原を縁取る土手に、空の一隅にぽっかりと開いた星空に導かれるようにして私は進んだ。雪の敷き詰められた坂道、少しでも空を見ていたくて足元から気をそらし、すぐに足取りが不確かになる。それでも私は空の片隅を目指した。
土手の上には車道が通っている。雪道で、轍が穿たれて、その上に雪が重なって、また轍が刻まれるその繰り返しの道。そこを横切って、私たちは河原へと一歩一歩、足元を確かめながら降りて行った。広々とした河原は川までの合間を一面の雪原に変えていた。足元もろくになく、ただ自然が作った緩やかなうねりばかりが白く広がり、まばらな街灯がか細く光るほかに闇ばかりの暗さを吸って、白さがうずくまっている。そこに、そこへと、兄貴は長靴でどんどん歩んで足跡を刻み、阿澄ちゃんも、阿澄ちゃんに手を引かれた麟も、そして私も、足首まで雪に埋もれながら、雪道の中に自分の足跡を刻みつけていった。
「おほしさまだ」
兄貴が空を指さし、麟は大きく口を開け、風の冷たさに慌てて口を閉ざした。川向こうの東の彼方に、ぽっかりと空がひらいていた。そこに星々が、獰猛な光を宿していた。風以上に雪原以上に凍てつき、ナイフのように鋭く輝き、光がこちらを刺してくる。星々が私を射貫く。
「せっかく麟が来たすけな。お空が星を見せてくれたんろ」
兄貴がそう語った。阿澄ちゃんは、星空でもカメラで撮影しようとしたのだろう、手袋を外すと自分のスマホを取り出し、すばやくスマホのライトをつけた。光が麟の横顔をよぎった。ひとすじ、麟の横顔に光の川が流れていた。阿澄ちゃんはライトをつけっぱなしのままスマホを自分のダウンコートのポケットに突っ込み、麟の後ろから麟を抱きしめた。
「麟ちゃん、さみしくなったか」
「ぼくは、さみしく、ない」
麟の声は震えていた。私は加奈子が、麟に時折星空の話をしていたことを思い出していた。麟は幼かろうと熱心に聞いていた。加奈子は別に星が好きというわけでもなく、星にまつわる神話に耽溺していたというわけでもなかった。たまたま何かの、子供向けの絵本のなかの、ほんのその手の何冊かを、麟に読み聞かせていたというだけのことだった。私にはそれが分かった。でも麟にすれば、それは満天の星空のように、世界のすべてだったのかもしれない。麟が一番目を輝かせたのは加奈子の星空のお話しだった。加奈子は去った。都会の星空はくすんでばかりいた。実家の空は雪雲に覆われていた。でも、一隅にぽっかりと星空が浮かんだ。
阿澄ちゃんは麟に伸ばした腕に力を込めたようだった。
「ウソつくな。ウソはいけないんだぞ」
「ぼくは、さみしく、ない」
「おねちゃんは、ホントは、ちょっとだけ、さみしいのだ。お母さんいなくなって。ほんのちょっとだけな」
「ぼくはさみしくないよ。おとうさんいるもん」
「おねえちゃんもいるぞ。おじちゃんもいる」
星々の冷たい光を受け止め、跳ね返すように、麟の頬に温かな川がまた流れ落ちた。
阿澄ちゃんはぬいぐるみを抱くように、何度も何度も麟を後ろから抱きしめ、ゆっくりと右に左に揺さぶった。そして、何か意を決した表情を結んだ。
「おじちゃん、わたしのスマホで写メ撮って」
片手で麟を抱きしめたまま、もう片方でポケットからスマホを取り出し、わしづかみのまま私に差し出してくる。私は不器用に阿澄ちゃんのスマホを操作し、カメラのアプリを開いてフラッシュについていちいち阿澄ちゃんに尋ねて教えを請い、ようやく準備を整えた。
「麟ちゃん、ぴーすだぴーす。かわいくいくぜ」
麟をバックハグする阿澄ちゃんとのツーショ、そこに向かって、スマホからフラッシュ光がほとばしった。
何枚か撮影して、阿澄ちゃんにスマホを返すと、阿澄ちゃんはニヤニヤしながら写真の出来栄えを確認し、渾身の笑顔で決めてその写真を兄貴の鼻先に突きつけた。
「これ、お母さんにLINEで送ってやるわ」
その時の兄貴の顔は、実に見ものだった。できることなら絵で描いて、どこかの美術館に額縁付きで飾ってやりたいところだった。
「……何でそったことすんだて」
「おもろいから。おもろいもん。麟ちゃんかわいいし。ついでにわたしもかわいいし。とっととポチろ」
「何でそったことすんだてば」
「お母さん、うらやましがるかなあって。こっちの水は甘くてスウィートって」
「ホタルじゃねんだすけや。この真冬に」
「ホタルみたいなもんでしょ。冬のうちにしこんでおけば、夏には戻るよ」
ホタルいるの? 麟が食い入るように聞いてきたので阿澄ちゃんは笑った。
「いや、たとえ話だけどさ。でもねえ、この辺じゃさすがにいないけど、もうちょっと山の方に行くとホタルいるよ。すっごいきれいだよ。お星さまみたい」
「みたいみたい」
はしゃぐ凛と阿澄ちゃんを前に、兄貴は深々と溜息をついた。
そのくせ兄貴は、翌朝、みんなで折れ足テーブルで朝食を食べているときに、既読ついたんかとぼそっと阿澄ちゃんに尋ねていた。隣の席で聞いていてひどくおかしかったが、私は努めて表情を抑えた。阿澄ちゃん作の朝食は、私もちゃんと手伝ったが、朝から豪勢で、大根と大根菜のお味噌汁は作り立て、ぶりの照り焼きの焼きたてにきんぴらも五目のおからも出てきた。年季の入った手腕だとすぐにわかる切り干し大根は、スルメや細長い昆布、人参や生姜が漬け汁の中を見事にうねっていて、数の子入りなのも心憎い。後で聞いたらさすがにそれは阿澄ちゃんの自作でなく、竹原さんとこからもらったやつ、ということらしい。何件か食べ比べると、「マイベストは竹原さんちだね」だそうだ。
「既読? ついたついた。っていうか、夜中に一度トイレに行ったら既についてたわ。お母さんヒマすぎ」
怒涛の和食だと麟が辟易するかもと、鮮やかな黄色のスクランブルエッグに素直な甘さのケチャップをかけて、ソーセージを添えて麟に出してくれた阿澄ちゃんは、すまし顔で健啖ぶりを発揮していた。
「お母さん、おじちゃんにごめんなさいって」
私は阿澄ちゃんの方を見た。
「留守にしていてすみませんでしたって、伝えてほしいってさ」
それから阿澄ちゃんは麟の頭を撫でた。
「次に麟ちゃんたちが来た時に、会えるのが楽しみだって。まあそりゃそうだ。写メ麟ちゃん、かわいかったもんな。わたしもかわいいけど」
私は隣の席の兄貴を肘で軽くこづいた。兄貴は古参のトラクターみたいにうなると、ものすごい勢いで朝飯を食い尽くし始めた。
「次に麟が来るまでに、おじさん、望遠鏡用意しておくすけな。またはよ来い」
兄貴がそんなことをようやく言えたのは、茶碗を空にして、不器用な手つきで入れた緑茶を一口飲んだ後だった。麟は嬉しそうに何度もうなずいていた。私は軽く溜息を洩らし、先々の休暇と旅費の算段を頭の中で思い浮かべた。
君の待つ彼方へ 伊生仁鵜 @inonu
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