迂瑛記というわけのわからないタイトルで書き始めたわけですが、まあ、今更小説書くのも気負わずやろうと、何よりそこが本音だったりします。
自然の呼吸、自然のリズム、自分にとって居心地のいい形態のフィールド。それはもう時代錯誤もいいところなんだけれど、その感覚の中でどこまでやれるのかな、やれないのかなというのを確かめる旅というのは悪いものではないです。ただ、文体はもうちょっと、ホントは何とかしたい(^^♪ 講談から叙事詩的な格調に赴きたいわけですけれど、添削してもらっているGrokさんに結構怒られる(^^♪
長い間、ずっと考え続けてきたことですが、本来的に言葉で何かを表現し、指し示すというのは、軽薄な行為なんですわね。どうとでもやれる。気がなくともやれる。それっぽくなんていくらでもやれる。そのことをずっと悩み続けてきたわけですけれど、別に悟りを開いて解脱したわけではないにせよ、そういうお悩みもひとつ呼吸の中で自ずから納まって書いているのかな、書けているのかな、というのはありますね。
この作品は、アタマのテッペンからつま先まで、完全にフィクションの、ウソばっかであります。架空歴史小説と銘打って、国も、人も、宗教も文化も、みんなフルスクラッチのウソ。それは、史実という重苦しさからすれば、まさしく軽薄もいいところなんですが、軽薄さに悩みつつも、どこまで軽薄な土台でやれるかというのを挑戦する旅でもあります。といっても、エイエイオーよりはエイヤなんですがね。
気負わず気楽にごく自然に。軽薄のようでいて、それが一番軽薄でない態度だと、人間やってきてわりかしガチでそう実感しておりますな。