海辺のコダマ
石野 章(坂月タユタ)
海辺のコダマ
黒いリュックサックひとつあれば、今の私にはもう十分だった。中に入っているのは、替えの下着とTシャツに、お気に入りのスカート。スマホの充電器とイヤホン、読みかけの文庫本、そして貯金箱の底をさらってかき集めた小銭の山。
そんな心許ない荷物を背負って、学校とは反対向きの電車へ飛び乗った。流れる景色を眺めるうちに、時間の感覚は影のようにどこかへと消えてしまって、何時間揺られてきたのか、自分でももうわからない。
たどり着いたのは、名前も知らない海の街だった。空を突き刺すようなビルは一つもなくて、家と家の間は、まるでケンカでもしたみたいに間隔が広い。
いいなあ。ここには、きっと受験も予備校もないんだろうな、と勝手に決めつける。
平日の昼下がりだからか、真夏だというのに観光客の姿は見当たらない。サンダルの足音すらしない。私は白いスニーカーのつま先を、これでもかと高く蹴り上げながら、浜へ向かって歩いた。まるで私の足跡を、世界に刻みつけるみたいに。
海を眺めていたら、声をかけられた。振り向くと、私より少し年上に見えるカップル。「写真、撮ってもらえますか?」と頼まれてスマホを構えたけれど、二人はこっちの存在なんて忘れたみたいに、楽しそうに笑い合っている。
ああ、私もきっと、海や灯台やそこらの防波堤と同じ背景の一部なんだろうな。ずっと誰かの写真の奥でぼやけている存在。ピントが合うことも、スポットライトが当たることもない。大学に受かったって、それはきっと変わらない。そんな気がした。
陽がだいぶ傾いてきたので、財布の中身を睨みながら宿を探す。選んだのは、看板の色あせた渋い民宿。帳場にいたおじさんに「家出か?」と言われ、私は黙って靴のつま先を見つめる。おじさんは「まあええわ」と肩をすくめ、「ごはんはサービスしといたる」とぶっきらぼうに付け加えた。
畳の上に敷かれた布団に体を沈めると、寂しさというやつは、天井の隅にひそむ小さな虫みたいに、じわじわと気配を濃くして降りてくるものなんだと知った。
思えば、たったひとりで寝るのはこれが初めてだ。家にはいつも家族がいたし、修学旅行や合宿の夜は、友達の寝息がそばにあった。
これは初めてのひとり旅……いや、家出。ひとりって、こんなに寂しいんだな。知っていたはずなのに、ちゃんとは知らなかった。
「ヒリゾ浜にでも行くか?」
朝ごはんをもそもそ食べていると、おじさんが私に声をかけた。何を言われたのかよく分からなかったけど、どうにでもなれと船に飛び乗る。おばさんが走り寄ってきて、梅干し入りのおにぎりを三つ、手ぬぐいに包んで持たせてくれた。船はすぐにエンジン音とともに揺れはじめ、潮風が顔を叩く。
しばらく波に揺られていると、ヒリゾ浜が視界に現れた。ガラス細工を溶かしたように透き通る青い海の下を、魚たちが煌めきながら泳いでいる。砂浜は光を抱え込んだまま白く輝き、岩肌は誰かが気まぐれで彫った彫刻みたいだ。浜全体が、夏にだけ現れる秘密の神殿みたいに見えた。
船が桟橋とも呼べない木の板にごつんとぶつかり、私はスニーカーを脱ぎ捨てて素足で浜に降り立った。船の上から見下ろしていたときよりも、ずっと立体的で、ずっと色の濃い世界が目の前に広がる。
波打ち際にはビー玉をばらまいたような小石がころころ転がり、陽射しを受けた水面の影がせわしなく踊っていた。おにぎりをひとつ手に取って、そのまましゃがみこむ。視界いっぱいに広がる青、耳いっぱいに押し寄せる波の音。ああ、この世界は私の気分とは無関係に今日も全力で美しいのだと、目の前に突きつけられた気がした。
心の奥が、ずっと沈めたままの
けれど今、陽の光を受けて煌めく水面をぼんやり見ていると、その事実がなぜか胸を締めつけなかった。私は背景で、主役は他の誰か。そのバランスで成り立つ景色が、こんなにも鮮やかで息をのむほど美しいなら、背景であることも、案外悪くないのかもしれない。そんな思いが、胸の底にすっと溶けていった。
風が髪を撫でていく。遠くでカモメの鳴き声が、驚くほど澄んだ声で響いた。私はひとりきりで、でもこの世界に確かにいる。それならそれで、生きていくのも悪くない。
おにぎりを最後のひと欠片まで噛みしめ、ごくりと飲み下す。私は砂を蹴り上げるみたいに立ち上がり、海へ向かって駆け出した。
私は、この世界でひとりしかいない。だったら、この広すぎる世界は、まるごと私のものなのだ。太陽に煌めく水面を見つめて、思い切り息を吸い込む。
「やっほー!」
声は風にさらわれて、どこまでも散っていった。もちろん返事なんてない。海はただ、大きな息をしているみたいに寄せては返すだけ。でもそれでよかった。
潮風が胸の中まで吹き抜けて、心の重さをさらっていったようだった。未来の地図なんてまだ白紙だし、主役になれなくたって、この景色の片隅にはちゃんと自分がいる。
生きていく理由なんて、それでいい。それで、十分すぎるくらいだ。
(了)
海辺のコダマ 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552
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