第十話:会計前の油断

あれから、五日が過ぎた。

亡霊は、もう現れなかった。

おれの部屋の隅に、あの悲しい目をした男が立つことも、街角の薄闇に、そのシルエットが浮かび上がることも、もうなかった。

あれは、やはり高熱が見せた、ただの悪夢だったのだろうか。

いや、違う。おれは、自分にそう言い聞かせながらも、心のどこかで分かっていた。あれは、ただの夢などではない。おれ自身の罪悪感が、おれに見せた、警告だ。

だが、その警告が何であったのか、今の自分には、もう分からなかった。ただ、あの亡霊の視線は、おれの心に、一つの奇妙な『変化』をもたらしていた。


恐怖が、麻痺したのだ。

あれ以上の恐怖など、この世には存在しない。そう思えるほどに、あの体験は鮮烈だった。組織の追手? 監視の目? そんなものは、あの絶対的な静寂と、悲しみに満ちた瞳に比べれば、まるで子供の遊びのように、ちっぽけなものに感じられた。

おれの心は、嵐が過ぎ去った後の、不気味な凪の状態にあった。

それは、平穏と呼ぶには、あまりにも脆く、そして危険なバランスの上に成り立っている、仮初めの日常だった。

おれは、その日常という名の薄氷の上を、壊れ物に触れるように、慎重に歩いていた。


その日も、おれは、工場での単調な労働を終え、帰り道にあるコンビニに立ち寄った。いつものパンと、水のペットボトル。そして、今日は、ほんの少しだけ贅沢をしてみようという気になった。棚に並んだ、百円のカップアイス。頑張っている自分への、ささやかな褒美。

そんな、ありふれた感傷が、おれの心に浮かぶこと自体、ここ最近では、ありえないことだった。

おれは、それらをカゴに入れ、レジへと向かった。


「……合計で、458円になります」

若い、気だるそうなアルバイトの店員が、感情のない声で言った。

おれは、ポケットから、くしゃくしゃの千円札を取り出した。そして、小銭入れを開き、小銭を探す。

その時だった。指先に、一枚の、硬いカードの感触が触れた。

大手コンビニチェーンの、ポイントカード。組織にいた頃、まだ、おれが、自分の名前で、当たり前に買い物をしていた頃に作ったものだ。すぐにでも、ハサミで切り刻んで、捨ててしまわなければならない類のものだ。


だが。

おれの指は、そのカードを、財布の奥から、ゆっくりと引きずり出した。


(……ポイント、いくら貯まってたかな……)

悪魔が、耳元で囁いた。

(たった一枚、カードを通すだけだ。誰がおれだと気づく? 危険など、何もない)


(やめろ)

心の中の、もう一人の自分が、叫んだ。

(それは、お前の『過去』そのものだぞ! それを、今、この場所で提示するだと? 正気か!)


ほんの数秒。だが、おれの頭の中では、天使と悪魔が、壮絶な綱引きを繰り広げていた。

そして、勝ったのは、いつだって、悪魔の方だった。

ほんの少しの、気の緩み。ほんの少しの、人間的な欲。


「……あ、ポイントカード、お願いします」

おれは、自分でも驚くほど、平然とした声で、そう言っていた。

店員は、面倒くさそうに、おれが差し出したカードを受け取ると、スキャナーに通した。


ピッ、という、電子音。


その、ありふれた、日常的な音が、おれの世界の終わりを告げる、断頭台の刃が落ちる音のように、聞こえた。

全てが、スローモーションになった。

店員の、無感動な顔。レジの液晶に表示される、ポイントの残高。背後で、立ち読みをしている学生の姿。蛍光灯の、白い光。周囲の音が、一瞬、完全に消えた。


(……おれは、今、何をした……?)

全身の血が、急速に引いていく。指先が、氷のように冷たくなっていく。

ポイントカード。このカードには、おれの『過去』が記録されている。

そして、今、この瞬間。『おれが、この日の、この時間に、この町の、このコンビニに、存在した』という、決定的な情報が、ネットワークを通じて、どこか巨大なサーバーへと送信されてしまったのだ。


誰のサーバーだ? コンビニチェーンの本社の?

違う。生易しいものではない。奴らだ。『組織』だ。

コンビニのPOSシステム。銀行のATM。交通機関の監視カメラ。全てが奴らの巨大な監視網の一部なのだ。知っていたはずなのに。

あの無機質な電子音は、おれの存在を知らせる、発信機(ビー-コン)のスイッチだったのだ。


今頃、奴らの拠点では、赤いランプが点滅し、警告音が鳴り響いているに違いない。

『対象ヲ、捕捉。位置情報、北関東、〇〇町、コンビニエンスストア……』

もう、猶予はない。数時間後、いや、数十分後には、この町に、奴らの『掃除屋』が、到着するだろう。


「……あの、お客さん? お会計……」

店員の、怪訝そうな声で、おれは、我に返った。

「……あ、ああ……」

おれは、震える手で、千円札をトレーの上に置いた。釣り銭と、レシートと、そして、忌まわしいポイントカードを受け取る。そのプラスチックの欠片が、今は、時限爆弾のように感じられた。

おれは、買ったばかりのパンも、水も、アイスも、全てをひったくるように掴むと、店を飛び出した。

「ありがとうございましたー」という、気の抜けた店員の声が、背中に突き刺さる。


外は、もう、すっかり夜の闇に包まれていた。だが、その闇は、もはや、おれの隠れ家ではなかった。

おれは、走った。

どこへ向かうという当てもない。ただ、ひたすらに、この場所から、一秒でも早く、離れなければならないという、動物的な本能だけが、おれを突き動かしていた。

安宿? あそこは、もう、処刑台でしかない。

荷物? 全て、捨てるしかない。過去も、現在も、そして、未来も。


おれは、走りながら、コンビニで買ったばかりの食料を、道端に投げ捨てた。そして、あのポイントカードを、アスファルトに叩きつけ、ブーツの踵で、粉々になるまで、何度も何度も踏みつけた。

だが、もう、遅いのだ。一度、発信されてしまった信号は、もう、取り消すことなどできない。

おれの人生は、たった数百円の買い物と、ほんの数ポイントの欲のために、完全に、終わってしまったのだ。


息が切れ、足がもつれ、おれは、町の外れにある、寂れた神社の境内に倒れ込んだ。

苔むした石灯籠の影。何も見ていない、狛犬の石の目。

冷たい雨が、降り始めていた。泥だらけの地面に突伏し、おれは、ただ、喘いだ。


(なぜ、あんなことを……)

自己嫌悪と、後悔の念が、胃液のように、喉の奥からせり上がってくる。

あの、ほんの数秒の、気の緩み。『大丈夫だろう』という、根拠のない、愚かな油断。それが、全てを台無しにした。


雨は、次第に、その勢いを増していく。それは、まるで、天が、おれの愚かさを嘲笑っているかのようだった。

おれは、もう、どこへも逃げられない。

だったら、もう、いっそのこと……。


おれは、ジャンパーの内ポケットに、手を伸ばした。

中には、あの、黒く歪んだ『鍵』が、まだ、入っていた。

そうだ。

まだ、だ。まだ、終わっていない。

おれは、これを、『返して』いない。

これさえ返せば、あるいは、この悪夢から、解放されるのかもしれない。

おれは、泥水の中で、震える手で、その鍵を握りしめた。それは、おれに残された、最後の、そして、唯一の希望だった。


おれは、ふらつきながら、立ち上がった。

雨が、全身を打ち付ける。体温が、容赦なく奪われていく。

だが、おれは、歩き出した。

どこへ? 分からない。

もう、安全な場所など、どこにもないのだから。

ただ、歩く。この足が、動かなくなるまで。この心臓が、鼓動を止めるまで。


おれは、闇の中へと、再び、一人、消えていった。

後に残されたのは、降りしきる雨の音と、泥に汚れたアスファルトに散らばる、プラスチックの欠片だけだった。砕かれたカードの表面に印刷された、おれの『過去の名前』が、雨水の中で静かに滲んでいた。

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後で返します。 そーえい @souei55

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