第九話:亡霊の視線
田中という男を拒絶してから、おれの世界からは、完全に『他者』が消えた。
工場でのおれは、もはや生きた人間ではなく、部品を仕分けるためだけにプログラムされた、一体の機械人形と化していた。誰も話しかけてこない。おれも、誰にも話しかけない。休憩時間も、昼食も、壁に向かって過ごす。
その徹底した孤立は、当初、おれに言いようのない安心感を与えていた。安全だ。完璧な壁の内側に、おれはいる。
だが、その壁の内側で、おれは、別の何かに蝕まれ始めていた。
静寂だ。
音という音が存在しない、絶対的な静寂。安宿の、がらんとした六畳間。布団に横たわっても、聞こえてくるのは、自分の心臓の音と、甲高い耳鳴りだけ。その静寂は、まるで濃硫酸のように、ゆっくりと、しかし確実に、おれの思考を溶かしていった。
夜、眠れなくなった。
目を閉じると、暗闇が、まるで生き物のように、おれに圧し掛かってくる。組織の連中の顔、炎の色、そして、田中という男の、あの悲しそうな顔。様々な記憶の断片が、順序も脈絡もなく、脳裏で明滅を繰り返す。
おれは、正しいことをしたはずだ。
生き延びるために、最善の選択をしたはずだ。
なのに、なぜ、こんなにも心がざわつく?
おれは、壁に向かって何度もそう問いかけた。だが、壁は、何も答えてはくれなかった。
最初の異変は、そんな夜の一つの、帰り道で起きた。
工場から安宿へ向かう、いつもの道。日が落ち、街灯が頼りなく灯り始める時間。おれは、いつものように、建物の影から影へと移るように、警戒しながら歩いていた。
ふと、道の向こう側、街灯の光が作る、淡い円の中に、誰かが立っているのに気づいた。
心臓が、跳ねた。
追手か?
おれは、咄嗟に電柱の影に身を隠し、息を殺して、その人影を観察した。
男だった。おれと同じくらいの、痩せた男。だが、様子がおかしい。彼は、誰かを待っているわけでも、スマートフォンをいじっているわけでもない。ただ、じっと、こちらの方角を見つめて、立っているだけなのだ。
奴らは、ついに、ここまで来たのか。あの田中という男が、おれの情報を売ったのか。
殺意と、恐怖。二つの相反する感情が、腹の底で渦を巻く。
だが、男は、近づいてくる気配がない。ただ、そこにいるだけ。まるで、風景の一部のように。
(……顔を、確認しないと)
おれは、ゆっくりと、電柱の影から顔を半分だけ出した。街灯の頼りない光が、男の横顔を、ぼんやりと照らし出している。
その顔を見た瞬間、おれは、呼吸を忘れた。
「……すずき……」
喉から、か細い声が漏れた。
間違いない。鈴木だ。おれが裏切り、組織に売り渡し、もうこの世にはいないはずの男。
なぜ、こんな場所に?
全身の血が、急速に凍りついていく。
罠だ。奴らが仕掛けた、最も悪質な罠だ。鈴木によく似た男を立たせ、おれの動揺を誘っている。
あるいは。
あるいは、これは、幻覚か? おれの罪悪感が、ついに、脳を狂わせ始めたのか?
どちらにせよ、関わってはいけない。
おれは、踵を返し、来た道とは別の、暗い路地裏へと駆け込んだ。一度も、振り返らなかった。背中に、あの男の視線が、氷の杭のように突き刺さっている気がして、ただ、ひたすらに走った。
安宿に転がり込み、ドアにバリケードを築く。布団を頭まで被り、嵐が過ぎ去るのを待つ、小さな虫のように、体を丸めた。
幻覚だ。そうだ、幻覚に決まっている。疲れているんだ、おれは。
だが、あの目は? 遠くて、はっきりとは見えなかった。だが、あの、どこか悲しみを湛えた、静かな瞳は。あれは、間違いなく、鈴木の目だった。
それから、数日が過ぎた。あの男が、再びおれの前に現れることはなかった。
決定的な出来事は、雨の降る夜に起きた。
その日、おれは、ひどい頭痛と吐き気に襲われ、工場を早退した。熱があるのかもしれない。降りしきる冷たい雨が、体力を容赦なく奪っていく。傘もなく、ずぶ濡れになりながら、おれは、安宿の自分の部屋にたどり着いた。
鍵を開け、ドアを開ける。
ひやりと、部屋の温度が数度下がったような錯覚。古い土蔵のような、カビと湿気の匂いが鼻をついた。
そして、おれは、部屋の真ん中に、それが立っているのを見た。
鈴木だった。
街灯の下で見た、あの時と同じ姿。だが、今は、もっと鮮明に、はっきりと見える。雨に濡れたように、その全身は黒く、床には、彼がいるはずの場所から、黒い水たまりのようなものが、じわりと広がっていた。
「……っ!」
声にならない悲鳴が、喉に張り付いた。後ずさり、ドアに背中がぶつかる。逃げなければ。
だが、足が、床に縫い付けられたように動かない。
幻覚だ。高熱が見せる、ただの悪夢だ。
おれは、何度も自分にそう言い聞かせた。だが、目の前にいる『それ』は、あまりに生々しく、圧倒的な存在感を放っていた。
そして、それは、ただ、おれを見ていた。
責めるでもなく、脅すでもない。その瞳には、おれへの憎しみも、怒りもなかった。ただ、深い、深い井戸の底のような、諦めだけが揺らめいていた。
(殺せよ)
おれは、心の中で叫んだ。
(おれを、殺しに来たんだろうが! だったら、早くやれよ! こんな風に、ただ立ってないで、おれの心臓を抉り出してみせろ!)
だが、亡霊は、何も答えない。何も、してこない。
おれの妄想の世界では、敵は、常に明確な殺意を持って、おれの命を狙ってくるはずだった。なのに、こいつは、なんだ?
この、何もしないという、絶対的な『無』は。
この、ただ悲しいという、暴力よりも雄弁な『視線』は。
おれの、完璧だったはずの妄想のロジックが、ガラガラと音を立てて崩れていく。こいつは、組織の追手じゃない。おれが今まで戦ってきた『敵』とは、全く質の違う、何かだ。
「……やめろ……」
おれは、懇願するように言った。
「やめてくれ。そんな目で見ないでくれ、鈴木……」
おれは、床にへたり込み、両手で顔を覆った。指の隙間から、それでも、亡霊の視線が、おれを貫いているのが分かった。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
やがて、おれが、恐る恐る顔を上げた時。部屋には、もう誰もいなかった。床に広がっていたはずの、黒い水たまりも、跡形もなく消えていた。
ただ、雨が窓ガラスを叩く音だけが、静寂の中で、響き渡っていた。
おれは、その場から、しばらく動くことができなかった。
今までの恐怖とは、全く違う。体の芯が、凍てついてしまったような、絶対的な恐怖。
おれが戦ってきた敵は、本当に、外の世界にいるのだろうか?
おれが、本当に逃げている相手は。
おれを、本当に殺そうとしているのは。
おれは、床に突っ伏したまま、子供のように、声を殺して泣いた。
助けてくれ、と。
誰に言うでもなく、そう呟いていた。
それは、おれが生まれて初めて口にした、本当の言葉だったのかもしれない。
答えは、なかった。
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