フライ・トゥ・ザ・ムーン

志乃原七海

第1話:あたしは大人びた子供で、あんたは子供みたいな大人だった。



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### **フライ・トゥ・ザ・ムーン**


**第一話**

地面の隙間から伸びる雑草みたいに、意味もなく、ただ生きている。

私の世界は、褪せたグレーのフィルターがかかっていた。教室の白い壁も、黒板の深い緑も、友達の楽しそうな笑い声さえも、全部がくすんで見える。だから学校には行かない。家にいたって、空気は冷蔵庫の中みたいに冷たいだけだ。


風見なぎ、14歳。それが、この身体を動かしている名前。

私は今日も、制服のスカートのポケットに押し込んだ煙草の箱の感触を確かめながら、錆びついたシャッターが歯抜けのように並ぶ商店街を歩いていた。目的はない。あるとすれば、この息苦しさから少しでも遠くへ行くこと。


ゲームセンターの裏、ゴミ収集所の隣が、私だけの指定席だった。ひっくり返されたビールケースに腰掛け、慣れた手つきで一本を取り出す。ライターの硬い感触。カシュ、という軽い音と共に揺らめいた炎を先端に押し当てると、乾いた葉の焼ける匂いが鼻をついた。

細く長い煙を吐き出す。肺に溜め込んだ灰色の憂鬱が、少しだけ外に出ていく気がした。空はどこまでも高く、白々しい。こんなことをしても世界は何も変わらない。分かっている。でも、何もしなければ、自分が自分でなくなってしまいそうだった。


その時だ。

時代錯誤な爆音が、私の静寂を切り裂いた。

バリバリバリ、と腹の底に響くような排気音。商店街の角から現れたのは、黒光りする古めかしいバイクだった。そして、それに跨る男。


(うわ、ダサ……)


思わず眉をひそめた。

黒い革ジャンに、色落ちしたジーンズ。髪はこれでもかと固められたリーゼント。漫画か、何十年も前のドラマから抜け出してきたような格好だった。バイクは私のすぐそばでキーッと甲高い音を立てて停まり、男はスタンドを蹴り立てて降り立った。


男は私をじっと見ている。サングラスはしていない。その目は、妙に力がこもっていて、無視するには圧が強すぎた。歳の頃は……高校生くらいだろうか。でも、目尻に刻まれた皺や、どこか疲れたような雰囲気が、やけに老けて見えた。


「おい、嬢ちゃん」


男が口を開いた。声も、見た目と同じくらい古臭い響きを持っていた。


「そんなとこで燻ってると、ロクな大人になれねえぜ」


どこかで聞いたことのある、陳腐なセリフ。私は鼻で笑って、また紫煙を吐き出した。関わるだけ無駄だ。こういう手合いは、適当に相槌を打ってやり過ごすに限る。


「……別に、なりたい大人なんていないんで」

「ほう。じゃあ、なりたいもんは何だ?」

「……」


質問に質問で返すな。心の中で毒づき、私は煙草の火を地面に押し付けた。男は私の隣にどかりと腰を下ろす。シンナーと、安い香水の匂いがした。


「俺はな、結城あきら。この街じゃ、ちょっとは名の知れたワルだ」


そう言って、あきらを名乗る男はニヤリと笑った。知らない。聞いたこともない。だいたい、今どき自分で自分のことを「ワル」なんて言う奴がいるだろうか。


「へえ」

「なんだその気のねえ返事は。夜の校舎の窓ガラス、叩き割って回ったこともあるんだぜ」

「……警察呼ばれなかったんですか?」

「そりゃあ、まあ……呼ばれたが、俺の拳が火を噴く前にな」


意味が分からない。私は早くこの場を立ち去りたかった。けれど、男の目は冗談を言っているようには見えなかった。その瞳の奥には、狂気と紙一重の純粋さみたいなものが宿っている気がした。馬鹿みたいにまっすぐで、だからこそ、少しだけ目が離せない。


「……あんた、いくつ?」

「俺か? 十七だ。ピッチピチのセブンティーンよ」


そう言って彼は胸を張った。とてもそうは見えない。二十歳をいくつか越えていると言われた方が、まだ信じられた。


沈黙が落ちる。私は新しい煙草に火を点けようとして、ライターがガス欠になっていることに気づいた。苛立って何度か親指でホイールを回していると、あきらがすっと手を差し出してきた。その手には、使い込まれたZippoがあった。重々しい金属音と共に蓋が開き、頼りがいのある炎が灯る。


「ほらよ」

「……どうも」


差し出された炎を借りる。一瞬だけ、彼と私の顔が近づいた。その時、彼の首筋に、小さなタトゥーが彫られているのが見えた。鳥の、翼のような模様。


「お前は?」

「……なにが」

「名前だよ」

「……なぎ」

「なぎ、か。いい名前じゃねえか」


彼はそう言って、満足そうに頷いた。そして、空を見上げる。私もつられて視線を上げた。薄汚れたビルの隙間から見える空には、昼間だというのに、頼りない白い月が浮かんでいた。


「なあ、なぎ」

あきらが呟く。

「こんなところで、終わっていいのかよ」


彼の言葉は、私の心のいちばん柔らかい場所を、不躾に抉った。

やめてよ。あんたなんかに、何が分かるっていうの。

言い返そうとしたけれど、言葉にならなかった。


あきらが立ち上がる。そして、黒い革ジャンの背中を私に向けた。そこには、金色の糸で『夜露死苦』と刺繍されていた。もう、笑う気力も起きなかった。


「行くぜ」


彼はバイクに跨ると、エンジンをかけた。再び、腹に響く爆音が空気を震わせる。


「どこへ?」


気づけば、私はそう問いかけていた。

あきらはヘルメットも被らず、振り向きざまに、太陽より眩しい笑顔でこう言った。


「決まってんだろ」


彼は、空に浮かぶ白い月を指差す。


「月だよ。俺と、フライ・トゥ・ザ・ムーンと洒落込もうぜ」


フライ・トゥ・ザ・ムーン。

意味不明な決めゼリフ。ダサくて、痛くて、どうしようもない男。

でも、なぜだろう。

彼の伸ばしたその手を、私は――。


(つづく)

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フライ・トゥ・ザ・ムーン 志乃原七海 @09093495732p

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