ある魔女のお話

遊月奈喩多

森には無限の眠りが横たわる

 溢れたミルクは、元には戻せません。

 溢した水も、同じかめには戻りません。

 それは無慈悲な、けれどもあまりにも堅牢なことわりで、覆すことも、ひるがえすこともできやしないのです。


 溢れた後にまた戻ることを、きっと水やミルクも望みやしないのです。

 仮に。

 そう、仮に溢れたものを元通りの見た目に戻せたとして、果たしてそれは本当に元通りなのでしょうか。


 溢しても平気な水を目にして、果たして私たちは元通りでいられるのでしょうか?


   * * * * * * *


 これは、奇跡も魔法もあった頃のお話。

 ある国に、善良な魔女がおりました。

 姓はドゥンケルヴァルト、名はアガーテ。そうですね、アガさんですね。亜麻色の髪を暗緑色の頭巾に包み、同じ色のケープを羽織った装いがどこか幻想的な、それはそれは美しい魔女だったと言います。

 魔法と見紛うような医療技術を有し、森の薬草からはどんな薬をも作ることのできたアガさんことアガーテ。彼女は豊富な知識で人々を助け、近隣の人々からは『森のアガさん』とたいへん親しまれていました。病人怪我人、時にはお産や弔事まで。人々は誰も彼もが彼女を頼り、彼女もまたそんな人々との交流を心から楽しんでいました。


 アガーテ自身も、子どもの頃に森の魔女と呼ばれる女性に助けられたことがありました。望まない相手と強引に婚姻を迫られ、心と身体に消えない傷を負ったとき。そのとき頼った森の魔女はその傷を癒し、心をも癒そうと懸命に向き合ってくれたのでした。今のアガーテがいるのは、きっとその魔女のお蔭なのです。

 だからアガーテも、たくさんの人々を癒しました。たくさんの人々を救いました。たくさんの人々に慕われました。たくさんの人々に愛されました。


 やがて、アガーテに恋をする少年も現れました。当時でいえば隠居してもおかしくない年齢でしたから、アガーテも最初は相談に乗りながらもっと近い年頃の相手を紹介しようとしていましたが、少年は真摯な目でアガーテを見つめます。熱烈な言葉で愛を囁きます。

 思えば、誰かに恋をする暇などなかったアガーテ。少年と過ごす日々のうちに、かつて彼女を救った魔女でさえ完全には癒しきれなかったアガーテの傷も、次第に癒えていくようでした。


 ふたりが結ばれたのは、恋の成就を祝福する眩い月明かりの降り注ぐ静かな夜でした。静かな夜でしたので、互いの息遣いや汗の落ちる音まではっきり聴こえてしまいそうなほど。後日そのことを知った近隣の人々もふたりを祝福し、末永い幸せを天の神様に祈ったのでした。

 それから時は流れ、アガーテは子どもを授かりました。立派な青年に成長した夫とふたり、どんな子どもが生まれるだろうか、どんな名前をつけようか、はたして父親似なのか母親似なのか、魔女の技術を継がせるのがよいか、どこかのギルドで手に職をつけさせるのがよいか……生まれたばかりの話からもう少し遠い将来の話まで、子どもについてたくさんの話をしました。ふたりは幸せのなかにあり、その幸せがまっすぐ自分たちの未来を包んでいることを疑わずに過ごしていました。


 そんなある日のことです。その日アガーテを訪ねてきたのは、黒いローブに身を包み、仮面モレッタで顔を隠した人物でした。仕事柄、人目を忍んでやって来る客人も珍しくなかったので、アガーテは何の疑問も持たずにその人物を家に招き入れました。身重なアガーテの代わりに家のドアを開けた夫は、そのまま何も言わずに斃れてしまいました。


「え……、」

 声を出す間もなく、黒いローブの人物はアガーテに襲いかかってきます。身体を強く押されて椅子から転げ落ちた拍子に頭が揺れ、視界も定まらない中で、自分を襲った相手が脚に座ってきたのを感じました。

 ふと目をやった先では、夫が頭から血を流して倒れています。微かに息をしているようでしたが、その呼吸はもはや虫の息、いつ途絶えてもおかしくないのは見てとれました。けれど頭の怪我に効く薬なら作り置きがあります。脚に乗っている相手が退いてくれたら、きっと彼の命を繋ぐこともできるでしょう。


「お願い、そこを退いて! 急いで治療しないと、きっと彼は死んでしまうわ!」

 アガーテは懇願しました。声の限り、心の限り。

 しかし、相手がアガーテの上から退くことはありません。それどころか、ああ、なんということでしょう。アガーテの懇願を嘲笑うように彼女の脚に更に体重をかけ、人を傷つけることを目的に削り研いだような木の棒を振り上げたのです。


「…………っ、やだ、やめて……やめて!」

 きっとアガーテが愚かだったのなら、もっと絶望は浅かったかも知れません。けれどアガーテには、その棒がどこに振り下ろされるのかわかってしまいました。

 必死に腕を伸ばして相手の手を止めようとしましたが、そんな抵抗は意味を成しませんでした。ローブの人物はアガーテの手指ごと叩きつけるように木の棒を振り下ろし、幸せな未来を宿していたはずのお腹へと勢いよく振り下ろしたのです。


 何度も、何度も、何度も、何度も。


 アガーテがどれだけ願っても、泣いても、叫んでも、ローブの人物がアガーテを殴るのは止まりませんでした。アガーテはもはや痛みを感じることもできず、ただ目の前で夫が微かな動きすらも止めてしまう光景と、頭が割れるほどの絶望感とが彼女の全てを包み込んで、彼女の世界はそのひとときによって暗闇へと変じてしまったのです。


 気付いたときには、もう何の音もしませんでした。いえ、遠くから誰かが叫びながら遠ざかっていく声が聞こえます。きっと自分たちを襲った人物の声でしょう。ずいぶん若い女の声に聞こえます。いったい何を叫んでいるというのでしょう。

 恐怖でしょうか、悔恨でしょうか、それとも歓喜でしょうか?


 そのどれもが、もはやアガーテにはどうでもよいものでした。もはや彼女の世界には事切れた夫、そして脚の間を流れる絶望を覚えるほど酷い出血の感覚しかありません。何故と問うことすら、もはやできませんでした。

 ただ月を見上げ、いっそ自分も明けない夜へと身を投じてしまいたいと願うばかり。動くこともせず、身じろぎすらしないで、アガーテはただ自らの最期を待ち望んでいました。


 チカラヲ求メヨ


 どれほど時間が経ったでしょう、声が聞こえました。地の底から響くような、低く禍々しい声です。


 チカラヲ求メヨ


 声は、相変わらずアガーテに呼びかけます。どのような存在が、何をもたらしてくれるというのでしょう。判然としない問いでしたが、何故だかアガーテには迷いはありませんでした。

 ただ水が山河から海へと流れるように、撃たれた鳥が空を墜ちるように、月が地平の彼方へ過ぎ去るように。


 ただ当たり前の反応のごとく、アガーテはその声に答えていました。


「わたしに、ちからを」


 どこかで低い嗤い声が、ひとつ。


   * * * * * * *


「どうして……?」


 アガーテは悲嘆に暮れながら、夫の亡骸を見下ろしています。その身体はまるで雷に打たれたように焼け焦げて、もはや夫と同一人物であるかどうかすら定かではありません。

 けれど、アガーテは次の瞬間、まるで少女が拗ねるように口を尖らせました。その表情は、とても愛する夫を喪った妻のものとは思えません。


「どうしてそんな酷いことを言うの? でも、えぇ、きっと何か誤解があったんだわ! そうに決まってる! 待っていてね、またすぐにヽヽヽヽヽ生き返らせてあげるから」

 そう微笑むや否や、夫の身体は元通りに復元していました。夫は動くようになった身体をすぐさま痙攣させて、喉を潰されたカエルのような声を上げながらアガーテから距離をとります。


「? どうしたの?」

「こ、殺さないで……もう嫌だ、嫌なんだ……」

 まるで精神が子どもに戻ったかのような仕草で首をかしげるアガーテに、夫は涙ながらに懇願しました。

 しかしアガーテは、その声に問いかけます。


「何を言っているの、あなたはこうして生きているでしょ? 安心して、あなたは殺してもヽヽヽヽヽヽヽヽ死なないわヽヽヽヽヽ。私とあなた、それから『この子』。こうして3人、ずっと幸せに、無限に、永遠に、楽しく、嬉しく、暮らしていけるの。もう何も怖くないわ」

「そんなの幸せじゃない! 昔の貴女はこんなじゃなかったのに! 何があったんだいったい!? 今の貴女はまるで魔も、」

「うるさい」


 アガーテが心臓を握り潰せば、夫はまた静かな眠りに就きます。その顔が苦悶や悲嘆に満ちているのには目も暮れず、「酷いお父さんね」と優しい声でお腹を擦るばかりです。

 それからまた優しく、寝起きの悪い子を揺り起こすような声音を発します。

「ほら、もう起きて。とっくに雄鶏おんどりは鳴いてしまったわ」

 次の瞬間には、また夫は目を覚まし、青ざめた顔でアガーテを見つめるのです。愛する夫を前に、彼女は優しく、可憐に笑います。


「もう、怖いことは何もないの。死が私たちを分かつことなんてないもの。世界が滅ぶまで、いいえ、世界が滅んでも。何もかもが朽ちてしまっても、きっと私たちは一緒よ」


 その笑顔は本当に幸せそうで、彼女たちの幸せは永遠に侵されえぬ無限のものであると心底信じているようでした。


 とうに魔法が滅び、魔法を信じる人も滅び、魔法を疑う人も滅び、科学、文明、産業、その他の全てが絶えた滅びの大地。

 灼熱にひび割れたその丘に、その魔女の家はまだあるそうです。

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