第四話

 四畳半の自室で佐伯涼はベッドに横になっていた。ゆっくりと寝返りをうち、目を閉じる。瞼の裏に焼き付いているのは、元相方・むつのりの心臓にボウガンの矢が突き立つ、あの瞬間だった。


 あれは、本当に爽快だった。


 脳裏で反芻するたび、腹の底から歓喜が込み上げてくる。あの傲慢な男が、一瞬にして物言わぬ肉塊と化したのだ。


 先ほど警察に呼び出された時はさすがに肝を冷やしたが、あの刑事たちの顔を見る限り、自分の仕掛けたトリックに気づいた様子もない。特に小川とかいう男は間抜けそうな顔だった。事件は不可能犯罪として迷宮入りだ。佐伯は口角を歪め、勝利のまどろみの中へと沈んでいった。


 ◆ ◆ ◆


「ン!(謎は、すべて解けました)」


 数日後、事件現場である事務所の一室に探偵の小川は関係者を集めて元気に告げた。その場にいたのは吉村をはじめとする刑事たち、事務所の社長、そして被害者の相方であった佐伯涼だ。


「ン!!(今回の事件には、大きく三つの謎が存在します。第一に、ドアの隙間からでは到底狙えない位置にいるむつのりさんを射殺した方法。第二に、暗闇の中で正確に心臓を射抜いた方法。そして第三に、なぜ被害者は『童貞を殺す服』を着せられていたのか――)」


「おい、待て」


 推理を遮るように手を挙げたのは吉村だった。


「『童貞を殺す服』の理由は怨恨による遺体への冒涜。それ以外にないだろう。犯人はむつのりを相当憎んでいたんだ」


 「わーい(ええ、その意図も少なからずあったでしょう)」と小川は頷く。


「ン!(ですが、それだけが理由ならもっと効果的なやり方がある。シャツを脱がせてから直接肌に着せた方がより強い侮辱になります。そうしなかったのには別のもっと重要な理由があったからです)」


 思わず声を荒らげそうになる吉村だが、とりあえず小川の推理を聞くことにする。


「フ!(犯人が彼にあの服を着せた本当の理由。それは、暗闇の中でむつのりさんの心臓を正確に射抜き、そして遺体を部屋の隅へと移動させるため。あのセーターはトリックを成立させるための『道具』だったのです)」


 小川の言葉に、室内にいた全員が息を呑んだ。


「ンショ(順を追って説明します。まず、犯人は事件当日の朝、むつのりさんを事務所に呼び出し、強力な睡眠薬で眠らせました。そして、キャスター付きの椅子に彼を座らせると、『童貞を殺す服』を着せたのです)」


 吉村は、むつのりの遺体から睡眠薬が検出されたことを思い出す。


「ン……(そのセーターは我々が目にした物とは大きく形状が異なっていました。両袖はポリエステル樹脂で固められ、内部にワイヤーを織り込んだものがそれぞれ十メートルほど長く伸びていたはずです。さらに、胸の大きく開いた部分には長い紐の付いた取り外し可能な布が接着剤で貼り付けられていました)」


 「何の話だ……」吉村の口から呆然と声が漏れる。だが小川は構わず続けた。


「フ!(犯人は、その長い袖をそれぞれ部屋の対角にあるパイプに通し、廊下側へと引き出します。そして胸に貼り付けた布の心臓にあたる部分に蛍光塗料で印を付け、その布に繋がった紐も同様に廊下へ。それらをドアの外で固定することで、むつのりさんの身体は椅子とともに部屋の中央で固定されることになります)」


「待て、待ってくれ。あまりに非現実的だ」


「ンン?(非現実的ですか? では、パイプに残っていたあの擦過痕はどう説明します? あれは樹脂で固められた硬い袖が擦れた跡。セーターの胸の縁にあった接着痕は蛍光塗料を塗った目印の布が貼られていた名残です。すべての証拠がこの仮説を裏付けています)」


 小川は一呼吸置き、最後の仕上げを語り始めた。


「フ!(犯人はドアチェーンに氷の塊を置き、部屋を出ます。十数時間後、外が暗くなり氷が完全に溶けきった時、チェーンは自重で落下し、密室が完成する。犯人はその時間を見計らい、ボウガンを携えて再び現場に戻ってきたのです)」


 小川の丸い瞳が佐伯を一瞬だけ捉えた。佐伯は腕を組み、鼻で笑うような表情を崩さない。


「ン!(チェーンで固く閉ざされた密室ですが、ドアにはわずかな隙間がある。犯人はそこからUVライトを差し込み、蛍光塗料の印を光らせた。あとは三脚でボウガンを固定し、狙いを定めるだけです。引き金を引く直前に胸の布に繋がった紐を強く引く。すると目印の布だけが剥がれ落ち、我々が発見したような胸の開いたセーターが完成します。そして……発射。矢は光る印、すなわち心臓へと吸い込まれていく)」


 なるほど、と吉村は膝を打った。それならば暗闇での正確な狙撃も可能だ。


「ン!!(殺害後の仕事も残っています。犯人はドアの隙間から片方の袖をゆっくりと引いていく。パイプを滑車代わりに利用することでテコの原理が働き、大柄なむつのりさんの身体もキャスター付きの椅子ごと部屋の隅へと移動させることができる。ドア枠に残っていた傷は、その際にできたものです)」


 小川は、最後に全員を見渡して言った。


「フ!(遺体を移動させたらあとは力任せに両袖を引きちぎり、外へ引き抜いて処分する。残されたセーターからは袖がなくなり、誰も元の形状を想像することはできない。これですべての謎が解けます)」


 沈黙が部屋を支配する。あまりに壮大で、異常的なトリックだった。


「はんにん……!(ここまで言えば、もうお分かりでしょう。体重が重いむつのりさんを移動させるだけの筋力を持ち、ライブの小道具作成で衣服の改造にも長けている。そんな人物は一人しかいない。――佐伯さん、犯人はあなたです)」


 小川が赤ちゃんのような人差し指を突きつける。しかし、佐伯はふてぶてしく笑った。


「いや、証拠がないだろ。今の話は全部あんたの想像だ。服の改造なんて誰でもできるし、機械を使えば力なんて関係ない。俺が犯人だと言うなら、動かぬ証拠を見せてもらおうか」


「フ!(証拠ならありますよ)」


 小川は高らかに言った。


「うん?(事件当夜のアリバイを聞いた時、あなたはこう答えましたね。『雪が酷かったので一日中、自宅のアパートで寝ていました』と)」


「ああ、言ったさ。それがどうした」


「ンショ(おや、それはおかしい)」


「ハレ!(あの日、雪が降っていたのは東京だけ。あなたの住む横浜では、天気予報に反して昼以降ずっと晴天ですが――)」


 佐伯の顔から、さっと血の気が引いていく。


「フ!(最初にあなたと会った時、すぐにおかしいと思いました。横浜から電車で二時間もかかるわけがない。もしかしたらこの人、あの夜は終電を逃して自宅に帰れなかったんじゃないかって)」


 佐伯は、もはや何も答えなかった。その顔からは余裕の笑みは消え失せ、かつて彼が憎み、殺した相方が最期に浮かべていたであろう、絶望の色が暗く広がっていた。


 ◆ ◆ ◆


 事件は解決した。佐伯は観念したようにすべてを自供した。


 動機は長年にわたる嫉妬と憎悪。むつのりがピン芸人として成功するために利用した「童貞あるある」ネタの多くは、コンビ時代に佐伯が考案したものだったという。それに加え、コンビ解消を一方的に告げられたことも原因だった。


 また、犯行に使われた袖も自宅から発見された。捨てようと思ったが、ワイヤーが織り込まれているため廃棄できなかったとのことだった。


 数日後、相澤は事務所で一人後片付けをしていた。むつのりの私物が入った段ボール箱はもうない。あれだけ熱狂していたファンたちも、今では手のひらを返したように彼を「自業自得のクズ芸人」と罵っている。


「……お疲れ様です」


 背後から声をかけられ、相澤が振り返ると、吉村刑事が立っていた。


「近くまで来たもんで。……大変でしたね」


 不器用な労いの言葉だった。二人の間に、気まずい沈黙が流れる。


「あの探偵……小川。とんでもない切れ者だが、どうにも好かんです」


 吉村が、吐き捨てるように言った。


「あいつは、ただパズルのピースをはめるように事実だけを並べていく。……だが、事件ってのはもっとドロドロした、人間の感情でできてるもんです」


 相澤は、何も答えられなかった。


 あの雪の夜から、世界は何も変わらないようでいて確実に何かが変わってしまった。


 虚構の記号が消え去ったあとには、あまりにも空虚で物悲しい現実だけが静かに横たわっていた。

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「童貞を殺す服」殺人事件 不悪院 @fac

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