第三話
童貞が「童貞を殺す服」を着せられて密室で殺されていたという怪事件。
警部補の吉村は、密室を構成するために使われた氷の溶ける時間と被害者の死亡推定時刻にズレがあることに気づいた。
すぐさま鑑識によって検証が行われ、氷でドアチェーンを掛けるトリックを使うためには、最短でも8時間かかるという結果が示された。
捜査は完全に行き詰まっていた。関係者への聞き込みでも有力な情報は得られない。そんな中、吉村のスマートフォンが鳴動した。上層部からの着信だった。
「……はい、吉村です。え? 小川を……? ……はい、承知しました」
苦虫を噛み潰したような顔で通話を終え、吉村は部下の銭形に捜査方針の変更を告げた。
「上からの指示だ。この件、小川に協力を仰ぐことになった」
「え、小川って……あの探偵の小川ですよね? またアレが絡むんすか」
銭形も露骨に嫌な顔をした。
小川。警視庁が極秘に契約する民間の探偵。捜査が行き詰まった難事件や迷宮入り寸前の事件に、最後の切り札として投入される男。その存在は、現場の刑事たちのプライドをいたく傷つけた。
吉村もこれまでに二度、彼と組んだことがある。その大人とは思えない幼稚な態度もさることながら、吉村が彼に嫌悪感を抱くのは、何よりその冴えすぎる頭脳に対してだった。あまりに人間離れしたその思考回路は、地道な捜査を信条とする吉村にとって一種の冒涜ですらあった。
「わ、ワァ……」
背後からの甲高い声に振り返ると、赤ちゃんのような幼い顔立ちをした小太り男が立っていた。この男こそが小川だった。
「小川か。……入れ」
吉村はできる限り平静を装い、彼を現場に招き入れた。小川は恐る恐る室内を見回し、「フ!」とだけ呟いた。
「捜査一課の吉村だ。事件の概要は聞いているな?」
「ンショ……(童貞芸人が『童貞を殺す服』を着せられ、ボウガンで殺された。発見時は密室。しかし、その密室は殺害前に作られた。問題は、ドアの隙間からでは射線が通らないはずの被害者を、暗闇の中でどうやって正確に射殺したか)」
既に事件の概要を完全に記憶している小川に吉村は苛立ちを覚えながらも、黙って後を追った。
「ン……?(この部屋、なんでこんなにパイプだらけなんですか?)」
しばらく部屋を観察していた小川が唐突に口を開いた。言われてみれば、壁の四隅や天井を大小様々なステンレス製のパイプが縦横に走っている。
「デザインだろ。水道管などをあえて剥き出しにするのが、今風のオシャレらしい」
「ン!」と呟き、小川は遺体が発見された部屋の隅に近づくと、壁を這う一番太いパイプを指差した。
「キズ……」
よく見ると、パイプの表面に何か硬いものが擦れたような、手のひらサイズの擦過痕が残されていた。
「この傷がどうした。移転作業中についたものかもしれんぞ」
吉村の言葉を無視し、小川はヨチヨチと部屋の対角線上にある隅へ移動し、同様にパイプを指差した。
「キズ……」
こちらにも同じような擦過痕がある。
そして最後に、小川はドア枠の下部を指差した。
「キズ……!」
そこには先の二つより深く、抉られたような痕が残っていた。
「おい、アンタ、いい加減に――」
意味不明な行動に業を煮やした銭形が声を荒らげた。小川はその声に驚いたのかビクッとし、しばらくオドオドしていたが、やがて手を挙げた。
「うーん……(被害者が着ていた『童貞を殺す服』を)」
不承不承、銭形が証拠品袋に入ったセーターを渡す。小川は袋の上から肩の部分を凝視し、「ほつれ……」と呟いた。確かに縫い目が無理やり引き裂かれたような跡がある。
次に彼は、胸の菱形の穴の縁を指でなぞり、「せっちゃ……(接着痕)」と言った。触ってみると、縁の部分が接着剤で固められたようにゴワゴワしている。
「フ?(ボウガンの矢は、この穴を通すように貫かれていたんですね?)」
意図の読めない確認に、吉村は頷くしかなかった。
「ンン……(ここのスタッフに、佐伯という人がいます。元々、むつのりさんとコンビを組んでいた)」
銭形が慌ててタブレットで関係者リストを確認する。確かに「佐伯涼」という名があった。半年前までお笑いコンビ「むつりょう」として活動していたが解散。その後、佐伯は事務所に残り、小道具作成などの裏方仕事をしているとある。
「ンショ!(その佐伯さんと、会わせてください)」
二時間後、呼び出しに応じた佐伯が横浜から到着した。小麦色に焼けた肌に筋骨隆々とした体躯。元相方とは反対の、体育会系の大男だった。
「むつの件は……本当に残念です」
佐伯は大きな体を小さく丸め、鼻をすすった。
「ンン?(単刀直入に伺いますが、事件当夜のアリバイは?)」
小川の問いに、佐伯はあっけらかんと答えた。
「昨日ですか? 雪が酷かったので一日中、自宅のアパートで寝てました。誰にも見られてません」
「うーん?(あなたとむつのりさんは、なぜコンビを解散したんですか?)」
「……円満解散ですよ。俺のツッコミより、あいつ一人の『童貞あるある』の方が時代に合ってた。だからピンでやった方が絶対に売れるって俺から言ったんです。恨むどころか、ずっと応援してました。なのに、こんな……」
佐伯の言葉は嗚咽に変わり、最後にはその巨体を震わせて泣き崩れた。
「わーっ(分かりました。ご協力、感謝します)」
小川はそれだけ聞くと、あっさりと佐伯を帰してしまった。
「おい、小川! これで何が分かったというんだ! まさか、今の話だけで謎が解けたとでも言うつもりか!?」
たまらず吉村が詰め寄る。だが、小川は吉村の予想に反し、何か美味しいものを見つけた時のように屈託なく微笑んだ。
「フ!(謎はもう解けていますよ。あとは、犯人を追い込むだけです)」
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