誰も見ていない世界の測り方
かんな@バーチャルJC
誰も見ていない世界の測り方
誰も見ていない筈の研究室で、彼女は理由もなく自分の存在の薄さを覚えた。
東北大学大学院・理学研究科のキャンパスは、秋空のもと、逢魔が時に満ちていた。
論文提出期限を示すスマートフォンのタイマーは残り二分を示していた。
男性とすれ違えば必ず振り向くであろう細くスラリとした体躯を、皺が多く付いた
彼女は自分の渾名が「マッド・サイエンティスト」と呼ばれていることに最近気付いた。自分がそう呼ばれる所以については皆目見当もつかない。だが、物理学者であるのに、このよれた白衣を着続けているというのが、理由かもしれないと薄々は感じ取っていた。
別段、怪しい研究や倫理を無視したことをやっている訳ではない。量子力学という、なかなか金のなる木にはなりにくい、予算がない研究に従事しているだけだ。
婚期を逃したまま三十半ばになっても、いまだ研究にしがみついているのは、確かに「マッド」と言えるだろう。
カーテンの隙間から差し込む夕陽の光が、卓上の紙の谷間を朱く照らし、ページの端が微かに染まる。
素子はそれを観測しているつもりでいる。
だが「観測する」という行為と「確かめる」という所作の間には、しぶとい距離が横たわっている──彼女はそうした距離をいつのまにか思考の枠組みに据えている。
東北大学からの依頼で、理化学研究所から出向になってから、早くも半年が経った。大学院生の若い頭脳と触れあえば、何かしらのヒントが得られるかも知れない、という儚い想いは、既に消え去ってしまった。
今の楽しみといえば、精々、異性に対し夢見がちな学生たちを眺めつつ、理想と現実の差を知らない無垢な意志を、歪んだ笑顔で見守ることだけだ。
ふと、理研時代の記憶が脳裏をよぎる。だがそれは、どこか他人が撮影した高精細な記録映像を眺めているような、奇妙な浮遊感を伴っていた。経験した事実はあるのに、その時の「温度」だけが欠落しているような感覚。 素子はその違和感を、秋の冷気のせいだと思い、頭から追い出した。
スマートフォンが短いメロディを奏で、タイマーがゼロを示して素子を急かす。
彼女は気だるそうに机に歩み寄り、卓上に置かれたスマートフォンを軽くタップした。
その刹那、僅かな目眩を覚えるが、朝食を摂らない彼女の悪癖が、軽い症状として現れてしまう。部屋の風景が、微かに入れ替わったようにも見えてしまう。
天井を見上げ、大きく深呼吸してから、自分の血の巡りの悪さに苦笑する。
「提出者はこれだけか。ちょっとテーマが、欲張り過ぎたのかねぇ?」
締め切り時間に間に合った論文は、たったの三冊だった。十数人の院生が居るにも関わらず、元々期待はしていなかったが、この結果には落胆せざるを得ない。
やはり自分にはまだ人に教えるというのは早すぎであり、まだ現役の研究者として生きる方が性に合うのだろうと再確認できただけだ。
彼女はカーテンの隙間から見える外の風景を眺めながら、すっかり冷えてしまった紅茶で唇を潤した。
二十代の頃には、いずれは論文が世界的に有名になり、こうして大学などで特別講義をし、若い学生に持て囃されることを夢見ていたが、自分が望んだ事とはいえ、なかなか日の目が出ないような研究分野に没頭してしまった。ある意味、夢は叶ったようなものだが、歴史の偉人に比べれば、些細な存在でしかない。
そんな他愛のない事を考えているうちに、いつの間にか時間が過ぎ去り、部屋の中の影も伸び切っている。
この大学への出向契約は一年間だが、理研本部に連絡して、元の研究部署に戻して貰おうかと考えた矢先、間借りしている個室のドアが開いた。
ノックもされぬままドアが勢いよく開き、院生である
素子は文句を言おうとしたが、夕方の紅味が彼の哀愁を表しているかのように見え、ひとまず相手の出方を待つことにした。
「院生の粕谷です! ギリギリセーフ、ですよね!?」
彼は冊子を差し出し、言葉を待たずに立っている。素子は時計の針だけを見て、眉をぴくりと動かす。提出期限は既に十分以上過ぎていた。
素子がゆっくりと首を横に振ると、彼はすぐに付け加える。提出は遅れたけれど、間に合わせた、と。その声には若さの震えがある。
彼女は口には出さず、「若いとはこういうことか」と独りごちるように考えてしまった。
ひとまず素子はその論文を受け取り、タイトルをしげしげと眺めた。
『虚数時間領域における巨視的観測の実在性に関する一考察』
タイトルだけは立派なものだが、元々自分がテーマとして出したものをそのまま文面化しただけだ。
続く目次も、まるでテンプレートのように成形されており、一応論文の体は成していた。
素子は習慣で、まず最初に概要の文体と、巻末の出典をなぞる。今では当たり前のように使われる、生成AIが吐き出す文章をチェックするためだ。生成AIの作文には特有の匂いがある。AIの利用自体は禁止していないが、単なるコピー&ペーストは禁止している。必ず自分で査読し、言葉を選んでいるかを評価の一つとしている。
その文章は、滑らかな整合、しかし筋道の薄さ、表層の正しさと内部の空洞──そして存在しない論文の引用。
紀一の論文はそれらに該当している。数式の参照は表面的に整い、議論の接合部に手応えがない。引用元が断片的で、推敲の跡には人間の痕が薄い。
「自分で査読するのに時間が掛かったんです!」紀一が言う。希望が言葉の端に貼りついていた。
素子は小さく吐いて椅子を引き、取り繕う素振りも見せずに腰を落とすと、彼の論文をやや投げるように机の上に放った。綴じが甘く、数枚が冊子からはみ出していた。
「残念ながら、誰が書いたか、じゃないんだよねぇ」
少し態度が悪かったと自省しつつ、素子は紙を冊子の中に納めながら言う。
口調はいつもの冷たさに重ね、少しだけ疲れとくどさが乗ってしまう。
「大切なのは君が理解しているか、それが他者に辿れる『跡』を残せるかだ」
やはり自分は教育者向きではないなと実感する。元々部下の扱いさえ上手くいってるとは感じていないのに、まだ飛び立つ前の雛鳥の面倒を見ることは、不得手なのだなと、言葉を紡ぎながらも感じた。
困惑もせず、怒りの表情もせず、ただただ無表情な素子の顔を直視できず、紀一は俯いてしまう。
「まだ、期限より一時間も経ってないのに……」
「まぁまぁ聞きたまえよ、少年くん。地質学や宇宙物理学では一億年が一瞬であり、量子物理学ではナノ秒が致命的な遅れとなる。キミが思ってるより、世界はシビアなんだよねぇ。一瞬でも私が冊子を手にした事を、感謝すべきだと思うんだが?」
紀一は上目使いで素子の顔を盗み見しつつ、小さな声で食い下がる。
「ここで単位落とすとマズいんですよ」
「おやおや、そうかい。しっかり履修し直して、リトライできるチャンスが得られた──そう考えるといいだろうさ」
音が聞こえるかと思う程に、紀一の肩はがっくりと落とされた。肩に掛けたままのボディバッグがずれ落ち、どさりと床と対面を果たした。
素子はその様子を見つつ立ち上がり、小さなホワイトボードへ向かった。
そして青いマーカーを手にして、小さく「観測問題」と書き記す。
書き終えると、彼女はその文字に手をかざすようにして、講義とは別種の問いを彼に向けてみせた。
「なぁに、私も鬼じゃぁない。巷で何と言われているかはさておき、飛び立つ鳥の羽を毟るようなことはしないのさ。量子の気まぐれな挙動を真似て、私もひとつチャンスを出しておこう」
彼女はそう言いながらマーカーの尾で、ホワイトボードの四文字を二回叩いた。
「講義では面倒なのであまり触れないが、院生で在籍していたらこの言葉は聞いたことがあるだろう?」
「えっと、量子の状態は観測することで確定し、観測されるまでは状態が不明な事、ですよね? シュレーディンガーの猫の話みたいに」
「よぉく文字を見たまえ。観測問題だぁよ。君の説明は単なる事象の記述に過ぎないんだね」
素子は再び椅子に座り直し、紅茶で喉を軽く潤してから、机の上で手を組んだ。
彼女は紀一の顔をマジマジと眺める。若くて精細で、生真面目さすら感じ取れる若者の顔だ。
この顔が、あと何年維持できるのだろうという純粋な疑問もあるが、この分野に居る限り、年月を重ねるにつれ、やつれていくだろうという予想は安易に立った。
「観測問題を口で説明できるかというのは難しいねぇ。観測とは何かというのは、単なる単語の羅列じゃなく、実際に物理世界と関わる所作なんだよね。何をもって観測とするか。この命題に関して、私に新たな知見を提示できれば、この単位を認めようじゃぁないか」
彼女自身、言い回しがクドいという自覚があったが、そのくどさは単なる癖ではなく、彼女なりの教え方の道具にもなっている。
元々の論文テーマの提示も難易度を高くしていたが、この提案はそれよりももっと悪辣であるという自覚はある。
だが、彼がこれに食いついて来るのであれば、その努力は認めようという、釈迦のような寛大さだ。
明確な成果ではなくとも、努力は何らかの形で報いがあってしかるべし、というのが素子の学習方針だ。答えのない分野の研究者だからこそ、この気持ちが強くある。
彼女の想いについては知らぬまま、紀一は必死に思考を巡らせていた。
教科書の断片、講義のスライド、ネットの議論、居酒屋の雑談、すべてを引き寄せて繋げようとする。最初は借用に過ぎなかった知識を、スマートフォンを駆使してつなぎ合わせる。
逢魔が時はとうに過ぎ去り、太陽光の供給は途絶え、部屋には人工のLEDライトの灯りだけになってしまった。彼が集中して観測しているのは、スマートフォンの灯りであり、外の世界については知ろうともしなかった。
素子はそんな彼の様子を根気よくじっと観察していた。特例ではあるが、こうした思考する事こそが、人の知識を強くさせるというのは間違いがないからだ。
「──例えば、素粒子同士、つまり重力子のように、弱くてもお互いに影響しあうことを、観測と定義する……と、いうのは……ありきたりですかね?」
自信なさげに紀一はようやく言葉にした。時計は既に素子の退勤時間を過ぎている。
「ほほぅ、なかなか面白いじゃぁないか。では、君がそれを観測と主張するなら、その『跡』を示してくれないかい? そう、跡というのはね、誰が見てもその変化が辿れることだよ。科学の基本だねぇ」
素子は単に理論の勝ち負けを彼に求めているわけではない。学びの痕跡、手触り、他者と交換可能な操作の存在を、時間の共有を確かめたいと考えている。
彼女は引き出しから古い小さな道具を取り出した。
ピンセット、ガス切れのライター、ダブルクリップ、古いUSBメモリ──そして、いつ購入したのか、あるいは誰から譲り受けたのか、記憶とは結びつかない、位相斑のような奇妙な模様が描かれたアルミのような小箱。
手に取ると、見た目の軽薄な印象に反し、指の皮が沈み込むほどに恐ろしい質量を感じさせる。それでいて、金属特有の冷たさも、体温が移る温かさも一切感じられない「無温度」の物体。
出所不明であるにも関わらず、素子はその箱を「自分の体の一部」であるかのように当然の物として認識していた。
道具を並べる所作には、物理学者の原初的な儀式性があった。理論は「行動する」という物理現象に落とし込まれてこそ実働する。
最後に置いたアルミ様の小箱を机に乗せた瞬間に、素子は再び目眩を感じる。どうにも食事を手抜きしてしまうのは、いい加減改めなければと思った。
視界の隅で、箱の表面が光に応じて微かに揺れている。
微かな空腹を誤魔化すように、素子は意識を学生へと戻し、ひとつ咳払いをしてから話を続ける。
「この道具たちはキミに観測され、今存在している。だが、机の中にあったこれらについては、私は存在を既に知っていた。だからこそここに出せたんだね。だが、これらが引き出しの中にあった事を、いつ、私は、観察したのだろう? そして、それについて、キミは答えを得ることができない。キミが私になることはできないからね。素粒子レベルでは、キミの言った影響し合うことを観測と定義するのも悪くないが、このクリップやライターのように、マクロな世界でも同じでなければ、物理学とは言い難いね。これについてはどう考えるんだい?」
素子は子どもに絵本を朗読するかのように、ゆっくりと喋る。言葉を区切る度に、彼の目を見つめた。彼は目線をあわせる事もあれば、素子の言葉を咀嚼しようと、視線を宙に浮かすこともある。
「ええと、魔法みたいに、願えば必ず形が収束する──とかは、駄目ですかね?」
「はっはっは! キミはミュージシャンにも成れるかもしれないねぇ。事実は小説より奇なりとは言うが、物理というのはもっと冷徹で過酷なんだよ。さ、探索を続けようじゃぁないか」
二人の議論は深まる。紀一が半ば問いかけのように意見を述べ、素子はそれを全て切り捨てていく。
コペンハーゲン解釈、多世界解釈、QBism、客観的収縮モデル——素子は一つ一つを取りあげ、その理屈が「観測」とどのように結びつくかを問い返す。彼女の問いは執拗で、くどく、同じ点に何度も戻って来る。
「観測という言葉はシンプルだが、人間の意識と思考に収まるようなサイズじゃないんだろうね。ほんとうにね。重力のように時間軸さえ歪んでしまうことさえあるかもしれないんだ。まぁ重力も量子のひとつ、と言えるかもしれないがね」
それでも紀一は必死にメモアプリを打ち込み、間に合わないと分かるとノートを取り出し、素子の言葉を書き貫いては自分の疑問を言葉として残した。
とんだ課外授業になったと彼女も感じていたが、わずかながら、将来有望な科学者になって、新たな知見を得て欲しいという望みもあった。
「光の速度もそうですけど、時間というのも一定なんじゃないんですか?」
俯きながらも上目使いで紀一は聞いた。それに対し、素子は体を横に向け、手に持ったペンを弄びながら呟くように答える。
「悪くない質問だね。時間というのも定義が難しくてね。厳密には違うが、国際単位では“秒”だけが定義され、それもセシウム133の振動数に基づくものだ。高重力下での時間の遅延、宇宙旅行のウラシマ効果などは実証されているが、人間の感覚として捉えるのは難儀な性質だねぇ。実際に人工衛星や、国際宇宙ステーションにいる飛行士とは、時間がズレている。彼らは時間を失ったのか? それともただ単に遅れているのか? これについてキミはどう考えるんだい?」
「……地上に居る僕らからは過去の人になり、彼らから見た僕らは未来人……で合ってます?」
「それも観測問題のひとつさ。相対性理論上では、キミの答えは一部正しい」
素子は椅子の向きを変えて、彼を正面に捉える。彼の表情はやや焦っているようにも見えた。
既に日が沈んでおり、研究室は僅かに薄暗い照明で照らされている。
ペンを机に置く時、素子の手の甲は少しだけアルミ箱に触れていた。再び目眩。倒れるほどの貧血ではないが、そろそろ何かを口にしないと不味いと思い、彼女はひとまずコーヒーで胃を宥めることにした。
「アインシュタインも悩ませた問題ではあるけど、自分には見えないが、他の観測者から見えるものは、実在するのか。それとも自分が観測できた段階で“生まれる”のか。自分も他人も観測できないものは、“最初から存在しないのか”? まるでデカルトの哲学論みたいな話になるんだねぇ」
ホットでもアイスでもない、注いだばかりの室温になってしまっている温いコーヒーを口にすると、かすかに胃が文句を言った。欲しいのは液体ではなく食事だと。
素子は音を誤魔化すように、足を強くこすり、腹の音をリノリウムと擦れた音と勘違いさせようと画策した。
当の紀一はそれどころではなく、早く単位を貰うことばかり気にしている。
「漫画みたいに、物理的に時間軸を操作することは不可能ですよね? 少なくとも冷凍保存とかで未来には行けても、過去には戻れないんじゃ?」
「現段階の科学ではそう言われてるね。だがそれもまだ、実証、さらには観測すらされてないので、断言できないんだよ。藤子不二雄の漫画も、当時の量子力学のこの問題を聞いて、SF作品として書いてるんだね。思ってるより、量子力学の歴史は一世紀以上あるんだよ。講義でも言ったがね」
「いえ? 初耳です」
「おや、そうかい」
自分では講義の度に量子力学の歴史にも触れていたつもりだが、どの講義や講演で、何を喋ったのかを細かく覚えてない。
この学生が聞き逃している場合もあるし、自分も確実に話したとは言えないので、話題を大本に戻した。
「キミが、『虚数時間領域における巨視的観測』なんてタイトルをつけるのが悪い。アプローチは面白いがね。“時間”、特に虚数時間というのは、キミが思っているよりもファンタジーに近いからね。少なくとも私を納得させる定義が出ないと、単位は与えられないよ」
既に時間も夕食を取るというには遅くなる時間になり、警備員が何度も巡回してきた。空腹の影響で頭の回転が鈍くなったのか、紀一の説明は自己所有へと変わってしまう。借り物の知識が彼自身の操作に変わる、その境界が見えてきてしまった。
だが結局、素子の判定は厳しく、努力の跡は認めつつ、しかし単位は与えられないと結論づけた。
理由は明瞭だ。彼のモデルは観測の独立性と再現性を完全に担保していない。だが彼は、理解の道筋のスタートラインにようやく立つ事ができた。
「残念だが時間切れだ。警備員をこれ以上困らせる訳にもいかないのでね」
紀一は短く「分かりました」と言い、肩を落としたまま無言で部屋を後にした。
ドアは静かに閉まる。
素子は自分も空腹を感じ、帰りのコンビニで何を買おうかと考えつつも、鞄に荷物をしまった。
机の上はそのままで残され、机上には彼の論文と小さなクリップ、USBだけが残っていた。
鞄を持ち、部屋を出ようとすると、素子は机上の配置に違和感を覚えた。
何かが欠けている。
観測者の目は、物体の一部を確定させる。だが人間の意識というものは、水面のように容易に揺らぐものだ。
彼女は自分の記憶と現物を比較して、微かなずれを認める。引き出しを開けると、そこには古い書類とライターだけ。記憶にはない「何か」の痕跡は在るが、そこに該当する物体は無い。
だが空腹を訴える胃の鳴き声に思考を邪魔されたので、彼女は深く溜息をついてから、部屋を後にした。
帰り道、素子は思考を巡らす。観測とは何か。確定とは何か。彼と議論した観測は教科書の記述としては整っている。だが現実の世界では、記録の移動、人の行為、時間の累積が観測の輪郭を揺らがせる。
* * *
翌日。JR仙石線の事故の影響か、学生や院生の姿はまばらであり、キャンパスにはわずかな哀愁を匂わせるような風が吹き付けていた。
素子は物理・化学合同実験棟の受付窓口で立ち尽くしていた。
受付スタッフを、彼女はわずかに眩暈を伴って眺めている。
「ええと……少なくとも今年度の記録には、該当する名前はありません。本当に関係者ですか?」
研究室の所在、所属の記録、登録名簿——そこに「物部素子」の名も、彼女の研究室の登録も、該当のフロアに研究室が存在した痕跡さえない。
素子は食い下がり、スタッフに過去の改修履歴を遡ってもらうが、該当区画は倉庫か、あるいは小会議室としてしか存在しなかった。
受付の古い地図の折り目に、微かに古い配置図の断片が貼られているのを素子は見たが、意識の中には入ってこなかった。
結局、誰も彼女の存在を知らない。受付スタッフたちは困惑し、素子に怪訝な目を一斉に向けていた。
素子は冷静を装う。だが彼女の内側で、何かが崩れるのを感じた。
少なくとも昨日は確かに自分はここに来ていた。
彼女は冷や汗を額に感じつつも、低い声でスタッフに要望を続ける。
「防犯カメラのチェックをお願いできますか? 私が入館したのは昨日の午後1時半あたりです」
防犯カメラの記録には、昨日、自分どころか紀一が研究室に入る映像が無かった。ドアの開閉センサーすら反応していない。
入退館の打刻も、彼女の名を記していない。誰も物部素子を観測していない、少なくとも公式の記録はそう示していた。
半ば思考がパニック状態になり、素子は暫く呆けるように立ち尽くしたが、スタッフの一人が警備部に連絡する姿を見て、足早に建物を出た。
外は幸い天気も良く、程よい風が吹いている。少し冷たさすら感じる風のお陰で、わずかばかりの冷静さを取り戻し、近くのベンチに腰を掛けた。
素子は顎に手を当てながら頭を働かせる。
観測は相互主観だ。共有されねば、存在は客観性を得られない。だが彼女は確かに論文を受け取り、議論をし、道具を並べ、学生との問答に時間を使った。
彼女は自分の行為の証左を曖昧に感じることに戸惑った。机上の痕跡は消え、記録は空白となり、昨日という小さな歴史のページから彼女の記載は消え去っている。
彼女の問いは哲学的な次元へ滑ってしまう。
もし誰もあなたを観測していなかったら、あなたは存在するのか。観測の連鎖が絶たれたとき、どの世界が残るのか。素子は自分が学問で扱ってきた抽象を、身体的な不在へと直面させられた。
彼女の内部に、大きな不安と同時に、稀有な明瞭さが芽生える。存在とは観測の結果であり、観測の連鎖を紡ぐのは他者の眼差しである──だが他者が存在しなければ、その連鎖は空疎な命題に帰着する。
紀一が研究室を訪れた日は、誰も彼の来訪を記録していない。彼の存在もまた、公式には検出されていない。
だが素子は確かに覚えている。彼の声、粗い作りの論文冊子、クリップの冷たさ、夜の議論。記憶の中の事象は明瞭で、触れられるように温度を持つ。だが外界は、その温度を承認していない。
素子は記憶との乖離を、鼻先に当てた指先で辿る。観測が確定しない世界では、記憶が最後の証拠となる。だが人の記憶は容易に揺らぐ。自分自身でさえも。
自分の存在と記憶が、誰かの観測に依存して成り立っていたとしたら──誰が、いつ、その観測を引き下ろしたのか。
素子は静かに息を吐き、自分に言い聞かせるように囁く。
「観測とは──か。結局、観測という言葉自体が、思っているほど堅固じゃないんだな、笑ってしまえるほどにね。人は自分を何かに反射させて自分自身を観測し、認識する。鏡を見て、人は初めて自分自身というものを見つけるんだ。そして、何度も何度もそれを繰り返し、自分という存在を確立する。だが他人にとっては──」
こうして危うい独り言のように喋っている自分の声も、しっかりと耳に届いている。
「違和感があるとすれば……そうだ! 机の上だ! マッチ箱ほどの大きさのアルミ箱を確かに私は引き出しから取り出した筈だ。それが帰り際に消えている……いや、落としただけだろうか? 記憶違いか?」
自分で言いながらも、段々と記憶が曖昧になっていく。自分の記憶の観測すら、未確定という闇の中に消えていくようで恐ろしかった。
「そもそも、あのアルミ箱はなぜ机の──」
彼女の独り言はそこで途絶え、誰にも観測されぬまま、ベンチは誰も座っていない状態に戻る。
* * *
翌朝。東北大学のキャンパスは雨に濡れていた。
外注業者のさらに下請けのアルバイトである女性が、素子の研究室だったこともある部屋を掃除に来る。
床に落ちた埃を拭い、棚の埃を払う。彼女は黙々と仕事をし、物部素子の存在については何も知らない。
いつものルーチンワークを無意識的に進めていくが、足先に小さなアルミのような塊が転がっている事に気づいた。
その塊は、元がどんな形であったかも分からぬほどに奇妙な形で歪められており、まるで中身がえぐり出されたかのような棘が突き出ている。
手で持つのが危なそうと感じた彼女は、ゴミ拾い用のトングで摘み上げる。思っていたより重いので、彼女は少し驚いたが、躊躇なく収集カーゴの中にそれを放った。
清掃員の女性が部屋を出て、鍵を閉める。
その刹那、部屋の中だけ時空が歪み、一瞬だけ素子が使っていた机と論文、そして四角いアルミ様の箱が現れ、陽炎となって四散する。
収集カーゴに放り込まれた塊はゴミに埋もれ、誰にも見られる事無く素粒子となって未来に消えた。──彼女が観測するその日まで。 そして観測するための「器」を失った彼女の意識もまた、霧散して消えた。
この二日の事象は、物部素子が実体として生まれる六年前の出来事だ。
誰も見ていない世界の測り方 かんな@バーチャルJC @kanna3939
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