第4話『祭壇と監視』



第四話『祭壇と監視』


高橋浩一にとって、日常は完全に変質した。

会社には「家族の緊急事態」とだけ告げて休みを取り、美奈子には「犯人からの次の指示を待たなければならない」と嘘をつき、一日中リビングのソファに座り続けた。

彼の世界は、今や手のひらの上のスマートフォンの中にしかない。

犯人からの連絡を待つ。課題を与えられ、それをクリアし、褒美として娘の新しい写真を手に入れる。その反復だけが、彼の生きる意味となっていた。


リビングの一角は、いつしか奇妙な「祭壇」と化していた。

警察に押収された写真集『序曲』の代わりに、犯人から送られてくる画像データを、浩一はコンビニで一枚一枚、L判の写真にプリントアウトしてきた。

何も身に着けずうずくまる姿。

壁にもたれかかる虚ろな表情。

そして、昨日手に入れた、男物のシャツを一枚だけ羽織った、扇情的な姿。

それらを、まるで家族写真のようにフォトフレームに入れ、サイドボードの上に並べていく。

「あなた……何をしているの……?」

美奈子が、怯えた声で尋ねた。

「祈っているんだ」

浩一は、振り返りもせずに答えた。

「咲希の無事を。こうして、あの子のことをずっと想っていれば、きっと犯人にもその気持ちが伝わるはずだ」

その言葉に嘘はなかった。ただ、彼の言う「想い」は、父親が娘に抱くそれとは、決定的に異なっていたが。

美奈子は、夫のその異様な行動に言いようのない恐怖を感じながらも、「娘を想う父親」という彼の言葉を信じるしかなかった。彼女の精神は、すでに正常な判断ができる状態ではなかった。


ピコン。

待ち望んでいた音が、スマートフォンから鳴った。

浩一の目が、ぎらりと光る。美奈子の前では見られないよう、彼はそっとメッセージを開いた。


『第二の課題だ』


心臓が、早鐘のように鳴る。

次に示されたのは、一枚の画像データだった。それは写真ではなく、とある銀行の口座番号と、名義人の名前だった。


『この口座に、10万円を振り込め。ただし、お前の名義で、だ』


浩一は、その指示に一瞬戸惑った。金銭要求か? だが、10万円という額は、身代金にしてはあまりに中途半端だ。

すぐに、犯人の本当の狙いに気づき、彼の背筋を悪寒と興奮が同時に駆け抜けた。

これは、罠だ。

警察が自分の身辺を嗅ぎ回っていることは、犯人も、そして浩一自身も気づいている。そんな状況で、自分の名義で指定された口座に金を振り込む。それは、警察に「俺は犯人と繋がっている」と、自ら知らせるような自殺行為に等しい。

犯人は、試しているのだ。

浩一が、警察よりも、自分(犯人)を選ぶかどうかを。

そして、この課題をクリアした先に待っている「褒美」は、きっとこれまでのものとは比べ物にならないほど、甘美なものに違いない。

浩一の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。

迷いは、なかった。


高橋家・アパート向かいの監視車両


「……対象(浩一)、動きます」

双眼鏡を覗いていた若い刑事が、潜めた声で報告する。宇内は、後部座席でモニターに映し出される映像を、冷たい目で見つめていた。

モニターには、帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠した浩一が、アパートから出てくる様子が映し出されていた。

「尾行を開始。絶対に気づかれるな」

宇内の指示が飛ぶ。

浩一は、周囲を警戒しながら、最寄りの銀行のATMへと向かった。その姿は、およそ被害者の父親には見えなかった。

「ATMに入りました。おそらく、金の動きがあります」

「振込先口座を、即時照会。金の流れを追え」


数分後、捜査本部から無線が入った。

『振込を確認! 額は10万円! 振込先は、ヤマグチタロウ名義の個人口座です!』

「その口座は?」

『…3年前に盗難届が出されている、偽造口座です。完全に、泳がされました』


車内に、重い沈黙が落ちる。

「……クソッ、奴め……!」

運転席の刑事が、悔しそうに呟いた。

だが、宇内は冷静だった。その表情は、まるでパズルのピースが一つハマったかのように、どこか満足げですらあった。

「いいえ。これで、確定しました」

「何がです?」

「高橋浩一は、もはや被害者ではない。彼は、自らの意思で、積極的に犯人に協力している。彼は、共犯者ですらない。ただの、飼い犬よ」


ATMから出てきた浩一は、再び周囲を警戒しながら、足早に自宅へと戻っていく。その足取りは、罪悪感に苛まれるものではなく、褒美を心待ちにする子供のように、どこか弾んでいた。

彼のスマートフォンが、ポケットの中で震えたのを、監視カメラは確かに捉えていた。


宇内は、車の窓から、アパートに消えていく浩一の背中を、静かに見つめていた。

「……ゲームは、まだ始まったばかり、か」

彼女は、誰に言うでもなく、そう呟いた。

舞台の上で踊らされているのは、父親だけではない。我々警察もまた、犯人の手のひらの上で、踊らされているのだ。

その事実が、宇内の闘争心に、静かな火をつけた。

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『観客席の獣』 志乃原七海 @09093495732p

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