第3話『最初の課題』



第三話『最初の課題』


『最初の課題だ。警察を、追い返せ』


その一文は、浩一の脳髄に直接打ち込まれた命令のようだった。目の前で必死に何かを訴えている山田刑事の声は、もはや意味のない雑音にしか聞こえない。

世界は、犯人と、自分と、そして囚われた娘・咲希の三人だけで構成されていた。警察は、その神聖な三角関係を乱す、邪魔な部外者でしかない。


「高橋さん! 聞いていますか! このままではお嬢さんの命が!」

山田の焦りが滲む声。

浩一はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはや先ほどまでの虚ろさはない。代わりに、冷たい決意と、どこか芝居がかった悲壮感が宿っていた。

「……刑事さん。もう、帰っていただけませんか」

「何を……!」

「これは、脅迫なんです」

浩一は、スマートフォンの画面を山田に向けた。ただし、メッセージの内容が見えないよう、絶妙な角度で。

「今、犯人から連絡があった。『警察に協力すれば、娘の命はない』と。だから……これ以上、あなた方に協力することはできない」

それは、あまりにもありきたりで、しかし、刑事にとっては最も拒否し難い嘘だった。美奈子が、その言葉にすがるように顔を上げる。

「あなた……本当なの……?」

「ああ。だから、今は俺たちだけで……」

浩一は、妻の肩を抱き寄せ、悲劇の夫を演じきった。山田は、その完璧な演技に、逆に確信を深めていた。

こいつは、嘘をついている。

犯人からの本当のメッセージは、脅迫などではない。もっと別の、悪魔的な何かだ。


「……分かりました」

山田は、悔しさに奥歯を噛み締めながら、一度引くことを決めた。これ以上ここにいても、彼の心をこじ開けることはできない。

「ですが、我々は諦めません。必ず、お嬢さんを救い出す。それだけは、覚えておいてください」

そう言い残し、山田は写真集を証拠品として確保すると、重い足取りで部屋を後にした。玄関のドアが閉まる音が、まるで浩一の勝利を告げるゴングのように響いた。


一人になったリビングで、浩一は安堵の息を吐いた。そして、スマートフォンに短いメッセージを打ち込む。


『追い返した』


すぐに返信があった。


『よくやった。褒美をやろう』


その言葉と共に送られてきたのは、一枚の写真だった。

それは、これまで見てきた、怯え、絶望する咲希の姿ではなかった。

薄暗い部屋の中、椅子に座らされた咲希が、カメラをまっすぐに見つめている。その表情は無感動で、まるで人形のようだ。

そして、彼女は、白いシャツを一枚だけ、羽織っていた。

ぶかぶかの、男物のシャツ。まるで、コトの後に、男が自分のシャツを女に着せてやったかのような、あまりにも扇情的な一枚。

肌の全てを晒している写真よりも、この一枚のシャツの方が、はるかに雄弁に、彼女の身に何が起きたかを物語っていた。


「あ……ぁ……」

浩一の喉から、声にならない声が漏れる。

それは、絶望の呻きではなかった。

歓喜の、喘ぎだった。

新しい咲希の姿。犯人と自分だけが共有できる、秘密のイメージ。

警察を追い返すという「課題」をクリアしたことで得られた、甘美な「褒美」。

浩一は、完全に理解した。

これは、ゲームなのだ。

犯人(ゲームマスター)が出す課題を、自分(プレイヤー)がクリアしていくことで、娘の新しい姿(報酬)が手に入る。

娘を救出するための戦いではない。娘をより深く「鑑賞」するための、倒錯したゲーム。


浩一は、その場に膝から崩れ落ちた。

しかし、それは絶望からではなかった。これから始まる、禁断のゲームへの期待と興奮に、膝が震えていたのだ。

彼は、もはや被害者の父親ではなかった。

犯人が作り上げたこの悪夢の舞台で、最も熱心で、最も忠実なプレイヤーになってしまったのだから。


高橋家・アパート前


車に戻った山田は、忌々しげにハンドルを殴りつけた。

「クソッ……!」

すぐに宇内へ無線を入れる。

『……こちら山田。高橋(夫)は、犯人から脅迫を受けたと主張。捜査協力の一切を拒否しました』

『……やはり、そうなりましたか』

無線の向こうで、宇内は冷静に呟いた。

『何か気になる点は?』

「ええ……」

山田は、先ほどの浩一の瞳を思い出しながら言った。

「奴の目……あれは、娘を心配する親の目じゃありません。もっとこう……獲物を前にした、飢えた獣の目に近かった」

『……了解しました。高橋浩一の通信履歴、及び金銭の流れを徹底的に洗ってください。それと』

宇内は、一度言葉を切った。

『彼に、気づかれないように、24時間体制の監視をつけてください。あの男は、必ずボロを出す』


その指示は、もはや被害者家族の保護を目的としたものではなかった。

共犯者と化した父親を、犯人へと至るための「餌」として利用する。

非情で、しかし、最も確実な捜査方針だった。

地獄の舞台は、第二幕へと移ろうとしていた。

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