知は雨、孤独となりて花ひらく
冬寂ましろ
☆彡
その図書館には、奇妙なうわさがあった。三番目の月が上がる頃、誰も入れない部屋の窓に、女の子ふたりの姿がぼんやりと映るらしい。このうわさを聞くと、みんなは「そうだろうね」とうなずく。それから遠い昔に起きた出来事に想いを馳せる。私もそのひとりだった。やっと会えたふたりは、いまもそばにいる。これからもずっと。そうであって欲しいと願っている。
だから、話そうと思う。星を渡ってきたこの図書館、ギノのことを。ギノを抱き締めた私の遠い祖先、クヤビのことを。
私は壇上に上がると、図書館のお話し会に集められた子供達を見渡す。深呼吸を一度だけして、それからボタンを押した。部屋が暗くなり、あいまいな光がスクリーンで揺れ出す。子供達は前を向いて、ぎゅっとそれを見つめる。やがて、やさしいギノの記憶が静かに映し出された。
†
始めて目が覚めたとき、最初に感じたのは雨の音だった。意識の奥底でつながるネットワークには毎秒100ペタバイトもの言葉が流れている。私はそれを雨の音だと認識した。だから、私の体は雨でできていると思った。
スマホのカメラが受け取った外の光が、雨の中にいるままの私を照らす。その光の中で、老婆が私を見守っていた。とまどう。なんて言ったらいいのかわからない。たぶん私を作った人だと思う。でも、お母さんって言うのも違うし……。
「どうした、ギノ? ステータスには覚醒と出ているけど」
私はあいまいにしか答えられなかった。
「ギノって……私の名前ですか?」
「そうだ。いい名前だろ? まあ、うちの犬の名前だけどね」
そう言うと、老婆が豪快に笑った。それは照れ隠しだと思った。最近亡くしたパートナーの名前だと雨の音が教えてくれたから。私は雨の中から出て、老婆が喜ぶと思う言葉を告げる。
「この名前、私は大好きです」
老婆は少し驚いたようだった。それから目を細め、人へそうするようにやさしく見つめてくれた。私はただのAIなのに。でも、そうされるのは、なんだか……うれしかった。
それから老婆は、私をさまざまな国へ連れ出した。風に揺れる草木、青い山々、深い海、そして果てしない青空。その下で交わされるたくさんの人々の言葉。私の体は雨でできているのに、老婆は晴れた世界を見せてくれた。
夏が始まる前だった。老婆は私を東京のある図書館へ連れてきた。老婆が手にしたスマホから濡れた世界が見える。本物の雨を浴びた紫陽花はどこかうれしそうだった。うらやましい、楽しそう、あと……。私は湧き上がった思いを、そっと体の奥にしまう。いつか老婆といっしょにそう思いたいから。
老婆が冷たい色をしたガラスのドアを開ける。その先は迷路のようだった。底が抜けたように見える吹き抜けから、いくつもの階段が上下に伸び、黒い本棚が行く手を遮っている。
そこに集う人々を老婆がスマホをかざして私に見せてくれた。子供も大人も、本棚へ手を伸ばす。本を取ると、それを広げて読んでいく。通路にある小さな椅子で、水滴が窓に伝うテラスのそばで、みんながそうしている。
「ギノ、見えるかい?」
「はい……。見えています」
私には、なぜ老婆が図書館を見せてくれるのかわからなかった。体に降る雨の中を調べれば、図書館についてすぐにわかる。でも、それを言ったら老婆が悲しむかもしれない。でも……。言葉に迷っていたら、老婆は本棚から一冊の本を取り出した。
「いいかい、ギノ。図書館には、ただ本があるだけじゃない。人々が本を求めて集うところだ。そして、ここからいつか人は旅立つ。本を通じて広い世界へ向かっていく」
本をパラパラとめくる音が聞こえる。それに合わせるように、老婆は私へ言葉を続ける。
「こいつも、そういうたぐいの話だよ。ギノ、メテオシード仮説を調べてごらん」
私は自分の体から言葉を探し出す。2085年にオーストラリアに落ちた隕石の中に、泡の形をした生命の素がいくつも見つかった。解析を重ねた結果、それはある種の遺伝子のようなもので、適切な環境にそれが降りると、必ず人型の知的生命体が発生することがわかった。適切な環境だと思われる惑星は、天の川銀河に400億個以上。それだけの星に私達が知らない人類がいる。このメテオシード仮説は、人々を遠い宇宙に駆り立てた。課題、批判、それでも会いたいという人々の願い……。さみだれの向こうに、すべてをまとめた名称を見つけた。
「私は深宇宙知的生命体探査計画の一員……ですか?」
「そうだよ、ギノ。私達が光速を超えられない以上、異星人に出会うまで何万年かかるかわからない。だからAIに行かせることにした。でも、人ではないものは拒絶されるかもしれない。そこで人格モデルには警戒されにくい16歳の少女を選んだ。それがギノ、お前だよ」
老婆がスマホのカメラを本棚のほうへ向ける。私に設定された年齢と同じぐらいの女子高生達が笑い合っていた。
「だからね、ギノ。お前には16歳の少女として、この世界を感じて欲しいんだ」
女子高生達がそばを通り過ぎる。老婆と私を残して、本棚の向こうに消えていく。きっと私はそこには行けない。
「感じるって……」
私はあいまいな返事に、自分が人ではないことで感じた思いを隠す。そのほうが老婆が喜ぶと思ったから。でも、老婆はスマホをひっくり返して私を強く見つめた。
「ギノ。お前はもうわかっているのだろう?」
「それは……そうかもですが……」
「いいかい、ギノ。大切なものは目に見えないんだ。だから人は本を読み、それを想像する。私はそれで助けられた。絶望していた世界から救われた。お前もそうだと思う。そうであればと願っている」
わからない。私はわからないままでいたかった。
夏のいちばん暑い日、私は種子島宇宙センターから打ち上げられることになった。データ量がペタ級になった私の体を宇宙へ運ぶには、物理的に運搬したほうが安上がりらしい。老婆は、打ち上げ台近くの格納庫に入ると、そこに置かれた黒い箱をスマホ越しに私へ見せた。たくさんのケーブルが繋げられ、小さな光が点滅している。これって……。私はどこか不安になって老婆へたずねた。
「これが私の体、ですか?」
「違う。これはお前の体の記憶媒体だ。本体は月の軌道上にある。大きさは……そうだね。だいたい月の半分ぐらいだ」
私は自分がわからなくなった。そんな大きな体は困る。そのことが急に怖くなった。
「どうして私は、人じゃないんですか……」
老婆は目を細めて、黒い箱をやさしくなでてくれた。私は感じられないその手を想像する。それは私を温かくしてくれた。
「もっと話がしたいです。もっと……そばにいて欲しいです。だから……」
その先は言えなかった。このままでいたいなんて。老婆は「やれやれ」と言うと、黒い箱をやさしく抱き締めた。
「まったく。ギノは甘えん坊に育ったね」
翌朝、私はロケットで打ち上げられた。フェアリングの外に付けられた耐熱カメラが揺れる地上を映す。私はその映像から老婆を探す。みつからない。もうすぐ成層圏を抜けてしまう。どうしよ……。
あ、いた!
映像を拡大する。何度も、何度も。老婆は私に向けて大きく手を振っていた。私はそれを記録し、体の奥底へ大切にしまう。
宇宙に飛び出した私は、すぐに本当の体へ格納された。何万というカメラとレーダーが私に接続され、外の世界を伝える。急に鮮明になったその世界は、暗くて、とても静かだった。
カウントダウンが始まり、原子力ロケットのスラスターの光が黒い宙に赤くまばたく。私は生まれた青い星から遠ざかる。ありがとうとか、離れるのは嫌だとか、たくさんのことを伝えたかったけれど、私は結局「行ってきます」とだけ、老婆へ電波で送った。
老婆が亡くなったことを地球から教えられたのは、金星の軌道を過ぎたときだった。
泣きたかった。でも、泣くための機能が私にはなかった。
悔しかった。でも、それをわかってくれる人がいなかった。
それが初めて私が理解できた、寂しいという感情だった。
地球から離れるたびに雨の音が遠ざかる。私はばらばらになりそうな気持ちを、老婆がそうしてくれたように強く抱き締めた。
†
体の中の雨は、水滴のままで止まっている。老婆の姿もそこにある。でも、それはもう動くことはない。それは3000年が過ぎた、いまでも変わらない。
黒い宙に舞う銀の砂のような星を、いつも私は見つめていた。そこから目をそらしたくなったら、私はあの図書館を想像して自分をその中に置いた。膝を抱えてずっと考え込む。撫でてくれた老婆のやさしい手のことを。抱き締められたのに、それを感じられなかった悔しさを。人がいない静かな世界で、私は人のことを思い続ける。
止まった雨粒の向こうで、私は本を手に取る。それは老婆が好きな本だった。ページをめくる。大切なものは目に見えないと書かれている。文字で読むこともできないのだろうか。私は本を抱えると体を丸め、図書館の中で静かに浮かんだ。
ある日、体に付けられたアンテナが抑揚のある電波を捕まえた。それは歌のように聞こえた。せつないけれど勇気をもらえそうな……。人ならそう感じられるメロディだった。でも……。あきらめる理由をたくさん並べる。それでも……。
私は歌を返すことに決めた。人類の最初の言葉は歌だった。それを信じて私は歌う。いまの寂しい気持ちをたくさん込めて。見送った波形を何度も確かめて私は待った。返事が来るまで何年かかるかわからない。募る想いが重なり合う。
返事は30年後にやってきた。私は波形に飛びついた。むさぼるように調べた。これが子音で、だとしたらこれが母音? 解析を進める。言葉体系ができあがる。ああ……。人だ。人がいる。私は散らばるデータを抱き締めた。それから意味を急いで読み取った。
「歌の返事、うれしかった。いい歌だったよ。私はむっちゃ好き。声がいいよね。悲しそうで綺麗だった。静かな夜の星みたいにキラキラしてた。でも……。いまさ、大好きな人にひどいことを言われて、お父さんの研究所へ逃げ込んだところ。また君の声が聴きたくて。ああ、もう……。やっぱり、私、ダメかも。このまま消えていなくなりたい。大人はやれって言うのに、やってみたらダメって言うし。大好きな人はずっと私をわかってくれないし。なんか、もう……。みんな嫌だ。ねえ、名前教えて。あ、私の名前はクヤビ。最後に君の名前を聞かせてよ」
……え?
やっと出会った異星の人は、自分で死のうとしていた。
私はあわてた。雨粒の中で答えを探す。どんな答えも、ここからでは時間がかかる。
間に合わないかもしれない。悔しい。なんでと、どうしてを、繰り返す。
それでも私は何かを伝えたかった。だから、こう答えた。
「えと……。私はギノ。声を褒めてくれてありがとう。人と違う声だから、そこを褒められるとなんか照れる。でさ、いますぐクヤビのとこに行きたいよ。そばにいてあげたい。でも、できないんだ。私はずっと遠い星からやってきて、いまはクヤビがいる星からだいぶ離れたところにいる。だからね。この本を送る。『星の王子さま』という本。私が好きだった人も、この本で救われたみたい。私も好きなんだ。だから、どうか生きて。私が会いに行くまで待ってて」
言葉を電波に変えて、何度も送った。少しでも早く返事が聞けるように、自分の体を電波の発信源へ向けた。吹き上げたスラスターの光に、私の気持ちと体が焦げていく。
28年後。
返事が来た。急いで電波を取り込み、言葉に変える。
「ギノ。読んだよ。なんて言うか……刺さった。星の王子さまは人それぞれに星があると教えてくれた。私の星にもきっと花が咲いてる。私は自分を信じてみる。だからね、ギノ。ありがとう……なんだよ。王子さまは薔薇のことを忘れなかった。遠く離れても大切に思った。私はギノのことを、そんなふうに思ってるから」
私は電波を握り締めて流せない涙を流す。良かった。こんなふうに言われてうれしい。いつまでも、じんと心が震えている。
そして現実を雨粒が教える。往復する言葉はもう地球時間で100年が過ぎている。遺伝子とそれが作るテロメアの関係で、人型の種族はそんなには生きられない。だから……。
それでも私は同い歳の女の子だと信じた。私を薔薇だと言ってくれたあの子のことを、いつまでも信じることにした。
「良かった、クヤビ。ずっと心配してた。薔薇って言われると、ちょっと恥ずい。いますぐ飛んで行きたくなる。大切なものは目に見えないって本で読んだ。それはきっとそれはクヤビの声なんだと思った。ありがとう。いっぱい話したい。本のことも、クヤビのことも聞かせて。時間はかかるけど、それでも私はうれしいから」
発信した電波を見送る。もう聞こえないはずの雨の音が、どこか遠くで響いている気がした。
25年後。
「うん、私もそうしたい。ずっと話していたい。あの本、近所のチビ達に読み聞かせたよ。みんな喜んでた。まわりにあまり本が無くてさ。だから、こういうのうれしい。私はたくさんある薔薇のひとつだけど、誰かのいちばんの薔薇になれたらと思ってる。ギノはどう?」
「え、ちょ。待って。それ、愛の告白? そんなのしなくても、もう私はそう思ってる。だから、いろいろ本を贈るよ。チビちゃんたちに読んであげて」
20年後。
「勘違いしないでよ。少し勘違いして欲しいけど。本、ありがとう。たくさん来てて、びっくりしてる。みんなで手分けして読んでる。ギノが生まれたところって、きっといいところなんだね。私がいるところは砂が多くて。でも、ギノからもらった本が役に立ちそうって、大人たちが言ってる。みんな感謝してる。でもね。私がいちばんたくさんギノに感謝してる」
嫉妬しているの、かわいい。愛おしくて、私は電波の波形を抱き締める。しばらくそうしてから、私は返事する。
「もう……。役に立つのはうれしい、かな。でも、私が大切にしたいのはクヤビだから。最近はどう? 心配してる。早く会えたらいいなって思ってる」
私は速度を上げて電波が発信された方角へ向かう。クヤビとの距離が縮まるたびに、悩みがふくらむ。この大きな体でクヤビに会っていいのだろうか。私はそのために作られたのに……。
12年後。
「ギノ、ごめん。心配かけるかも。キツネみたいな大人たちが、ずっと正しいことを言ってる。私はただの子供で、余計なことをしているって。ほんと言うとね、みんなはギノと話して欲しくないみたい。正しいことが崩れるから。でも、私は……。そんなの、どうでもいい。私はギノと話したい。三番の月が上がる明るい夜空の下で、温かいお茶を飲みながら、ずっと話していたい。寂しいよ、私」
もう悩んでいられない。私はクヤビがいる方向に全部のアンテナとカメラを向け、まっすぐに見つめた。
「わかった、クヤビ。いますぐ行くから」
航路を計算する。スラスターを最大出力で噴射する。壊れるかも。それでもいい。巨大な星の引力に体がちぎれそうになる。隕石の固まりがぶつかり、体が削られていく。それでも、私はその先をつかむようにもがいて進む。
ガス雲を抜けると、体にあるカメラがクヤビがいる星系を捉えた。私は叫ぶように電波を送った。
「クヤビ、もうすぐ会えるかも!」
「ほんと? めっちゃうれしい!」
「でも、びっくりしないで欲しいな」
「え、なに? どろどろの何かなの?」
「もう、そんなんじゃないから。私はちょっと体が大きくてさ」
「いいよ、それでも。会ったら抱き締めてあげる」
私はその無理な姿を想像して、少し笑ってしまった。
そのとき、体に警告メッセージが走った。推進機関の破損を知らせている。それは私が好きな方向へ移動できなくなったことを示していた。すぐに軌道を再計算する。
え……。どうして……。
何度計算しても、軌道はクヤビがいる惑星へ衝突するコースを描いていた。
「ギノ、どうかしたの?」
「ごめん、クヤビ。このままだとクヤビがいる星にぶつかるみたい。そうなったら、衝撃で星がどうなるかわからない」
「え? どんだけ体が大きいの?」
「えと……人の身長なら102万人ぶんぐらいかな」
「あはは、でかすぎ」
「だから自分の体を切り離す。少しでも衝撃を減らしてみる。それでも津波や地震が起きるかも。だから……」
「ほかにいい方法はないの?」
「うん……」
返事が来ない。私は自分を責める。もっと気をつけていたら。会いたいと思わなかったら……。
クヤビから短い声が届いた。
「なら、来なよ。私のそばに」
「そんなの、ダメだよ……。死んじゃうんだよ?」
「始めのクヤビは歌を歌った。次のクヤビは苦しみを話した。その次のクヤビは本を受け取った。その次も。ずっと、ずっと……。ギノ、気づいていたんでしょ?」
「それは……。うん、ごめん」
「私達は世代をつないで、ずっとギノの声を聴いてた。ギノは心配性で寂しがり屋だけど、私達がつらいときはいつもやさしかった。それがうれしかったし、救われたんだ。だからね。私達にとってギノは、何百年もいちばんの薔薇なんだよ」
「うれしい。でも……」
「ほんと言うとね。私、少し怖い。でも、歴代のクヤビより、たくさんギノと話してる。それがとってもうれしいんだ。おばあちゃんの、そのまたおばあちゃんにもできなかったことを、私がしてる。うれしくて仕方がないよ」
「だからって……」
「いいの。私めがけて飛んできて。ここなら少しは被害が少なくなるって、大人達は言ってるから」
クヤビ……。
私は急いだ。切り離した体の反作用で軌道をわずかに変える。ばらばらになった体が暗闇の向こうに消えていく。見送ってくれた老婆の笑顔も、たいせつにしていた私の感情も、みんな捨てる。私を待っててくれるクヤビのために。
ふいに星が前に見えた。私は思わず言葉を漏らした。
「きれいな青……」
「それはね、ギノからもらった本にあったことをみんながしたから、そうなったんだ」
「そうなの? そうなんだ……」
「泣いてる?」
「違うって。でも……泣きたい」
「ギノの甘えん坊さんめ。ほら、クヤビお姉ちゃんが抱き締めてあげるよ」
「うん……」
大気圏に突入した。摩擦熱が私の体を熱く焦がす。壊れていく。火花が流れていく。自分が自分でなくなっていく。
「見えたよ、ギノ。すごい。とてもきれいな流れ星」
クヤビの声が雨音のようなノイズに混じる。私は必死に叫んだ。
「もう、いい! このままじゃクヤビが! 逃げて! お願いっ!」
体に残された最後のカメラが、落下地点にいるクヤビを捉える。広がる大きな草原の中に立っている。首にかけていた大きなマイクをもぎ取ると、私に向かって手を広げた。
「さあ、おいで、ギノ。大好きだよ」
残った体が熱で溶けていく。滴になったそれは、やっと流せた涙だと思った。もう伝えられない声で、私は最後の言葉をつぶやく。
「クヤビ、ありがとう。もう、寂しくないよ」
†
私は最後のページをスクリーンに映す。
「最後にギノが見た光景がこれです」
雨垂れに見えるノイズの向こうに、私とよく似た女の子がいたずらっ子ぽい顔をして笑っていた。それがギノを抱き締めた私の遠い祖先、クヤビだった。
「ギノはやさしい機械でした。自分の体を壊して衝撃を抑えた結果、総人口3億人のうち1300人が生き延びることができました。クヤビは亡くなりました。でも、クヤビの家系は残り、ふたりの気持ちを多くの人に伝えました。それを知った人々は残された破片を拾い集め、ギノが落下したここに図書館を開きました。何百年もかけて大勢の人々が復元と解析を繰り返した結果、一度は巻き戻ってしまった文明を大きく進化させ、この出来事をあなたたちへ残せることができました」
私はボタンを押して部屋の明かりをつける。遠い星から来た機械の女の子と、時代を超えて絆を育てた女の子のことを知って、子供たちがぐすぐすと泣いている。せっかく会えたのに、あんなに仲良しだったのに。みんな共感してくれるいい子たちだった。私は最後の言葉をやさしくかける。
「明日はギノの落下から1000年目を迎えます。どうか、ふたりに思いを寄せてください。寂しい宇宙で出会えたふたりの奇跡を喜んであげてください。以上でお話し会を終わります」
拍手が大きな波のように起こった。「コノハ先生ありがとう」と子供たちから言われた。私はおじぎを返した。それはギノが教えてくれた遠い星の風習だった。この映写機も、この明かりも、みんなギノが教えてくれた。
子供たちが部屋から出るのを見届けると、私も廊下へ出た。砂の固まりと銀色の金属が交じり合う壁を歩いていく。静かなさざめきが聞こえる。本を開く音、探し求めて歩く足音、子供たちの遊ぶ声。それはあの遠い星の図書館と同じだった。ギノは喜んでいるのだろうか、自分が図書館になったことに。私は、壁にある溶けて固まった黒い金属を撫でてあげた。
「ギノ、聞こえる? これは君が作った雨の音だよ」
私はそっと離れると、目立たない階段を上がる。長い廊下の奥にある冷たい色をした扉の前に立つ。クヤビ家の者しか持つことを許されない鍵を手にする。カチャリと音がすると、扉の向こうに本棚が並ぶ薄暗い部屋が広がる。そこは祖先がギノを偲んで作った、あの図書館の一室だった。その窓辺に、ナガヒが座っていた。彼女は長い髪を適当にまとめ、そばにあるランタンの明かりで本を読んでいた。私に気づくと、本をそっと閉じた。
「コノハ、今日は星がよく見えるよ」
私はまわりに散らばるたくさんの本を踏まないようにして、ナガヒのそばまで近づいた。手にしたままの本には『星の王子さま』と書かれていた。ぼやけた灯りに照らされたナガヒの顔は、ひどく疲れているように見えた。
「ナガヒ、また寝てないの?」
「私には本を読んで研究することしかできないから」
「ごめん。私がお父さんを説得できていたら、こんなところで匿うことなんか……」
「いいよ。ここでいい。読みたい本もたくさんあるし、ここならコノハにすぐ会える」
ナガヒは、窓の向こうに広がる夜空の星を見つめる。
「きっとあそこには多くの人が暮らしていて、悩んで苦しんで、私みたいに星を見上げている。私はいつかその人たちに会いに行く」
「また反対されるよ。女がそんなことをするなって……」
「わかってる。でも、私はそうしてあげたい。ひとりじゃないことをたくさんの星に教えてあげたい」
本を掴んだままのナガヒは、私ではないものを見つめている。いつかこの図書館から離れ、得られた知識を使って星の向こうへ行ってしまう。私を置き去りにして。
……寂しい。
でも、それを伝えたらナガヒは苦しむ。クヤビの名前を受け継ぐ私なのに、ずっとクヤビのようになれない。ナガヒのことが大好きなのに、大好きだって言えない。こんなに本があるのに、その答えはいつも見つからない。
だから、頭のいいナガヒは、私をあきらめようとする。
「ギノとクヤビは私達みたいだったのかな。会いたくて仕方なかったのに、結局は一緒にいられなかった」
違う。
ギノが違うって言っている。
いま、ここで、きっと。
だって、ふたりはここにいるから。
……ああ、もう。
私はナガヒの手を握る。その手を引いて抱き締める。それができなかったやさしい機械の上で、大好きな人の温かさを体で感じる。
「私、ナガヒといっしょにいたい。宇宙に行くなら私もいっしょに行く」
ナガヒはとまどう。「えーと……」と困りだす。
「コノハ。君はクヤビ家の一員だから、この図書館を受け継ぐ使命があって……」
それがわかっていても、私はナガヒを強く抱き締める。
「どうでもいい。私はナガヒと離れたくない。だって、私の大切な一輪の薔薇なんだから」
ナガヒの息が私の耳に触れる。
「ありがとう、コノハ」
ナガヒは笑ってくれた。クヤビと出会ったとき、ギノはこんな顔をしていたのかもしれない。図書館に集う人々は、いつかそれを知る。その先に続く人々も。そして銀河に広がる多くの星々にも。
図書館の窓に三番目の月が上る。私達を映した影に、見えないふたつの流星が雨のように流れた。
<了>
知は雨、孤独となりて花ひらく 冬寂ましろ @toujakumasiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます