第9話 終章「白い手袋と二つの弁当」

 式場の朝は、掃き終えた廊下みたいに静かだった。

 入口の机で、受付の女性が弔電の束をトンと揃え、ふたをカチと閉める。

 遺影の角がわずかに傾くと、葬祭スタッフが白い手袋でそっと貼り直した。音はしない。角はまっすぐになった。


 線香の匂いは、炊きたての湯気に少し似ている。

 蒼真は結び直したネクタイの結び目を指で押さえ、光は靴ひもの輪の大きさを左右で合わせた。

 ふたりは同時に一歩を止め、同じ深さで息を吐く。合図はない。身体が覚えている。


 受付の脇で、薄茶の封筒が一枚。火葬許可。中央に四角で囲まれた日付。

 ——里沙 行年五十一。

 朱肉の匂いが、胸の奥のどこかを遠くなぞる。


 祭壇の前で並ぶと、遺影は驚くほどふつうの表情だった。笑い過ぎていない、言い訳のない顔。

 蒼真は、喉の奥で言葉をひとつ選ぶ。

「母さん」

 声にしたのは、十年ぶりかもしれない。

「俺はもう、誰の代理でもない。怒らないで積み上げたものの下に、ちゃんと怒りがあることも、認められるようになった。

 生徒に言葉を教えている。ずるさにも骨組みがあるって。……母さんの短い言葉、ずっと持ってた。

 謝らなくていい。俺がいまここにいるのは、俺が選んだからだ。だから——ありがとう、だけで、いい」


 光は線香を手に取り、火に近づけ過ぎない角度で火を受けた。灰が零れない。

「母さん」

 呼び方は、彼にしか出せない高さで届く。

「ぼくのなぜ、まだ胸の中にいる。消えない。

 だけど、持てる。走る前に息を吐いていいって、子どもらに教えるたび、ぼくも少し速くなる。

 触れない約束を守ったままでも、言葉は届く日があるって知った。

 会いたい日はある。会わない日もある。どっちでも、ぼくの速さで選べる。

 だから——心配しなくていい。ぼくは大丈夫になった」


 僧の声が静かに重なり、木魚の音が部屋の角を回って消えていく。

 参列者の列の中に、作業着の男がいた。白い手袋ではない手が、会葬礼状の束の角を見て、そっと貼り直す。

 彼は顔を上げず、すぐに列へ戻った。

 里沙の職場の同僚だと、あとで知る。角を整える人は、名前がなくても同じ動きをする。


 出棺の前、葬祭スタッフが小さな声で告げた。

「遠方のご親族もなく、簡素に……ご用意したお弁当は、ふたつ」

 白い紙袋が二つ、同じ重さで手渡される。

 蒼真と光は、隣の控え室の机に腰を寄せて並べ、ふたを同時に開けた。

 白いご飯の右上、赤い梅干しがひとつずつ。

 ふたりは目を合わせ、昔の癖のまま、箸で互いの梅干しを入れ替えた。

 右上は空白のまま、赤い一点だけが場所を交換する。

「同じだ」光が言う。

「同じにしてくれたんだと思う」蒼真が答える。

 食べる音は小さく、湯気はないのに、温度がある。


 弔辞を終え、花を手向けるとき、光は遺影の前で一度だけまぶたを長く閉じた。

 胸の中のなぜが、少しだけ重さを変える。痛みから、持てる重さへ。

 蒼真はその横顔を見たが、何も直さない。

 視線だけでよしを渡す。

 接触はない。承認は渡る。


 司会者が短く告げる。「これより出棺いたします」

 台車の金具が小さくカチと鳴る。

 式場の外気は、朝よりやわらかい。

 白い花の香りがほどけ、雲が薄く動く。


 火葬場の控え室で、係の人が白い手袋で書類を示す。

 収骨の説明は短い。余計な装飾がない言葉は、よく届く。

 蒼真はうなずき、光は深く一呼吸をした。

 骨壺の白さは、紙と違う白だ。吸い込む色のない白。

 ふたりは同時に手を合わせ、何も祈らないかわりに、ありがとうを心の中で一度だけ言った。


 午後、式場へ戻ると、受付の台の上に香典帳が一冊、トンと音を立てて置かれた。

 朱肉のふたがカチ。

 蒼真はペンを取り、苗字の最初の字を読みやすく書いた。

 光は横で、文字の背の高さをそろえる。

 字は揃わない日もある。今日は、揃った。


 すべてが終わって、式場の前で立ち止まる。

 空はどこにも偏っていない色で、風は紙をめくるほど強くない。

 蒼真が言う。「駅まで、二番目に短い道で行こう」

 光がうなずく。「うん。白線、踏まないで」

 ふたりの歩幅は、昔よりも少し広い。

 二つの弁当の空袋は、同じ軽さで手に提げられている。


「母さん」

 歩きながら、蒼真が小さく言う。

「もう、終わりを先に置かないで、始めるよ」

 光も続けた。

「ぼくは、走り方を、次の子に渡していく」

 返事は、風の中にはない。必要もない。

 十年かけて育った言葉は、届かなくても、届いている。

 ふたりとも、それが分かるところまで来た。


 角を整える人たちがいる世界で、

 紙は少なく、音は短い。

 右上の空白は空白のまま、

 それでも、今日を閉じ、明日を始めるには、十分だ。

 駅への分かれ道の手前で、兄弟は同時に立ち止まった。

「行ってこい」

「行ってくる」

 声は低く、短く、まっすぐに。

 別の方向へ歩き出しても、同じ季節の風が、肩の温度をそろえていく。


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