第15話 呼吸の深さ
朝の光は薄く、風は冷たかった。
旧市街の通気口の前に、ラミネートされた一枚の紙が揺れている。
《顔》
角は磨り減り、透明フィルムの中に何度も貼り直した痕が層のように残っていた。
午前6時02分。
〈リンク・ロード〉の掲示板に、新しい写真が上がる。粉は写っていない。写っているのは、入口の前に立つ2人の背中と、通学路の子どもが手を振る瞬間だ。
コメントの数は少ない。絵文字も多くない。
《何も起きなかった。いい朝》
それだけで、十分だった。
午前9時15分。
市役所の会議室。壁の大判ポスターはもう見慣れたものになった。
《入口は顔》
川端杏は、標準化された可視化ランプの最終仕様書にサインを置く。
・滑らか化の条件:±10秒以内
・保守モードのログ:統合前保持
・封緘:複合キー+一回限りID
・外付け可視化:標準OP
紙に置いたペン先が、かすかに震えた。嬉しさの震えだ。
「書き換えたのは、”仕様”だけじゃない」杏は独り言のように呟いた。「段取りも、街も」
午前10時03分。
警察本部の小会議室。志摩一未は、壁のタイムラインから三角の付箋をゆっくり剝がしていく。
△1、△1/2、△0。
最後に、細く1言と書かれた付箋だけを残した。
「1分より、1言」
背後から伊吹藍が缶コーヒーを2本掲げる。「店員姿、結局似合ってた説って出てない?」
「出ていない」
「ひでぇ」
二人の笑い声が、白い蛍光灯の下で軽く転がった。
正午。
市場の角の休憩所は、〈入口手帖〉の受け渡し所になった。
益田咲良は、薄い冊子の表紙を指で撫でる。
地図/連絡先/見守り手順。命令文はひとつもない。
「お願い」の言葉がそっと並び、ページの端には子どもの落書きのような三角が小さく踊っていた。
「今日の担当、お願いします」
オレンジのベストが笑って頷く。見張りではない。見守りだ。
午後1時40分。
UDIの分析室。ミコトが最後の報告書に印を押す。粉はCB-91/94。もうどこにも流れない。
窓の外に、薄い雲。その下で、都市が深い呼吸をする。
午後3時。
旧市街の空き地。折り畳みテーブルに古い管とバルブ。
黒田巌は、若い整備士たちに耳を澄ませる仕草を教えていた。
「最初の1キロでだけ鳴る、始まりの音。ここを超えたら、手を離せ」
「離したら、どうなるんですか」
「見られていれば、勝手に整う。それが、顔だ」
彼は懐中時計を開く。針はちょうど。
「俺は、今は触らない」
若者たちの頷きは静かで、確かだった。
午後4時12分。
港北のコインランドリー〈ランドリエイト〉の裏庭には、封印テープがまだ貼られている。
店先を通りかかった伊吹が、洗濯機の丸窓に映る自分の顔を見て苦笑した。
「……似合わないって言うなよ?」
隣にいた九重世人が、地図アプリを掲げる。「言ってない」
丸窓の向こうで、シャツが乾いていく。どのシャツにも、三角の穴は開いていない。
夕方。
記者会見で、久我は短く語った。
「“入口チャレンジ”は犯罪です。けれど、見える入口は強い。市民、現場、行政で続けます」
背後のスクリーンに、緑の静けさと、《顔》が一度だけ映る。
誰もざわめかなかった。
ただ、息を吸った。
夜。
古い通気口の前に、貼り紙が増えていた。
《おつかれさま》《明日も見てる》《かお!》
可視化ランプは、消えたまま。
風が、貼り紙の角をほんの少しだけ持ち上げる。
そのたびに、都市の皮膚が、確かに息をしているのがわかった。
深夜0時。
志摩は最後の付箋を手に取り、胸ポケットにしまい込んだ。
杏は仕様書をメールで送り、咲良は〈入口手帖〉のPDFを公開し、九重はライブ地図に**“何も起きなかった印”**を増やす。
伊吹は走るのをやめ、歩いた。走らない夜の歩幅を覚えるために。
黒田は帽子の庇を指で直し、通気口の前を通り過ぎる時、ほんの少しだけ会釈をした。
都市は、顔を上げる。
都市は、息を吸う。
見えるから、守れる。
1分より、1言で。
——完。
ファーストレーン — 最初の1キロ 湊 マチ @minatomachi
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