言葉の底で

羅貝愛斗

境界

夏の朝、僕はある本を読みました。


それは顔も知らない、誰かのお話です。

しかし読み進めていくうちに不思議な感覚がします。

僕はこの主人公と会ったことがあるような気がするのです。

考えていることも口癖も、この後の行動も、既に知っているような気がしてなりません。


知っている、似ている、いつかの誰かに。


しばらく目を伏せて、はっと思い出します。


僕、です。


物語の主人公は僕に似ていました。というのも、この物語を書いたのは僕なので、主人公の思考が僕に似通っているのは当たり前と言われれば、何も言えないのです。


でもその時、ほんの少しだけ、僕は寂しさを感じました。

どんなに仮想の世界に思いを馳せても、結局、僕は何も変わらないのです。

変わらないどころか、想像の世界にまで僕の思考は侵食してきます。僕が何処へ行っても何を食べても、何を描いても、僕が僕であることは変わらないのだと痛感させられます。


しかし僕はそれに気付くまで少し時間がかかりました。主人公と似ていることに不思議な感覚を覚えたのです。分かりきったことなのに。


畢竟、僕は何一つ、僕を分かっていないのです。


「自分とは何か」という問いを、昔の人はよく立てたものです。しかし現代人は今を生きるのに精一杯で、こんな抽象的なことは考えないかもしれません。僕もその中の一人です。


自分が分からないから、自分の本当の姿に気づけない。ここでの本当の姿とは、文字に残った感情だと、僕は思います。字の歪み、何度も消したような跡、筆圧の強さ、人の姿は無意識のうちに現れ、そして誰かに伝わる。


最近は便利な道具が多いもので、紙に直接書く機会は減っているでしょうが、それでも文というのはその人のすべてが含まれています。思慮深さに言葉運び、これらの些細な情報も、人を映し出す鏡です。



何をしても、僕が変わらないこと。

いつまで経っても、僕が僕を分かってあげられないこと。


そして、それを受容すること。




風が吹いています。




この本は僕にとってくだらないものでした。きっとこの先も、僕は自分の書いたものを面白いとは思わないでしょう。



もし、このすべての記憶を燃やして、最初からやり直せるなら、

未完成なあなたを分かってあげられるのなら、





死も、悪くないものだと思うのです。








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言葉の底で 羅貝愛斗 @Ragai19

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