千影さま

仁木一青

千影さま

 喫茶店で私は綾瀬さんと向かい合って座っていた。

 今日は、綾瀬さんが昔通っていた女子高の怪談を聞かせてくれるのだ。


 ICレコーダーの録音ボタンを押した。

 綾瀬さんは少し緊張した様子で言葉を選びながら話しはじめた。


「あの学校には、『千影ちかげさま』という有名な幽霊がいたんです」


 千影さまは腰まで届くような黒髪が特徴で、背の高いスラッとした美しい女性だそうだ。


「生徒たちが友達同士で話していると、いつの間にか遠くの方で耳をすませているような姿を目撃されることが多いそうです。足音は一切しないのに、ふと振り返ると静かに立っている。まるで学校の日常に溶けこんでいるようでした」


 綾瀬さんは少し間をおいてから、声をひそめるようにして言った。


「千影さまには特別なジンクスがあったんです。受験のために学校見学に来た中学生が千影さまを見かけると、その子は絶対に合格するという」


 綾瀬さんが三年生の一月のとき。

 すでに推薦入試で大学に合格していたので綾瀬さんは自由登校になっていた。

 ある日、同じく推薦で合格していた友人のAさんから学校に来てほしいと連絡があった。


「何かあったの?」と尋ねると、Aさんは電話越しに笑いながら「秘密。とにかく来て」と言うだけだ。


 綾瀬さんが地味で真面目なタイプなのに対して、逆にAさんは明るく活発で行動力がある。保守的な伝統校だったので奔放なAさんは先生から目をつけられていたが、要領のいい彼女はいつもうまく切り抜けていた。


「その日、Aは校則で許されないくらい茶色に髪を染めてました。自由登校期間で先生がうるさく言わないってわかってたんですね。栗色の髪が、彼女のショートボブの髪型にとても似合っていたのを覚えています」


 Aさんは演劇部の衣装部屋から持ち出したという長い黒髪のかつらを持っていた。


「綾ちゃん、今日は私と一緒に『千影さま』やろうよ」

「どういうこと?」

「私が千影さまのフリをするの。受験前の中学生たちが下見に来てるでしょ? 彼女たちに千影さまを見せてあげようよ」


 綾瀬さんが躊躇しているうちに、Aさんは黒いかつらを頭に被せ長い髪を整えた。


「ほら、どう?」


 それまで茶色のボブヘアだったのが艶やかな長い黒髪に変わると、まるで別人のように見えた。


「すごい……ほんとに千影さまみたい」

「でしょ?」

「でも、こんなことして大丈夫かな」

「平気平気。ちょっとしたサプライズをあげるだけ。受験前の子たちに合格のおまじないをしてあげるんだ」


 Aさんは左腕を制服の袖から抜いて、演劇部仕込みの所作で背筋をピンと伸ばした。

 千影さまは交通事故で亡くなったときに左腕を失ったために、左袖を垂らした姿で現れると言われているのだ。


 教室の窓際にAさんが立った。そこからは正門付近が見下ろせ、数人の中学生が学校見学のために集まっていた。綾瀬さんはカーテンの陰から様子をうかがう。


 しばらくすると、下にいた中学生の一人が上を見上げてAさんを指差した。Aさんは柱の陰にさっと隠れた。窓から中学生たちの声が聞こえてくる。


「いま千影さまがいたよ!」

「ウソ!?」

「ほんと! 左腕なかったもん!」


 二人はクスクス笑いながらその様子を見ていた。


「『今度は綾ちゃんの番だよ』とAは黒いかつらを差し出しました。私は身長が高くないし、千影さまになんてなれないと思ったのですが、Aはどうしても私の千影さまを見たいと言って聞きませんでした」


 結局、Aさんに押し切られる形でかつらを被り、左袖から腕を抜いた。鏡を見ると、綾瀬さんは自分がまるで別人になったような気がしたそうだ。


「一回だけだからね」

「うん、すごく雰囲気ある。ほら、あそこに立ってみて」


 Aさんに言われるがままにおそるおそる窓際に立ち、正門前の石畳をそっと覗く。数人の中学生が不安げにこちらを窺っていた。そのうちの一人と視線が合った気がして、綾瀬さんは身体を硬くした。


「ほら、千影さま! 本当にいた!」


 下から中学生の驚いた声が聞こえた瞬間、恥ずかしさに耐えきれなくなってAさんのところに逃げ戻った。


「もうだめ、私には向いてない」

「そんなことないよ。綾ちゃんの千影さま、すっごく良かった!」

「もうウソばっかり。いいから、もう一度お手本を見せてよ」

「しょうがないなあ」


 Aさんはいたずらっぽく笑うとまた自分がかつらを被って、堂々と窓際に立った。いつの間にか綾瀬さんも楽しくなってきて、結局何度も交代しながら千影さまを演じることになる。


 そのうちに、綾瀬さんの家から携帯電話に連絡があった。急用ができて帰らなければいけない。


「ごめん、先に帰るね」

「えー、もう少し付き合ってよ」


「Aは残念そうな顔をしましたが、私は急いで学校を後にしました」


 それが二人の最後の別れになるとは、綾瀬さんは思いもしなかった。

 その夜、Aさんの母親から自宅に電話がかかってきた。


「『Aがそちらにお邪魔してませんか』という声は不安に震えていました」


 その時初めて、Aさんが帰宅していないことを知った。


 警察や学校関係者が必死に捜索したが、Aさんは見つからない。防犯カメラには彼女が校門を出る姿は映っておらず、演劇部から借りたかつらも学校のどこにも残されていなかった。まるで、彼女が学校から消えてしまったかのようだった。


 彼女の行方は、結局、誰にもわからないままだった。


 そして数年後。

 綾瀬さんは、教育実習生として母校に戻った。


「久しぶりに校門をくぐったとき、胸が絞めつけられるような気持ちになりました。赤いレンガの校舎を見上げると、ちょうどあの日、Aといっしょに千影さまを演じていた教室があったんです……」


 彼女は言葉を詰まらせた。


「すみません、思い出すと動揺してしまって」


 綾瀬さんは気持ちを落ち着かせるように深く息を吸った。私は急かすことなく、彼女が再び話し始めるのを待った。


「私が卒業してすぐに制服が変更されて、セーラー服からブレザーになっていたのがショックでしたね。私もあんなかわいい制服を着たかったですね」


 実習期間は目が回るほど忙しかったが、それでも休み時間に生徒たちと話すのは楽しいひとときだったそうだ。

 ある日、担当するクラスの生徒から思いがけない質問をされた。


「先生は千影さまを知ってる?」


 その瞬間、綾瀬さんの血の気が引いた。


 数年間、必死に忘れようとしていた記憶が一気に蘇ってきた。

 Aの笑い声、長い黒髪のかつらの感触、あの日の喪失感と罪悪感。

 すべてが鮮明に戻ってきて、綾瀬さんはとっさに机の端を握りしめた。


 動揺を隠しながら、「ええ、もちろん知ってるよ」と答えると、少女は目を輝かせて続けた。


「私の友達で千影さまを見た人がいるんだよ!」

「それは……本当に千影さまだったの?」


 綾瀬さんは震える声を抑えながら尋ねた。


「うん、間違いないと思う。背がモデルみたいに高くて、セーラー服の左袖がだらーんって垂れ下がっていたって。でもね……」

「なに?」

「千影さまは黒髪だって聞いてたけど、その千影さまはきれいな栗色の髪をしていたんだって」


 綾瀬さんは一瞬、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。

 声を上げそうになるのをこらえ、無理に微笑みながら会話を終えると、廊下をふらつくように歩いて職員室に戻った。途中、何人かの生徒に声をかけられたような気がしたが、返事をした記憶はない。


 それから毎日、放課後になると一人で校舎を見て回った。


 Aさんの最後の姿が焼きついている、あの窓辺にもそっと立ってみた。


 しかし、実習最終日になっても、綾瀬さんは「千影さま」には会えなかった。


「ただ、あの教室に入るたび、ほんのわずかですけど何か空気が変わったような感じがしたんです。それが千影さまとなったAの気配なのか、学生時代の記憶が呼び起こした感傷なのかは私にはわかりませんでした」


 録音を終えようとしたとき、綾瀬さんがさみしそうに言った。


「あの日、Aといっしょに私も学校に残っていたら、二人とも千影さまになっていたのかな」

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