ぴんほうる
押田桧凪
第1話
目を細めた時にだけ見えるみんなのちょっと笑った感じだとか、太陽のふんわりした白い輪郭だとか。そうやって目をこらすと、世界が見えやすくなったような気がする。あと少しで涙が出そうな具合の潤んだ感じの時なんかも、目が突然、良くなった気がする。
だけど実際には、その時の僕の顔はみんなには怒ってるように見えてて、「なにそれ目つきわるっ」なんて言われたりした。僕は「見えなかっただけ」と返す。
蟻の巣穴を観察してから、日が暮れて、それからピンホールまで。当時の僕は百円ショップで流行った『コレであなたもみるみる視力が良くなる! ピンホールメガネ』と名前のついた商品を買った。それをかければ目が良くなるって、本当かどうか確かめようと思った(もちろん胡散臭いのは承知で)。
ちょうど僕の目が悪くなりかけていた頃だ。黒板の字は蟻の隊列のようにぐにゃって見えて、ホワイトボードは反射も相まって見えづらくなっていた。『立体視トレーニング』という本も買ったけど、全然効果がなかった。緑を見よう、自然に触れようなんかもね。
遺伝って結構つよいって、知ってる。でもお母さんは「ゲームばかりするからでしょ」とゲームのせいにする。見えなくなることは怖い。見たい、見えたい。でも見ることは、穴を追いかけるような作業だった。
AAだった頃の僕はあんなに退屈だったのに、僕は、いつの間にか視力検査が怖くなっていた。見通せない穴があることが怖かった。順番が来たら、アルコールを湿らせた綿で拭かれた、遮眼子を渡される。
黒い輪っかがどっち向きか分からなくて、でも「分からないです」って言うのが恥ずかしかった。こう、小学校の時の検査で列になって、他の子が検査してる時は後ろを向いてないといけなくて、だけど声で分かる。合ってても、「分からないです」って言えば目が悪いってみんなに丸わかりだから、僕は適当に答える。
そうしたら、あぁ明らかに見えてないなこの子っていう配慮が働いて突然、光る輪っかのサイズがぐんと大きくなる。ここまで大きかったら、さすがに分かる……よね? とジョークみたいに出されるそれすらも分からない時に、僕は申し訳なくなる。
全部、穴でしかなかった。どこがひらいて、例えば斜めのもあって、説明するのが難しい。指だけで伝えるのは幼稚だし。
見えると見えないの中間を測る時、AAの子の連続正解とちがって、目が悪いひとは時間がかかるから、誰か一人は必ず振り返って、なかなか順番が来ないなぁと確認される。まちがいは笑われる。
僕にとっていつの間にか緊張感を帯びた視力検査、保健室、薬品の匂い、閉められたカーテンの奥にいる誰か、クスクス笑う声……。その全部が振りかかってきて、途端に心臓がドキドキする。目がわるいことが、コンプレックスだった。
「寝たふりをする時の、洗練されていない子どものぐぅっぐぅっていうイビキの音真似。あれ、絶対バレてたんだよね」
「どうしたの、急に」
僕が医療事務として働いている眼科の同僚、綾城さんは目を丸くする。ここは、ショッピングモールに入っている、コンタクト店に隣接したちいさな眼科。
休憩時間になって、彼女と合流すると、僕は訳もなく話したくなった。小学校の記憶が不意に降りてきたから。
コンタクトレンズ指導を終えた作業台の、使用済みのケースの蓋を完全に剥がす。口を動かしながら、同時にそれらをリサイクル用の袋へと分別していく。
「うん、今になって、分かる。保健室に逃げて、『熱があるので寝かせてください』って嘘ついて、なんとか体温計を握りしめて寝るの。寝たふりをする」
「あの、何の話? 仮病?」
突然の意味不明なトークにも対応してくれるのが、綾城さんの良いところだと僕は思っている。たしか、歳も近いし。そんな理由も込みで気軽に相談できる仲だった。
「そんなところ。僕、視力検査きらいでさ」
ここに勤めたのも、誰かの──かつては自分が嫌いだった視力検査と向き合うことを──そんな自分と同じ恐怖心を抱く誰かを手助けできる現場に携わりたかったから、なんていう大義だけでできていて、もちろん今までそれは誰にも言っていなかった。言わない方が良かった。だけど、綾城さんには話せる気がした。
「へぇー、まっ私は暗記してたけど」
「エッ?」
ピントのずれた、しかも予想だにしない回答。この人は僕の想像を軽々と上回る。カンガルーの赤ちゃんの中で一番初めに跳び方を覚えるのはこういうタイプなのだろうと勝手に思う。ランドルト環、覚えてる人って存在するの?
「あっ、ひらがなもね」
……いや、あるけど。『に』とか『は』とか。あの一覧。実際にそれで2.0の視力を維持してる人っているの? というか維持って言い方、タイトル戦の防衛みたいだななんて僕は思いながら、「あたしにはクイズ感覚で楽しかったけどね」と綾城さんは笑った。
この人は遠足でブルーシートの端っこを持ってくれそうだとなぜか思った。遠足に行く予定も無いし、そんな間柄でも、好適な外気温でもないのに、そう思った。
「じゃあさ。なんか、なりたいものとかあった?」
「え?」
「小中学校のときの話」
「あぁ」
「理科の、せんせい」
答えるのが恥ずかしくなって、へんな間があいた。不意に当時を思い出す。
中学生の頃の実験で、「鼻が詰まってるやつだけこい」と先生が言った。アンモニアの気体を手であおぐようにして嗅ぐシーン。実験台に接近したクラスメートが「くっせ、くっせ」と笑うのを見て、なぜかそんな先生になりたい、と思った。
それから、フラスコの中でピンクの液体が吹き上がった。噴水だ。なんだか時代劇でバシャーって出血するのに似ていて、少し怖くて不思議だった。でも、面白かった。
「途中までは、目指してたよ」と意志の固さだけは主張したくて、虚勢を張ってみる。
教職課程で、PowerPointで授業スライドを作った。実習に行き、僕の展開する模擬授業が、模造紙の裏に貼ったマグネットが、ほんものの──あの頃にあった先生の──過程を繙いていくのがむず痒かった。先生に、なる。本当に? 小学校でつまづいたままの僕が、先生になっていいの? そう言われているような気がして最終的にはならなかった。
「なんか、意外」
「まぁやめたんだけどね」と僕は未練を感じさせないよう言い切った。
この眼科に来るのは、はじめての人が多い。そして、僕ははじめてを祝う立場だった。せんせいじゃなくてよかった、と思った。例えば、ケーキ屋には幸福を心待ちにする人しか訪れないみたいな確約があったとして、ここでは多くの人が異物に挑戦するここころざしを抱えていたりする。僕はそれを見守る。
ソフトとハード。選択肢はふたつ、目の大きさや装脱頻度に応じて提案。屈折と視力を検査して、度数を調整。
しゅっ、と指をあっち向いてホイの要領で動かす子もいれば淡々と右・左を呟いてこなす人もいて、でもたまに判別のつかない輪っかになる。
「まずは手を洗って、つけてみましょう」
検査を終えると装着に入る。ケースから取り出したら、それを平らにして、凹凸のカーブを見て、見開く。ぱちんってちょうどいい箇所に落とす。鏡の中の、自分の目玉のふちが水色に映っていたら成功。どこかを泳いでいたら、それはまぶたの裏か上か下か、宇宙まで。
目を見開いて、物体が入る。ストンと。合わなかった時のゴロゴロという表現が、こんなにも身体に当てはまって、「どうですか? 痛くないですか?」と訊ねる。何度も僕は穴の中で真っ暗になる、気球を追いかける。患者さんと一緒に。そんな気分で。
僕は高校生の時、ワンデーだったので、「一日150円くらいするんやけんね。無駄にせんでよ」とお母さんに言われていたことを思い出した。メガネを買って、でもあまり掛けることはなく、僕は小学校を終えた。そんなぼんやりとした視界が、クリアになったのは高校生の時。いわゆる、コンタクトデビューというやつだった。
遠くを見る。医院の棚、説明書、掲示。辺りを見回すと全てが鮮明になったあの瞬間が、みんなに訪れることを想像する。洞穴に水が満ちていくように、湖面になった瞳をひかりが泳ぐ。
──だって、陸上でメガネで走るの邪魔だから。水泳で度のあるレンズとは別にプールサイドでも見えるようになりたいから。そういう需要があって、そして、その子たちが指を震わせながら挑む背中を僕は見つめる。毎日。メガネからコンタクトレンズになると透明人間になったように自由で、視界を覆うものがなくて、軽い。だけど。
「やっぱり、つけたくない。怖い」
小学校六年生の子だった。普段は中学生や高校生の指導を主に担当しているが、最近はスポーツをしている小学生もやって来る。
……ひっくり返っちゃったか。表か裏かを確かめて、それから手のひらに張り付いた逆向きのレンズの取り替えを促す。
「練習だから、いくらでも使っていいからね」と新たなティッシュペーパーを敷いて、ケースを渡した。どんなに見えない小さな文字だって、星だって見せてあげたい。そう思った。
それから、もっともっと昔。お母さんの膝の上に頭を乗せたときのことを僕は思い出そうとした。あの頃は無敵だった。目薬に、仕上げ歯磨き。目や口に何かを入れて、検査して、予防して、お母さんはそんなガードレールになって僕は眠る。
寝室の天井に吊り下げたモビールが蓄光でうすぼんやりと見えて、星になった。寝る前の常夜灯みたいに、暗闇に目が慣れる。暗順応。光る猫の目。そんか夜が好きだった。画用紙でドームをつくって、錐で穴を開ける。下から明かりで照らせば、プラネタリウムになる。夏休みの工作で、そんなこともしたっけ。穴をのぞけば、宇宙が見えて、見通せない光も、未来も、穴も無かったと信じていた頃の僕がそこにいた。
「つけれた!」「お、やったじゃん」「めっちゃみやすい」
いくつもの過去を経由してきみに光が届く。
ぴんほうる 押田桧凪 @proof
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