虚ろな貢献(ショートショート)
雨光
ガラス玉の眼
深夜のオフィスは、深海のように静かであった。
窓の外には、宝石を撒き散らしたような東京の夜景が広がっている。
しかし、その光は、私のいるこの箱の中までは、届かない。
私の世界を照らすのは、ただ、目の前のモニターが放つ、青白い光だけだ。
社長から、チャットの通知が届く。
『君の成長に、心から期待しているよ』
その言葉は、私の、疲労で麻痺した脳髄に、甘い毒のように、じわりと沁み込んでいく。
そうだ。
この会社で、私は、成長しているのだ。
この身を粉にして働くことこそが、私の「やりがい」なのだ。
給与明細に記された、生活を切り詰めてやっと成り立つほどの、あの数字のことなど、考えてはならない。
しかし、近頃、私は、同僚たちの姿に、奇妙な違和感を覚えるようになっていた。
彼らの顔から、表情というものが、まるで、雨に流された絵の具のように、抜け落ちていっているのだ。
皆、口元には、あの社長と同じ、穏やかな微笑みを浮かべてはいる。
だが、その目は、まるで、ショーウィンドウに飾られた人形の、ガラス玉の眼のように、虚ろで、何も映してはいない。
そして、このオフィスには、いつからか、奇妙な匂いが立ち込めるようになった。
甘く、少し埃っぽい、まるで、古い寺院で焚かれる、高価な香木のような匂い。
その香りを吸い込むと、不思議と、肩の重さが和らぎ、もっと働きたい、もっとこの会社に貢献したいという、清らかな、しかし、どこか病的な高揚感に、心が満たされるのであった。
私は、見てしまったことがある。
深夜、給湯室で、一人の先輩社員が、冷たい壁に、そっと、耳を当てているのを。
「聞こえるか」と、先輩は、虚ろな目で、私に言った。
「このビルが、呼吸している音が。俺たちの『やりがい』を、うまそうに、吸っている音が」
彼の言葉の意味を、私は、理解することができなかった。
先日、社長が、全社員を大会議室に集めた。
「我が社の、さらなる飛躍のために」と、社長は、うっとりとした表情で、両手を広げた。
「君たちの持つ、その素晴らしい情熱と時間を、もっと、もっと、この会社に捧げてほしい。君たちの貢献こそが、我々の夢なのだから」
社長が、そう言った、瞬間だった。
私は、見た。
会議室の、床や、壁や、天井を走る、無数の、細い、血管のようなものを。
それは、LANケーブルなどではない。
有機的な、生きている、何か。
そして、その血管のようなものは、一斉に、脈動を始めた。
それらは、床から、まるで植物の根のように、するすると伸び上がり、私の同僚たちの、その足元から、体の中へと、静かに、侵入していく。
同僚たちは、しかし、苦しむでも、叫ぶでもない。
むしろ、そのガラス玉の眼を、恍惚と細め、口元に、あの、 より深く、刻みつけているのであった。
私は、声にならない悲鳴を上げ、一人、その場から逃げ出した。
エレベーターホールまで走り、息を切らしながら、磨かれたガラスの壁に映る、自分の顔を見る。
その顔には、まだ、恐怖や、戸惑いや、疑念といった、人間らしい「表情」が、かろうじて、残っていた。
その時、背後から、あの社長の、甘く、穏やかな声が、聞こえた。
「どこへ行くんだね。君の『やりがい』は、君の『成長』は、此処にしかないのだよ」
振り返るべきか。
エレベーターのボタンを、押すべきか。
逡巡する私の、その視線の先で、ふと、気づく。
いつの間にか、床から伸びた、細い、細い、あの赤い根のようなものが、一本、私の革靴の、その先端に、そっと、触れていた。
それは、ひやりと、しかし、なぜだろう、どこか、抗いがたいほどに、心地よい感触であった。
虚ろな貢献(ショートショート) 雨光 @yuko718
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