第二話 母のまなざし

 一ヶ月ほどが過ぎ、立春を迎えた。


 ​北国に春一番こそ吹かないが、寒さは少しずつ和らぎ始めていた。そんなある日、洞穴の奥から、元気な産声が響き渡った。


 ​徳次郎がその末路を案じていた、カムイモシリの森の奥深く。冬ごもりをしていた母グマは、夢を叶えたかのように我が子を産んでいた。


 ​大きな母グマと、生まれたばかりの手のひらに乗るほど小さな子グマが、ひとつの心臓のように鼓動を重ねて寄り添い、ひっそりと息づいていた。


 ​──そのときだ。

 ​ひとりの男がスキー板を鳴らしながら、立ち入り禁止の斜面へと踏み込んでいた。山スキーを愛好するその男は、偶然、親子グマの前に出くわした。


 ​雪煙の向こうで自分を見据える大きな黒い影に、男は胸を凍りつかせた。慌てて取り出した爆竹を投げつけると、轟音に驚いた親子グマが身を隠した。その隙に、男はスキーを乱しながら必死に逃げ出した。


 ​だが、斜面は険しく、新雪は深かった。未熟な足さばきではどうにもならず、枝をかき分ける音とともに崖へと転げ落ち、雪に叩きつけられる。


 男は町役場に駆け込んだ。幸い命は取り留めたものの、全身を強く打ちつけ、口の中に鉄のような血の味が広がる。肩で息をしながら、男はかすれた声で、ただひと言だけを絞り出した。


 ​「クマに……襲われたんだ」


 ​怪我の痛みと恐怖、そして自らの過ちを覆い隠すために紡がれたその偽りは、やがて森にさらなる災いを招くことになる。


 彼の​届け出を受け、町役場の職員は動かざるを得なかった。いつしか、母グマの存在は町の人々に知れ渡り、「OSO二世」と呼ばれるようになった。


 かつてコタンの森から遠く離れた御卒別の地で、六十頭以上の牛を襲ったと伝えられるヒグマの記憶が、不吉な響きを帯びながら、罪もなきやさしいクマに恐ろしい汚名を背負わせた。


 ​だが、母グマの瞳に宿っていたのは、荒々しさや憎しみではない。ただ、愛する我が子を守ろうとする、母としてのまっすぐな意志だけだった。


 ​畏れ多き誰かが彼らの平穏な暮らしを踏みにじったり、その命を脅かすことさえしなければ、母グマが荒々しい爪を振るうことなど決してなかったのだ。クマにも、人と同じように心があるのだろう。


 ​彼女は、四季ごとに変わる風の匂いを敏感に嗅ぎ分け、大好物のどんぐりを子どものためにひたすら探し求めていた。影のように森に身を溶かし、人との争いを避け、我が子と穏やかに日々を紡いでいた


 ​小さな命を守り抜く覚悟を胸に、母は子どもが独り立ちするまでの二年という限られた時間を、惜しむように、抱きしめるように育てていた。


 ​幼き日に得体の知れない猟師の手で刻まれた傷痕が、今もなお彼女の背中に深く残されていた。その傷がどれほど痛んでも、彼女が人に対して敵意の牙を剥くことはなかった。


 ​*

 ​徳次郎は親子グマに出会わぬよう、鈴音を鳴らしながら、残雪に覆われた尾根で足を止め、煙草に火をつけた。細く立ち上る煙とともに、胸いっぱいに透き通る冷えた空気を吸い込み、吐いた息でメガネを曇らせた。


 ​彼の視線が捉えたのは、クマではなく、削られ変わりゆく山肌に横たわる森の無惨な姿だった。足もとに置かれた愛用の猟銃は、もはや使われることを忘れたかのように、すっかり色艶を失っていた。


 ​かつて畑のじゃがいもやカボチャを食い荒らすエゾイノシシを追いかけていた日々は、いまや遠い記憶の中に沈んでいる。


 ​変わりつつあるコタンの森を前に、徳次郎は言葉を呑み込み、ただ呆然と立ち尽くしていた。何もできないという悔しさが胸を締めつけ、浮かんだ涙は目の奥に滲んで消えた。


 ​その一方で、同じ時間、メガソーラーが輝くホテルの近くの居酒屋では別世界が広がっていた。ホテルの裏手に集まった柄の悪い若者たちの輪からは、異様な熱気と笑い声が立ちのぼる。


「奴を仕留めたら、三百万円だってよ!」


 その話を聞いた他の連中も、興奮気味に口々に騒ぎ出す。


「化物グマを駆除する動画、絶対にバズるって! 本州からユーチューバーも来てるらしいぜ。奴はまるで、飛んで火に入る夏の虫だな!」

「マジで? あの懸賞金、本当なのかよ? ネットでバズれば広告収入もガッポリってわけか。こりゃ一攫千金だな!」


 ​酒の匂いが雪の冷たさを紛らわせ、床には濡れた靴跡が幾つも残っていた。汚れた雪までも、無造作に店内へ持ち込まれている。


 ​徳次郎は、若者たちの許しがたい光景を黙ったまま見つめた。悔しさで胸が締めつけられ、テーブルの下で拳を握りしめる。

 悔しまぎれに酒をあおると、指先に走る古傷の震えが、彼が重ねてきた歳月の重みを物語っていた。


 ​──もう、若くない。この場で怒声を上げたとしても、他の客に迷惑をかけるだけだろう。その現実に打ちのめされるほど、胸の苦しさは増していった。


 ​だが、その憤りは収まらない。


 ​クマという存在は、いつしか恐怖と懸賞金にすり替えられ、命の重みなど、若者たちの目には映らなくなっていた。

 人々の心がこれほどまでに変わってしまったのかと思うと、徳次郎はただ、悲しみに打ちひしがれるしかなかった。

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2025年12月18日 18:10
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子を守りし、母の愛はカムイの森に還る 神崎 小太郎 @yoshi1449

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