第一話 祈りが眠る森

 生と死のあわいで多くの命が息をひそめる北の大地。アイヌの人々が「カムイモシリ」と呼んだ神々の聖域。


 北国のコタンの森は、深い眠りのなかにあった。白い雪に覆われた人間の大地と、神々の聖地の狭間には牙を沈めたかのように凍りついた川が横たわる。


 風にざわめく白樺の幹が、月光をやわらかく映し、風花は頬をかすめ、透き通る息と溶け合うように舞う。


 神々(カムイ)への祈りが姿を変えたかのように、音もなく降りそそぐ白い雪。神秘の森を包む風は、枝の隙間をすり抜け、この世の名残をそっと撫でていた。


 かつて、サケたちが命まで賭して遡上した河川は、いまやその記憶を深く沈め、厳かに神々しい「生と死」の循環を抱いている。


 森の奥深く、ひっそりとした洞穴の中で、母グマはお腹に宿した小さな命を確かめるようにさすりながら、冬の眠りについていた。春が訪れる頃には、初めて授かった赤子は力強く大地に迎えられることだろう。


 クマは決して魔物ではない。神の使いとして森の枝葉をかき分け、大地に恵みをもたらす存在として、アイヌの人々は深い敬意を抱いてきた。


 冬の清寂の中、神々の恩寵は深い森に絶えることなく満ちている。焚き火の炎が、夜の闇をやわらかく照らす。車座になって火を囲んだ人々は、声を重ね、身体を震わせながら歌い、神々に祈りを込める。


 アーヘー ホーイホーオー ウタレオプンパレ。


 レラカムイ(風の神)に捧げるその調べは大地と天、そして彼らの魂を結ぶ祈りの歌だった。自然との絆を決して忘れぬように。

 神々から命を授けられ、生かされていることを胸に深く刻むために。


 遥か昔、人と森、風と獣、信仰も営みも、全てがひとつだった。だが、目の前の利益のためだけに、共生という名の調和はあっけなく奪い去られてしまった。


 自然豊かなカムイモシリの森を切り裂くように観光道路が伸び、削られた山の斜面にはスキー場が広がる。夏に稚児車チングルマや水芭蕉が咲いた湿地の上には展望台が立ち、かつての静けさを見下ろしている。


 それでもまだ、北の国でしか見られないキタキツネやエゾシカ、エゾリスの足跡は残されている。タンチョウ、オジロワシ、シマフクロウたちは、声をひそめながら羽を広げて空を舞っている。


 *

 老猟師の徳次郎は、火の消えかけた煙草を指先でつまみ、呟くように言った。


「俺の若いころは、森や川がもっと生き生きしてた。誰のものでもなかった。神のものだったんだ」


 彼の視線の先には、メガソーラーが幾つも並び、異国の名を冠した巨大なホテルがそびえている。その窓から覗く自然の景色は、観光客に見せる舞台装置にすぎず、かつて神のものだった聖域は、もはやただの見世物に落ちぶれていた。


 もう一度煙草を燻らせると、徳次郎は儚く消える煙の輪をじっと見つめ、虚ろな目で口を開いた。


「自然を壊してまで、何を手に入れようってんだ……。観光か? 道路の便か? それとも税か? 冗談じゃねえ」


 怒りの残響は、なお心の奥で渦を巻いていた。その言葉は誰に届くでもなく、ただ空気に滲むようにこぼれ落ちていく。

 今日の徳次郎は、いつになく饒舌だった。命の挽歌を感じているのか、さらに言葉は続いた。


「どれも口当たりのいい話ばかりだ。誰ひとり、この森の声なんざ聞いちゃいねえ。森の奥にひそむ清らかな水源地でさえ脅かされてるんだ。……俺はいい。だが未来を背負う若ぇもんは……」


 彼の言葉はそこで途切れた。


 遠くを車の音がかすかに過ぎていき、それが過去と現在を分かつ境界線のように感じられた。彼は静かに目を閉じ、若かりし日々の記憶をたどる。


 あの頃、白樺の樹林はただの森ではなく、木々がささやき、そよぐ風が歌い、獣や鳥が命の物語を紡いでいた。言葉を超えた、魂と魂が共鳴し合う営みがそこにはあった。


 だが、今はどうだ。すべてが金銭に換算され、自然は「資源」として扱われる。徳次郎の掌からこぼれ落ちていく、もう二度と戻らないかけがえのないものに気づいたとき、胸の奥で燻っていた怒りが顔を覗かせた。


 やがて、言いようのない悲しみの涙となって溢れ出した。


 猟師はまだ見ぬ若者たちの顔を思い浮かべる。彼らがこの森を、この大地を、どういう目で見るのだろう。


 彼は自分と同じように、森の声を聴くことができる若者がいることを祈った。そんな願いも叶わぬとわかっていても。


 冷たい風が、徳次郎の頬をかすめる。それは、かつて彼が愛した森からの、最後の声のように感じられた。

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