第31話 終焉

第六章 終焉


 初音は裏庭でぐんと伸びをする。

 ここ最近、重苦しい雲が空を覆っていたが、今日は快晴、洗濯日和だ。

「梅雨もようやく明けそうね」

「洗濯日和です」

 初音の声に涼が答えた。空気は湿り気を帯びているものの、風が吹いているので良く乾くだろう。

 蓮斗を滅し、帝に長刀を献上したのはもう二ヶ月も前になる。

 空弧を天弧にまで強めた原因が美琴であったことは、隠せず報告した。事の全容を聞いた帝の判断は早かった。八重樫を政から遠ざけ、名こそ残すものの宮應の傘下に入るよう命じたのだった。

 美琴の破魔の力は戻らず、肌や髪の艶も奪われたままだ。顔色が悪く、目の下にはどよんとしたクマができている。

 生活に不自由しないほどには回復したが、誰もが振り返るような美貌はそこになかった。

 いつもどこか疲れているような、陰気な雰囲気を纏っている。

 八重樫の名前自体は残っているので、父が本家当主であることは変わらないが、神祇宮司の地位は返上せざるを得なかった。

 帝は変わりに帆澄に神祇宮司の地位を与えようとしたが、帆澄はそれを頑なに断ったのである。

 宮應は昔から邪気と妖の関連を帝に訴えており、今回の美琴の件でも再度進言したが、それについては公表しないと結論づけられてしまった。その状態で地位だけ貰っても板挟みになるだけだし、もともと帆澄は権力に興味がない。当然の決断だと初音は思っている。

 帝都に大量に放たれた地狐だったが、長屋の妖たちの協力により被害は最小限に留められた。住民からは狼を見たや野良犬に噛まれたなど様々な抗議、苦情が寄せられたが、そこは野犬の大群が帝都に入り込んだせいだと強引に話を収めた。

 幸い、牙に毒がなかったため、咬み傷や裂傷はあっても死には至らなかった。殆どの人間が軽傷であったが、ただ一人、春人だけは右手をほぼ引きちぎられる大怪我を負ってしまった。

 破魔の力で応戦しようとしたことが、却って地狐を煽り仲間を呼び寄せ大怪我に至ったようだ。腕はなんとか残ったが、自分の意思で動かすのは無理だろう。

 各地で頻出していた阿紫霊や地狐も蓮斗を滅っすると姿を消した。こちらは実態のあるものだから、今後また現れる可能性がある。各地に赴いた分家が暫くは様子を見る手筈になっている。

 梅雨の間、妖狐や八重樫に関する諸々の後始末で忙しかったが、それも昨日やっと一段落したので、初音は衣替えに取り掛かることにした。

 洗濯が終わったら、今度は袷の着物を解いて洗い、単衣にする仕事もまだ残っている。一日で全部できるとは思っていないが、昨日までに解いた着物だけでも洗っておきたいところだ。それが済んだら布団の綿も減らし、夏に備えたい。

 そんなことを考えながら、綺麗になった洗濯物をパンパンッとシワを伸ばし裏庭で干していると、竹の裏木戸がぎぃっと音をたてた。

 足だけでなく着物まで泥々にした棟馬が、へへっと笑い手を振ってくる。涼が「まぁ」と声を上げた。

「これはまた派手に汚しましましたね」

「田植えの手伝いを頼まれたんだ。秋には米が貰え……」

 褒めてと言わんばかりに涼に自慢げに語る棟馬だったが、射殺さんばかりの視線に言葉を飲み込んだ。

「絶対、洗濯物に触らないでください。ほら、井戸に行きますよ」

「もしかして涼が俺を洗ってくれるのか?」

「何、喜んでいるんですか? 水をぶっかけるんです」

 頭から、と付け足すと涼は棟馬の襟首を掴み引きづるように井戸へと向かう。

 その二人と入れ違うように帆澄が顔を出した。

「なんだ、いつの間にあの二人はあんなに仲良くなったんだ?」

「さぁ? 仲が良いのでしょうか?」

 初音の目には、いつも棟馬が怒られているように見えるが、帆澄はふっと鼻から息を抜き笑った。

「破天荒な棟馬には、涼ぐらいしっかりした者が合うだろう。それより、あざみから水菓子を貰った。休憩にしないか?」

 蓮斗を封じたあと、帝都には暫く妖が現れていない。

帆澄曰く、天弧を封じた帆澄と初音、それから空を飛び回った棟馬に怯え様子を見ているのだろう、とのこと。

 そのため勅令も久しくないが、帆澄は定期的に長屋の様子を見に行っていた。初音が同行する時もあれば、諸々の後始末の書類に目を通したり、家事するため留守番の日もある。

「では表の縁側で庭でも見ながら食べませんか。お茶を用意します」

「それはいい」

 初音は裏口から厨に入り、帆澄はそのまま庭へと回った。

 夏になると雪の妖が氷を届けてくれるそうだが、それはもう少しあとらしい。初音は少しぬるめのお茶と皿を盆に乗せると、縁側へと向かった。

 先に座布団を敷いて座って待っていた帆澄が、風呂敷を解き中から水羊羹を取り出している。

 笹の葉で包まれたそれを皿に乗せ、二人は並んで座る。 

「美味しそうですね」

「あずきとぎが小豆を卸している和菓子屋があって、そこから貰ってきたものをさらにお裾分けしてもらった」

 帆澄は話しながら、待ちきれないように匙で水羊羹を掬うと頬張った。咀嚼する頬がもう緩んでいる。

「帆澄さまは意外と甘いものがお好きですよね」 

 しみじみとした口調に、帆澄はちょっと頬を赤らめつつ横目で初音を見る。

「男のくせに、と棟馬に言われるが……好きだな」

「ふふ、そう言う棟馬だって食べるのに」

 初音の言葉に尤もだと帆澄が頷く。その頷き方が照れ隠しなのが分かりやすく、初音はまたくすりと笑ってしまう。初めて会った頃は、八歳も歳上だからどんな会話をすれば良いのかと思っていた。宮應の人間と、こんなに打ち解けられるなんて考えてもいなかった。

 だけれど、蓋を開けてみればそんな心配はまったくなく、ここはもう初音にとって居心地の良いものとなっていた。 

 自分と似た境遇の帆澄は、言葉を尽くさなくても初音の気持ちを察してくれる。そうして一番欲しい言葉をくれるのだ。

 隣に居るだけで落ち着く。名前を呼ばれると心が弾み、不意に詰められた距離には鼓動が跳ねた。ただ、この気持ちがなんなのか初音は分からない。

「ずっとこうしていられたらと、思います」

「うん?」

 思わず口から気持ちが零れ落ちた。

 帆澄みが思案するように首を傾げたあと、躊躇いがちに口を開く。

「その言葉を、ずっと俺と一緒にいたいと解釈するのは都合が良すぎるだろうか?」

「い、いえ。そんなことはありません。そう言う意味、です」

 言いながら、顔が赤くなるのが自分で分かる。少しでも火照りを冷まそうと湯飲みを口にするも、鼓動は早くなるばかりだ。

「俺もそうありたいと願っている。ところで、帝にはまだ報告していないが、本当に宮應の性を名乗っていいのか?」

「帆澄さまさえ良ければ。お兄さまのこともありますし、無理にお願いするつもりはありせん」

「兄、か」

 帆澄はそこで暫く逡巡するも、すぐに頭を振った。

「兄が戻ってきたら、その時にまた考えよう。もしかしたら、兄の進む道はもう俺とは交わらないかも知れない」

 久しぶりに聞く、歯に物が挟まったような言い方だった。初音としてはその心の内をすべて話して欲しいところだが、家族間のことなので立ち入るべきではないと口を噤んだ。

「父は、未だに私に八重樫をついで欲しいと言ってきます。恐らく私を利用してまた政に関わりたいのでしょう。権力を得たいのだと思います。でも、私はもう父に利用されたくありません」

「そうか。初音がそう思うなら、俺も惜しみなく協力し、あなたを実家から守る」

 帆澄の手が初音に添えられた。こうやって握られるのは初めてで、初音の手のひらがじわりと汗ばむ。

 触れた手は大きく硬い。刀を握る人独特の皮膚の分厚さや豆が頼もしかった。

「私はもう一人じゃないのですね」

「ああ。改めて言わせてくれないか」

 帆澄は一度言葉を切ると、真剣な顔で初音を見つめた。

「俺の妻となって欲しい。初音がいると毎日が楽しい。妖を滅してばかりの色のない世界が鮮やかなものとなった。これからも大変なことはあるだろう。でも、どんな時も傍にいるし、いて欲しい――好きだ」

 初音の目が大きく見開く。

 初めて言われた好きの二文字が、頭を心を全身を駆け巡った。

「当主や破魔の力なんて関係ない。俺の隣で笑って怒って、時には泣く初音が好きだ。人を妖を思いやり、大きな心で受け止める初音を尊敬している」

「わ、私も。帆澄さまと一緒にいたいです。孤独も楽しみも全部分かち合って、生きていきたいです」

 ずっと「次期当主」という肩書きで見てこられた。一人の女性として扱って欲しかった。

(あぁ。どうして帆澄さまはいつも私が欲しい言葉をくれるのでしょう)

 真っ赤な顔で言葉を紡ぐ初音に、帆澄は頬を緩めた。

 そして、少し意地悪な目をすると、自分の額をコツンと初音のと合わせる。

 すぐ目の前に迫った整った顔に初音が逃げようとするも、腰に回された手がそれを許してくれない。

 鼻先がつきそうな場所で帆澄は囁いた。

「できればもう一言、欲しいんだが?」

 その声は今までに聞いたどの声よりも甘く、初音の脳を痺れさせる。心臓が口から出そうなほど早くなり、頭がくらくらとした。

「一言、ですか?」

「あぁ。初音は俺をどう思っている?」

「どうって……。一緒にいると心が穏やかになり、嬉しくて。でも、時々胸がギュッと痛み、そうかと思えば鼓動が早くなり、落ち着かなくて」

 自分でも矛盾した話だと思うが、この気持ちを何と呼べば良いのか分からない。

 でも、それが分からなくては、帆澄が手を離してくれないように感じる。

 ふいに、先ほど言われた言葉が蘇る。そうだ、それだったんだ、と初音が花が咲いたように笑った。

「――お慕いしています、帆澄さま」

 初音が辿り着いた気持ちに、帆澄は嬉しそうに破顔すると、ギュッと初音を抱きしめたい。

「夫婦になろう。始まりは勅令だったが、お互いを思いやる夫婦に俺はなりたい」

 帆澄の肩に初音は鼻を寄せる。すっ、と息を吸えば新緑のような香りがした。

 躊躇いがちに伸ばした手を帆澄の背に回すと、さらに力を込められて抱きしめられる。

 そんな二人を初夏の日差しが優しく照らしていた。



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一枝に咲く華~妖封じの娘は恋を知る~ 琴乃葉 @kotonoha_m

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